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涸れ川に、流れる花  作者: 碧檎
本編
15/39

(3)

 翌日の午後、シェリアは初めて仕事を休んだ。


(お腹が……痛い)

「うーーー」


 体を折り曲げてシェリアは唸る。昨晩から朝まで苦しんで、もうお腹はほぼ空だったはずだけれど、今だ下腹がぐるぐるとおかしな音を立てて唸る。うら若き乙女にあるまじき音だった。

 メイサが今まで通りにと昼食時に誘いに来たが、腹痛を理由に断って部屋に籠った。こういう時は食べないに限るのだ。


「――大丈夫? もしかしてお菓子、腐ってたのかしら?」


 そのメイサが今、心配そうにシェリアを覗き込んでいる。

 彼女は結局昼食も取らずに、シェリアに付いて女官部屋に上がり込んでいた。マルガリタがいるからと追い返したが、心配だと居座ったのだ。

 未だ侍女が腰を痛めていることはどこからか耳に入っていたらしい。


「殿下にはお知らせした? 殿下は優秀なお医者様だから、すぐに特効薬を作って下さると思うわよ?」


 シェリアは弱々しく首を振る。言えるわけがない。昼休みの後もヨルゴスの部屋には戻らなかったくらいなのだ。さすがに異性に情けない音を聞かせられないから。ヴェネディクトを通して伝えてもらったが、理由は風邪だと適当に誤摩化した。

 昨日おやつに出された火餅と黄砂糖団子は全部で八つだった。ヨルゴスに一つ残し、メイサのところに半分持って行こうとしたのだが、訪問できなかったためそのままシェリアの腹に収まった。

 全部で七つの菓子を、おやつの時間と夕食後の二回に分けて食べた。

 餅も団子もすぐに固くなる。日持ちしないことはよくわかっていたのだ。

 滅多に食べられないと思うと、目の前で駄目になっていく菓子を捨てることはどうしてもできなかった。結果は目に見えていたというのに。


「こんな恥ずかしい症状を言えるわけないでしょう」

「ああ――、そうね、そうよね。特に殿下には言えないわよね」


 メイサがうんうんと妙に嬉しそうに頷くので、昨日解こうと思っていた誤解を解く機会だと病床のシェリアは思い出した。

 メイサはなぜかあのことを未だ真に受けている。でないと、昨日みたいな発言が出て来るとは思えなかった。


「え、ええとね。勘違いしないで。――あれ、嘘だったのよ」


「あれってなにが?」と、問われても事が事だけに言いにくい。シェリアは弱りながらも答えた。


「あの、私が、ヨルゴス殿下を……好きとか言ってたじゃない? そのこと」


 メイサはきょとんとした顔になる。


「え。そうなの? どうしてそんな嘘を?」

「……あなたの油断を誘おうと思ってたのよ。狙いが違えば油断するんじゃないかって思ったから……ええと、ごめんなさい」


 正直にぶちまけて謝ると、胸の内で重しとなっていた全ての秘密が消え、心が軽くなった。少し勇気は要ったが、メイサがこの小さな嘘で怒るとは今更思えなかった。


「あぁ……そうだったの」


 メイサは予想通り怒りはせず、目を丸くしたまま感心したような声を出す。しかし、直後、首を傾げて言う。


「でも、殿下は、あなたのことをお好きでしょう? だから私、すぐに纏まってしまうと思っていたのだけれど」

「は?」


 シェリアは逆に驚かされて、一瞬体の苦痛を忘れた。


「そんなわけないわよ。だって私、『負け犬』って言ったのよ? 嫌いはしても好きってことは有り得ない。大体、殿下はあなたにプロポーズを断られたばかりだって言うのに……一体何言ってるのよ!?」

「そ、それはそうなんだけれど。でも、この間ルティの部屋で、ええと……」


 メイサが僅かに顔を赤らめて口ごもるのを見て、シェリアははっとする。あの“口づけ”のことを言っているのだと気が付いたのだ。


「あ、あれは、違うから! 本人も『うるさい口を塞いだ』って言ってたし!」

「そうかしら? 殿下はかなり誠実な方だし、誰にでも口づけるようなことはなさらないと思うのだけれど……」


 少し難しい顔をするとメイサは言う。


(そんなこと、言わないで! 今後気まずくなっちゃうでしょ!?)


 心の引き出しに仕舞い込み、なかった事にしようとしていた事を引きずり出されてシェリアは狼狽えた。


「私は、と、とにかく、完全に恋愛対象外だもの」

「あなた、こんなに可愛らしいのに?」


 心底不思議そうに見つめられ、羞恥でシェリアの反論の声が裏返る。


「ど、どこが!? 私、自分のことくらいよくわかってるもの。そこそこの外見だとはわかってるけれど、所詮“中の上”くらいだし、自惚れたりはできないわよ!? 大体、あなたには言われたくないのよ!」

「え、どうして?」


 未だ自分の魅力を理解できていないメイサに説明する気力など、シェリアには残っていない。それに彼女を誉める事は、彼女と正反対の自分を貶めるのと同義だったりする。


(あー、もう。王太子にでも教えて貰えば!?)


 少々腐り出したシェリアはメイサを追い出すことに決めた。ただでさえ体力を使い果たして余裕がないのに、相手などしていられない。


「どうしてどうして言わないの! ――いいから出て行って。もう平気だから!」


 メイサの眉がしゅんと下がったのを見て、シェリアは慌てて付け加える。


「あなたすごく忙しいんでしょ!? 結婚式の準備で! 仮縫いも終わってないんでしょう?」

「か、仮縫いはカルダーノで済ませて来たし、あとは届くのを待つだけで……準備と言っても、そんなに大変じゃな――」


 反論するメイサをシェリアは遮った。


「じゃあ、式次第の打ち合わせとかは? 賓客の顔と名前は覚えた? 国ごとの挨拶の仕方は? 主役なんだから間違うわけにいかないわ。王太子殿下にまた叱られるわよ!」

「え、ええ、まあ。でも……」


 まだ渋るメイサにシェリアは励ますように笑顔を作る。


「私なら大分落ち着いたから。本当に大丈夫だし! 体力使ったから寝たいのよ!」

「……じゃあ、また夕方に来るから……、何かあったら遠慮なく呼んでちょうだいね」


 メイサはようやく折れ、名残惜しそうに部屋を出る。ほっとしたシェリアはひとまず横になって目を瞑る。とたん、寝不足の体が限界を訴え、まどろむ暇もなく眠りに落ちた。




 昼寝というのは泥の中に身を沈める気分にもなる。夜眠るのと違って、なかなか浅い眠りから覚醒できないのだ。夢とうつつの境は赤く焼けた色をしていた。その中で異質に輝くもの。ぼやけた視界の端に映るのは景色と同じくらいに赤く染まった髪だ。


(メイサかしら? 夕方に来るって言ってたけれど……)


 寝惚けたままのシェリアに赤色の固まりが近づいた。目の前に近づいた髪が頬を撫で、シェリアはくすぐったさから頭を押しのけようとする。指に髪が絡まるが、想像したよりも固く、そして短く、すぐにシェリアの指をすり抜けた。


(あれ? メイサ……じゃない? じゃあこの髪の色って――)


「……太子殿下……?」


 掠れた声で呟いた直後、シェリアは自分の声で目を覚ます。そして自分が予測した事態があまりに有り得ない事に気が付いて飛び起き、ベッドの柱に背を打ち付けて低く呻いた。


「………った――」

「なんだ。寝惚けてたの? 誘ってるのかと思った」


 背中の痛みと聞き覚えのある声にようやく頭がはっきりして来た。同時に彼が最初に思い浮かんだ人間とは人違いであったこと、そしてこれが現実だった事に心底ほっとした。


「……どうしてあなたがいるわけ。淑女の部屋に断りもなく」


 混乱する頭を叩き、シェリアが気を取り直して尋ねると、


「メイサが『お医者様が必要なのです』って、知らせてくれたんだ」


 夕日に赤く髪を染めたヨルゴスは淡々と答える。


「で、でも正式には医師じゃないでしょ、あなた。王宮医師を呼ぶべきでしょ、そこは」

「せっかくの厚意に文句ばかり言わない。じゃあ、どうして自分で医者を呼ぶなりしないんだ?」


 シェリアは沈黙した。


「餅を食べ過ぎてお腹を壊したなんて理由は、プライドが邪魔で言えなかったとか?」

「…………っ」


(ばれてる……!)


 顔を強ばらせて黙り込むと、ヨルゴスは難しい顔を止めて遠慮なく吹き出した。


「いくら好きでも、さすがに七つは食べ過ぎだと思うよ。僕は半分でも胃にもたれた」


 彼は鳩尾をさすり、そしてテーブルの上に置いていた薬瓶を差し出す。


「というわけで、大人しくこれを飲んで」

「何これ」

「僕が調合した薬。よく効くよ」


 シェリアは蓋を開けて顔をしかめた。生臭く、苦い臭い。シェリアの嫌いな臭いだった。


「要らない。色と臭いが怪しいもの」


 断ったが、ヨルゴスは引き下がらなかった。華やかな笑みを浮かべると、瓶をシェリアの手から取り上げる。


「飲ませて欲しいのならそう言えばいいよ?」


 ずいと顔を寄せられて、シェリアは背を逸らした。近くで彼の瞳が鋭い光を放ち、胸が激しく音を立てだす。この距離は危険だ。彼と目を合わせることさえ久しぶりだったシェリアはひどく動揺した。


「の、飲ませてって?」

「お望みなら、口移しっていう方法があるけれど?」


 甘く意地悪な笑みに血が逆流する。


「ば、馬鹿なこと言わないで! 冗談じゃない!」


 容赦なく叫ぶと、シェリアは慌てて瓶を奪い取って呷る。喉がカッと熱くなる。胸の辺りで澱んでいた不快感が一掃されるのがわかり、シェリアは目を見開いた。


(あ、これ、すごい)


 薬の見事な効果に思わず顔を輝かせてヨルゴスを見たが、シェリアは言おうとしていた感嘆の言葉を喉元で詰まらせた。


「効いただろう?」


 ヨルゴスはいつものように微笑んでいる。しかし笑顔が苦しげに曇っているのを感じた。僅かな既視感を頼りに思い出すと、実験小屋に残るメイサの名残を目で追う顔と重なった。


(……なんで、今さらそんな顔してるの?)


 昨日ヨルゴスがメイサに振られた時、シェリアは彼が泣くのではないかと思った。唆した責任も感じたし、どうやって慰めればいいのだろうと真剣に心配したのだ。

 だが、彼は意外にも清々しい顔をしていて、その後話した時も吹っ切れているような顔をしていて……シェリアは拍子抜けした。


(どうして)


 理由を考え始めたとたん、耳に昼間に聞いたメイサの言葉が蘇って、頬を染めさせる。


『でも、殿下は、あなたのことをお好きでしょう?』


(違うって――! そんなこと、あるわけない)


 振り払おうとすると、さらにメイサの言葉が追いつめた。


『殿下は誠実な方だし、誰にでも口づけるようなことはなさらないと思うのだけれど……』


 声に先ほど冗談で彼が言った言葉が被り、心臓が大きな音を立てた。


『――口移しって言う方法があるけれど?』


「顔が赤いけれど、もしかして熱もある?」


 つ、と長い指先がシェリアの額に触れた。意外に大きく、筋張った手がそのままシェリアの小さな額を覆う。


「や――」


 振り払おうとしたけれど、思わぬ真剣な眼差しに圧倒される。穏やかな表情の下から、滅多に見ることのない男の顔がちらりと覗く。シェリアはここが寝台の上だと思い出し、体を強ばらせた。


「じっとして」


 いつしか日が完全に沈み、赤く染まっていたヨルゴスの髪が元の鋼色に戻っていた。

 大地の色の瞳に捕らえられて身動きができない。それは王太子と同じ色。そして、王の血を引いた二人の顔立ちはやはりよく似ていた。だが、王太子に見つめられた時に、果たしてこんな泣き出したいような気持ちになっただろうか。

 シェリアはヨルゴスの目を覗き込みながら、しばし自分の心と向かい合った。

 音のない部屋でシェリアの耳には自分の胸の音だけが響いていく。

 どのくらいの時間見つめ合っていたのか。シェリアにはひどく長く感じられた。

 やがて額に触れていた手が離れる。


「――少し熱があるかもしれないな。念のため、熱冷ましも持って来るよ」


 ヨルゴスが自嘲気味に笑って立ち上がるまで、シェリアは彼から目を離せなかった。


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