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涸れ川に、流れる花  作者: 碧檎
後日談
34/39

(8)

 その数日後の事。秋晴れの空の下、ヨルゴスの一行は北部ケーンに到着した。

 専属の女官であるシェリアが同行するのは当然の事なのだが、それまで一緒だったスピカやシュルマはもちろん付いて来ない。どれだけ心の支えになっていたかを思い知らされ、そんな心境の変化にも自分で戸惑った。

 父ダモンは何を企んでいるのか、道中の宿でシェリアをヨルゴスの部屋に行かせようとしただけでなく、それが失敗するなりヨルゴスとシェリアを二人きりで馬車に押し込めようとした。ヨルゴスが『今後の話をしたいので』とやんわり父に同乗を頼んだため、企みは潰えたが。

 寝室に入らなければ関係ないことだと思い込んでいたが、馬車の中でも可能なのだと、この間の夜の彼の行動から分かってしまった。ソファの上で行われた行為を思い出し、一人赤面する。

 あのままシェリアが泣かなければ、彼と深い仲になったのかもしれない。その想像は恐ろしくもあるけれど、同時に酷く甘美でもあった。

 一線を越え、愛する男のものになったメイサやスピカが幸せそうなのは、この恐怖を乗り越えたからかもしれないと思えるのだ。

 


 馬車から降りるなりヨルゴスはケーンの田園景色を珍しそうに眺めていた。

 稲は刈り入れ時を迎え、稲穂が風になびき黄金のように煌めいていた。大陸でも珍しい風景は、長年の灌漑政策の賜で、このおかげでジョイアの民は飢えることがない。

 この時期には田に水はない。だがその上を走り抜けた風は水の匂いを多分に含んでいる。

 ヨルゴスは不思議そうにぐるりと辺りを見回した後、田の向こうに視線をやった。眼差しの先には、大河プラキドゥスがあった。ミアー湖との境界が分からないほどに広い河口の対岸にはティフォン国の森や建物の影がうっすらと見えた。


「――豊かな土地だ。周辺国が目の色を変えるのがよく分かるね」


 呟くヨルゴスに、父ダモンが苦笑いをした。


「今年は豊作なのです。――いつもはこうは行かないのですよ」


 冷夏や長雨となると不作に苦しむ。ここ数年不作が続き、シェリアは随分追い込まれたが、まるで苦労を労るかのように大地は実りを与えてくれた。

 それを聞くと、ヨルゴスはなぜか近くにある稲をじっと観察しはじめる。かがみ込んで、土を調べ、そして稲の茎に触れる。

 そうして籾を採取したり、土を採取したりと、いつまでもその場を動こうとしない彼に、ダモンが焦れたように促す。


「冷えてきました。お風邪を召されてはなりませんし、どうか室内へ。妻が待っております」


 妻という言葉に目的を思い出したのか、ヨルゴスは反応を示し、ようやく室内に入る。


 ヨルゴスがこうやってケーンを訪れた理由は二つ。一つはプラキドゥスの視察だ。川幅から、水位、氾濫の記録や治水の状況など、全ての詳細な記録は代々管理をしているパイオンにあるのだ。

 そしてもう一つの目的は――シェリアの母、アレクシアに会う事だった。



 母アレクシアは外宮管理官という職に就いていた。これは、皇帝や皇太子とそれぞれの正室および側室との予定を調節するというものだ。

 つまりは閨の調整係と言ってしまえる。皇帝が多くの側室を持っていた時代には多大な権力を持っていたらしいと聞くが、現帝も皇太子も一人の寵姫のみに通うような溺愛ぶりで、その権限は現在地に落ちている。

 だがアレクシアはその小さな権限を最大限に利用し、賄賂を受け取り一人の姫を優遇しようとした。そのあげくに収賄で捕縛された。シェリアが妃候補として皇都に滞在していた時の事である。実の娘がいるというのに、他の娘を優遇するほどの大金を積まれ、目がくらんだそうだ。南部の裕福な家から嫁いで来た母は贅沢に慣れていた。抑えていた浪費癖が出たのだろう。父もシェリアも目先の欲にくらんで勝手な行動をした母に憤慨し、それ以来しこりのようなものが残っている。


 ヨルゴスを囲んだ晩餐の後、その母が久々にシェリアと二人きりで話をしたいと言ってきた。

 彼女の部屋には何か見慣れぬ大きな箱が置かれていて、それを気にしながら椅子に腰掛けると、母アレクシアはにこやかに茶を差し出し、侍女を下がらせた。


「お父様と、殿下からお話を伺ったの。あなたたちの結婚の事。本当に、おめでとう」


 父と同じように不思議がられるかと思っていたら、母はすんなりと受け入れていたようだった。


「あなたには重いものを背負わせ続けて来たから……こうして素敵な方と一緒になることができて本当によかった。シリウス殿下やスピカ妃殿下にも感謝しないとね」

「な、なんで?」


 感謝という言葉がこの家で出る事はほとんど無い。耳慣れぬ言葉に驚愕していると、母ははにかんだ。


「だって、皇太子殿下が側室を誰彼構わず娶るような方だったら、あなたはヨルゴス殿下と出会えなかったでしょう。スピカ妃があれだけの寵愛を独り占めしたからこそ、今のあなたの幸せがあるのだもの」

「……まあ、そういう見方もあると言えばあるけれど」


 楽観視し過ぎていないか。昔から少々夢見がちな母の言葉に、シェリアは少しだけうんざりする。

 母はシェリアのそんな様子も気にせずに立ち上がった。そしておもむろに大きな箱にかけていた布を取り払う。


「これが無駄にならなくて、本当によかった」

「え、これ」


 箱の中に詰まっているものを見て、シェリアは目を見張る。


「あなたのために作った衣装よ。本当はね、皇太子妃になったらたくさん必要だからって、準備させていたの。あなたに似合うものを色々揃えていたら、ついつい楽しくってね。ちょっと使い込んでしまって。父様には内緒よ?」

「……母様」


 母が何に金を使っていたのか今更ながら知って、シェリアは愕然とする。


「あなたはせっかく可愛らしいのだもの。着飾らないと勿体ないでしょう。それに宮で肩身の狭い想いなんかさせたくなかったのよ」


 そこで母は衣装箱の中身を物色しはじめた。

 シェリアにあわせて誂えたのがすぐに分かる、淡い色合いの布が次々と溢れ出すのを見て、鼻の奥がつんと痛む。


「ほらほら、ちょっと当ててみて」


 だが、母が数あるドレスの中から出して来たのは、なぜかレースとリボンをふんだんに使って仕上げられた薄桃色の寝間着・・・だった。いや、よくよく見ると、衣装箱の中のドレスと寝間着の数はほぼ同数に思えた。中には下手すると下着にも思えるくらいに生地の薄い物もある。


「……かあさま? これなに?」


 感動に緩みかけていた頬が一気に引きつった。


「やあねえ。決まってるじゃないの。閨で他の側室と勝負するんだから、衣装にもこだわらなくてはね」

「いや、あの、殿下は側室は娶らない……と思うんだけれど」


 よくよく考えると、そんな約束は貰っていない。メイサやスピカが夫の愛情を独り占めしているのを見ていたから、あれが当たり前だと思いかけていた。想像しただけで胸がキリリと痛む。

 そんなシェリアに母は呆れた顔になる。


「もしそんなことを言われても、最初だけの睦言と思っていなさいね。殿方なんて本当にどうしようもなく浮気者なのだから。それをどう引き止めておくかが女としての力量なのよ。そうねぇ――あなたは華奢だから、その分衣装も凝らないと。ほら少しくらい脱がせにくいものの方が殿方は燃えたりするの」


 そう喜々として言いながら、母は寝間着の構造について力説を始める。


(――こ、この人たち、どこかおかしいんじゃない?)


 そう思ったが、よく考えるとシェリアも詳細を知らない時は普通にそんな話をしていた気がする。そして昔の職業柄、母がそういったことに詳しいのも当たり前であった。


「……あの……殿下は、結婚までは――っておっしゃっていて」

「あら? 珍しく純情な方なのね。それじゃあ、余計に頑張らないと」


 母はうーんと考え込むと、何か書棚から本らしきものを取り出してシェリアに手渡した。三冊渡された本の緑色の背表紙には『窈窕ようちょうたる妻の心得』とある。どこかで見たような――とシェリアが首を傾げていると、母が説明を始めた。


「これには様々な殿方の歓ばせ方が書いてあるわ。宮中で読まれる本なのだけれど、実は上級編まであるの。代々妃は皆もっていらっしゃって、お付きの侍女がこっそり複写したりして広がっているのよね――あ、でもスピカ妃殿下には敢えてお渡ししなかったけれど」


 あの溺愛ぶりはさすがに妬ましかったものねえと微笑む母だが、シェリアはパラパラとめくった書の内容に釘付けになってほとんど聞いていなかった。


「こ、れ」

「あら。あなたの部屋にも初級編はあるでしょう?」


 そう言われてやっと思い出す。確かに読んでおきなさいと言われた本の中にあった。タイトルの厳つさ、そして胡散臭さに避けていた本の一冊だ。窈窕とは美しく、しとやかな様の事である。まさかこんな内容だとは思わなかった。

 初級編の内容はシュルマの講義そのままだった。

 そして中級編はさらにいかがわしい。男を誘う仕草から、酒や媚薬などの効果的な使用方法に至るまで書かれている。


(これのどこが窈窕たる妻なわけ!)


 シェリアは叫びたかったが、声は干上がった喉に張り付いた。

 生唾を飲み込み、最後の上級編を恐る恐る開いたシェリアは、中にあった丁寧な挿絵に頭に血を上らせていた。



 *



 ひやりとしたものが額にのせられて、シェリアはぼんやりと目を開けた。

 目の前には鋼色の髪。そして暖かな茶色をした瞳があった。


「気が付いた? また倒れたみたいで、診察を頼まれた」

「……殿下?」


 掠れた自分の声が耳に響き、急激に頭が働き出した。

 ここは? と見回すと、壁やカーテンの色だけが淡い桃色だというだけで、余計な家具のほとんどない殺風景な部屋だった。シェリアの部屋だ。

 状況から両親の企みを理解して真っ赤になる。


(どうして、彼に看病を頼むのよ!)


 さすがに医師としては病人を放っておけないだろう。シェリアもヨルゴスも二人きりになるのを避けているのは知っているだろうに、あくまで両親は結婚を急ぐのだ。


「よく倒れるのは貧血じゃないかな。もっとしっかり食べないと駄目だ」


 ヨルゴスは冷静な声でシェリアに言い聞かせる。


「も、う、大丈夫だから。ついてなくて大丈夫だから。侍女を呼んで、あなたは自分の部屋に」


 目を合わせられず、シェリアは彼に背を向けるとベッドの中で丸くなる。

 ヨルゴスは小さく息をつく。


「それがさ。外から鍵がかかっているみたいで。侍女を呼んでも誰も来ない。君のご両親に気に入られたのは嬉しいけれど、少し困ったことになったかな」

「…………」


 シェリアは何も言えずに俯くだけだ。

 そういう事ならば、おそらく両親は朝まで二人を部屋から出してくれないだろう。


「だから窓から出ようと思ってる」


 ヨルゴスは窓を指差す。


「ここ、二階よ」

「らしいね。でも傍の木を伝えば下の階に降りられるみたいだし、それしか選択肢がなさそうだし」


 ヨルゴスは深刻な声を出す。シェリアは少し悩んだあとに、短く言った。


「床で寝なさいよ」


 ヨルゴスは一瞬絶句した後、やがてくすくすと笑い始める。


「…………そういう時は、普通は『私が床で寝るわ、あなたがベッドを使って』とか殊勝な事を言うもんだよ」

「もし言ってもどうせあなた、『僕が床で寝るよ』とか言って返すんでしょう。手間を省いたのよ」

「でもそのやり取りを飛ばしたら何か色々台無しだ。まぁ、それでこそ君って感じはするけれど」


 シェリアはムッとする。


「まるで、恋愛の駆け引きに長けた男みたいな言い草ね。たくさんの女の人をものにして来たみたい」


 軽い反撃のつもりだった。しかし、その言葉にヨルゴスは顔を曇らせ、そして僅かに怯えたような顔をした。


「……君は、僕の過去を、気にする?」


 とたん、シェリアは悟った。今シェリアが言ったように、ヨルゴスは女性との恋愛経験がそれなりに豊富なのだと。


(そういえば、最初に会った時にも言ってたじゃない。『女の子を慰めるのは上手』って)


 そうしてシェリアを気軽にベッドに誘ったのだ。

 思い出してずしんと胸が重くなる。


「……別に気になんてしないわ。あなたは王子だし、どれだけ経験があっても、おかしくない、もの」


 口ではそう言いながら、ヨルゴスが過去に誰かと恋をしていたという事実にひどい衝撃を受けていた。

 彼がメイサに出会う前の事など考えた事はなかった。メイサとの間には何もなかったと信じているが、よく考えると二十六の男が全く女を知らない方がおかしい。この人は、王子なのだ。花を捧げようと言う人間は、当然多い。

 そして彼は実際手慣れていた。簡単にシェリアの衣服を脱がせ、気が遠くなりそうな熱を与えた。きっと相手は一人や二人ではないだろう。

 絶望感。だが、その後にやって来たのは、火のような嫉妬心だった。


(私、どうしてこんなに悔しいの)


 気にしても仕方がないのに、負けず嫌いなシェリアは彼の過去の女と張り合わずにいられない。彼女たちが知っているヨルゴスを、シェリアはまだ知らない。その事が泣きたいくらいに悔しい。

 口を開けば嗚咽が溢れそうで、シェリアは唇を引き結んだ。


「シェリア」


 ヨルゴスはシェリアの憂いを敏感に感じ取ったらしい。悲しそうに眉を寄せる。


「僕が本気で欲しいって思ったのは、君が初めてだよ」

「嘘はやめて。メイサはどうなのよ」


 気丈に反論したものの、声は湿っていた。思わず上ずった声があがると、ヨルゴスはシェリアに腕を伸ばしかけたが、結局は触れる前に元に戻した。

 そして苦しげにため息をつく。


「彼女は女性としてちょっと特殊だからね。でもずっと夜に一緒に仕事をしてたのに、平気だったよ。少なくとも一緒に部屋にいるだけで辛いなんてことはなかったかな」


 君みたいにね、とヨルゴスは言いながら立ち上がる。そして窓の方へと移動した。


「どこへ行くの」

「外だよ」


 本気だったのかとシェリアは驚き、ベッドから抜け出した。

 バルコニーに出たヨルゴスに追いすがる。


「床が気に入らないって言うの――じゃあ、ベッドは譲ってあげるから。お願い、ここに居て。外は寒いわ。それに、その木は危ないの。私、昔木登りして落ちたことがあるの」


 それはシェリアの運動神経が絶望的にないからではあるけれど。

 だが、もし彼が木登りが得意だったとしても、大人の男性の体重に木が耐えられるかなど分からない。外の木は桜の木だった。桜は折れにくいが、樹齢百年ともなる老木となると話は別だ。

 冷たい秋風がシェリアの髪を舞い上げる。手すりに片足をかけていたヨルゴスが振り返り、僅かに目を見張ったあと、シェリアからそっと目を逸らす。

 怪訝に思って自らを見下ろす。膝上丈の透けるような生地で出来た服にぎょっとした。いつの間にか例のあられもない寝間着に着替えさせられていた事を知り、慌てて後ろを向いて自分を抱きしめた。


「……床でもどこでも同じなんだ。部屋にいる限り、僕は君と一緒にベッドに入る事ばかり考え続けなければならないからね。――少し距離を置こう。僕もちょっと頭を冷やしたいし。いっそ、君はここに残ったほうがいいかもしれないな」


 シェリアが思わず振り返って手すりにしがみついた時には、ヨルゴスは器用に枝を伝って下におりているところだった。


「待って――」


 シェリアは虚脱感に耐えられずにその場にへたり込んだ。


(どうしよう)


 彼が離れていく。


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