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涸れ川に、流れる花  作者: 碧檎
後日談
35/39

(9)

「……で、あの女を置いて逃げ帰って来たってわけか。そこまで行くと馬鹿としかいい様が無い」


 ヨルゴスの目の前では赤い髪の男が火酒を飲んでいる。

 帰国して一週間。体調不良を理由に自室に籠もりきり、ひたすら誰にも会わずに過ごした。だがジョイア帝との会談の報告を理由に呼び出されると、さすがに断れない。渋々顔を見せたら、彼はどうしてか既に事情を事細かに知っていた。あの皇太子からでも便りがあったのだろう。

 会談は成功し、シェリアの父も解放された。結婚の許しも無事に貰い、ケーンへの輸送路は確保で来そうで、今は占で儀式の日取りが決まるのを待っている。経過はすこぶる順調である――そんな風に報告は終わったというのに拘束されて続けて部屋に戻れない。従兄想いの彼は、シェリアとの仲違い――実際は結婚まで互いの貞操を保つために距離を置いただけだというのに――を真剣に心配している。

 あの翌日、彼女の両親に事情を説明して、穏やかにではあるが『あのような配慮は必要ない』としっかりと釘を刺した。その後ヨルゴスはシェリアの気持ちも聞かずに彼女を置いて帰国した。

 聞けばきっとアウストラリスへ戻ると言うことが分かっていたからだ。彼女の望みは叶えてあげたかった。だが、それ以上に彼は彼女に無理強いをして傷つけたくなかった。限界だったのだ。


「この分だと、お前は結婚後、確実に尻に敷かれるぞ。――いや、既に敷かれてるが正しいのか」


(それだけはお前に言われたくないんだけどな)


 ヨルゴスは表面上穏やかな顔を保ちながらも、内心ムッとする。


「メイサの尻に敷かれているお前には言われたくないよ」

「あいつの尻になら、俺は、いくらでも敷かれてやる」


 にやりと返されて思わず嘆息する。同じ事を言いそうな男が即座に思い浮かび、


「……なんていうか、お前とあの皇子は本当によく似ているね。喜んで下僕になるところとか」


 反撃すると、ルティリクスは苦い顔をした。よほど同列にされるのが嫌なのだろう。つまりは自覚があるということだろうか。


「お前が一番その傾向が強いと俺は思っているが。失うのを恐れ過ぎて、先回りし過ぎて、相手の望まない・・・・役まで演じようしているだろう?」

「何を言ってる? 僕はシェリアのためを思って――」

「そうか?」


 にやりと笑われ、ヨルゴスはぎくりとした。


「……俺もメイサのためを思って、あいつを遠くから見守ろうと思ったことがあったが、今のお前と何か違うか?」

「僕たちは、」


 違う、と言いかけて、ヨルゴスは口を噤んだ。


(昔のルティリクスと、今の僕で、一体何が違う?)


 相思相愛なのは明らかだったのに、彼女のためと自分の想いを押さえ付けていた従弟。いっそ抱きしめてしまえばいいのにと、誰よりももどかしく思っていたのはおそらくヨルゴスだったと思う。


「女は俺たちが思ってるより強い。メイサもだが、あの女だってそうだ。俺たちよりずっと強かで、図太い」

「……」


 ルティリクスの言葉に胸が音を立てて軋んだ。

 シェリアはヨルゴスとの関係が変わる事に戸惑ってはいたけれど、恐怖と真っ正面から立ち向かい、ヨルゴスと向き合おうとしていた。なのに――

 シェリア以上に怯えていたのは、ヨルゴスだ。最後に逃げ出したのも。


(全部、僕の、我が儘だ)


 黙り込んだヨルゴスに、ルティリクスが静かな声で言った。


「お前はもっと馬鹿になれ。無理をするつもりなら、方法を変えろ。ウジウジ悩むな。泣かれたら止めればいいんだ。出来るだろう、そのくらい」


 当たり前のように彼は言う。


(それが出来てたら苦労しないんだ)


 弱ったヨルゴスは普段人に言えない本音を白状する。


「彼女の泣き顔に一番弱いんだよ。僕は」


 自分でも矛盾していると思う。泣かせたくないと言いながら、あの泣き顔が一番そそられる。理性が飛びそうになる。滅多に見られないから余計になのだろうか。

 一瞬固まったルティリクスは「さすがにいい趣味だな」と眉を上げた。



 ぐったりと疲れて自室に戻ったヨルゴスは、部屋に入ったとたんどこかに違和感を感じた。ヴェネディクトに問う。


「誰か来てた?」

「いいえ」


 彼はさらりと返すが、ヨルゴスは納得いかずに首を傾げた。ヴェネディクトの表情がわずかだが硬い気がする。

 なんだろうと気にしたが、途中で暖炉の炭になった薪に気を取られた。部屋が暖かいのだ。

 数日前まではまだ暖炉を使うほどの気候ではなかった。急に冷え込んだからなのだろう。そういえばもうすぐ冬になる。人肌が恋しい季節に。


「酒を」


 ここ数日酒がないと眠れない。そう伝えているはずなのに、テーブルの上には用意がない。有能な側近にしては手際が悪い。


「もうしわけありません、すぐに持たせます」


 ヴェネディクトは頷き、外の侍従に声をかけている。


「急いでくれ。今日は疲れた」


 些細な事に苛つくのは、神経が昂っているのかもしれない。

 ヨルゴスは苛立ちを溜息で表すと、寝室の扉を開いた。


 寝室には中庭に面した窓が一つだけあった。引かれたカーテンをわざと開けると月明かりを部屋に呼び込む。

 銀色の細い光が青白い大理石の床に反射した。それはシェリアの髪の色によく似ている。

 用意された酒を煽って服を脱ぐ。寝台に倒れ込むと目が回った。どうやらいつもの葡萄酒よりも強い酒だった。主人の心中を察しての事だろうか。

 冷たい寝台がほてった体を僅かに冷やすが、体の芯は燃えるようだった。

 行き場のない熱を持て余し、まどろみの中で何度も愛しい人の面影を追った。


(いっそ他の女で誤摩化すか?)


 そんな事を考えもするが、それで誤摩化せるくらいならばさっさとやっているとも思った。

 最後に見た彼女がまなうらに張り付いて離れない。

 普通ならば艶かしくなるはずの薄い衣装にも関わらず、異世界からやって来たと思えるほどに神秘的だった。冒してはならない神聖な者にも思えた。

 だが、そんな想いとは裏腹に、彼はあれから夢の中で何度も彼女を抱いている。

 彼の腕の中でただの女になる彼女を見て、低俗な喜びに支配される。

 そう、今もまた。



「――シェ、リア」


 呻くような自分の声で覚醒すると、ベッドの上に小柄な人影があった。反射的に起き上がる。目を凝らして見ると、女官服を着ている。

 昔ならばよくあった出来事だが、メイサが女官になった頃に完全に排除させたはず。

 しかも企みの主は今さら女を送るとは思えない。つまり完全なる不審者である。


(どこから入った? ヴェネディクトは何をしていたんだ)


 出て行け。そう言おうとしたとき、女の声が響いた。


「お目覚めですか? ――追加の酒をお持ちしました」


 夢の中から聞こえたかと錯覚する。酔いと眠気が一気に冷める。言葉を飲み込んだヨルゴスはまじまじと女を見た。

 女は頭から深く布を被っていた。顔は見えない。だが確信があった。


「どうして戻って来たんだ?」


 掠れた声で問う。


「え……もうばれてしまったの?」


 残念そうな声とともに、彼女は布をとった。纏めていた銀髪が煌めきながら流れ落ちる。


「分かるに決まってる。何してるんだ。またご両親に何か言われたのか?」


 あれだけ言ったのに。憤るヨルゴスに、シェリアは「違うわ。私の意思」と首を振る。


「じゃあ……どうしてそんな心境になったわけ? あれだけ避けてたのに」

「目が覚めたのよ。――私は欲しいものをみすみす逃がすつもりはないの」


 ギラギラとした灰色の瞳が闇夜に光る。怒っている。攻撃的な視線にヨルゴスはぎょっとする。


「逃げないよ」

「嘘。私を置いて帰ったくせに」

「だからそれは――」


 言い訳しようとするヨルゴスをシェリアはぎりと睨んだ。だが、すぐに恐る恐るのようにヨルゴスの胸に身を寄せる。


「大人しく待ってるなんて無理よ。――こんな風に、忍び込んだ女に奪われたらって考えたら、悔しくておかしくなりそうだった。だから……両親は大人しく待っておけと止めたけれど、強引に説得して出て来たのよ」


 シェリアはそう言うと、彼の背に手を回した。


「シェリ、ア?」


 今までの彼女からすると考えられない仕草に、ふいに、これは本当にシェリアだろうかと疑いが沸き上がる。瞬間、彼女が顔を上げてにやりと笑った。


「そうね、私がもしあなたを他の女から奪おうと思ってるなら、その女に似た女をわざと送りつけるわ。それで信頼関係を壊させて、婚約を破棄させる。その後傷心のあなたにつけこむのよ」


 まるでヨルゴスの心の中を見透かすような言葉だった。


「…………」


 その可能性を想像して肌が泡立った。今の自分だと簡単にその罠にかかるかもしれない。

 同時に、腕の中にいるのはまぎれも無く自分の恋人だと確信出来て、妙にほっとした。この発想はその辺の女にはなかなか出来ないし、もし考えついたとしても絶対言わない。


「変装して塔に忍び込むのも、ヴェネディクトを買収してこうやって寝室に入れてもらうのも、案外簡単だったわよ? 彼、あの顔で甘い物が大好きなんですって。ジョイアのお菓子を持っていって、強いお酒を用意してって頼んだら、そうしてくれたし、ここにもあっさりと通してくれた」


 シェリアに言いくるめられているヴェネディクトの苦悩が目に見えた。主人の苦しみを知っている彼は悩んだ末にシェリアの策に乗ったのだろう。行動が不自然だったのはそういう訳だったのかと納得しつつ、ヨルゴスは問う。


「酒?」

「ここで失敗したら終わりだもの。背に腹はかえられないし、思い切って相談したの。そうしたら『理性的な方だから、お酒を飲ませて正体なくした頃に自分から押し倒せばいいのよ』って助言を貰ったわ。ああ、でも醒めちゃったみたいよね? もっと飲ませておくべきだったのかしら」

「……それ、誰に?」

「メイサに聞いたのよ」


 協力者の名を聞いて色々理解が進んだ。シェリアはアウストラリスに戻った後、あの夫妻に居場所を求めたのだろう。

 ルティリクスが珍しくヨルゴスをけしかけたのもきっとそのせいだ。


(しかし、なんて助言をするんだ)


 ルティリクスが言った『女は強か』という言葉が耳に蘇る。

 ヨルゴスは頭を抱えたい気分で、下を見下ろす。シェリアはヨルゴスの膝の上に乗ったまま、胸に頬を付けている。背に手を回したい。だが回したら最後だという確信があった。

 動かないヨルゴスに痺れを切らしたのか、シェリアは問う。


「……まだお酒が足りないの? それとも」


 やっぱり、足りないのは色気かしら。と落胆した声。ふと見るとシェリアの耳は真っ赤だった。微かな震え。緊張のせいか少し息が上がっている。


「無理はしなくていい。今なら、まだ放してあげられる」


 荒くなる息を必死で押し殺す。彼女が牙に気づいて怖がる前に、距離をとりたかった。


「無理なんかしてない。――わからない? 私も、あなたが欲しいのよ」


 震える声でシェリアは言うと、女官服のボタンを自ら外し始める。白磁のような肌が覗き、目眩がした。


「駄目だ」

「どうして?」


 駄目な理由がいくつかあったはずなのに、今、ヨルゴスは一つも思い出せなかった。

 それでも反射的に遮ろうとして、手に触れる。

 シェリアが顔を上げる。

 潤んだ瞳と目が合った直後、ヨルゴスは完全に理性を飛ばしていた。


「——覚悟して。多分、優しくは出来ないから」


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