~八月三十一日~ 沖の大凧
沖の大凧
前日の夜はなかなか寝付けず、目を覚ましたのはもう正午過ぎであった。
布団を跳ねあげ、転がり込んだキッチンで朝食を口に押し込み、おかずを含んだまま洗面所で髭を雑に剃って、しかし歯磨きだけは入念にすると、手のひらを当ててしつこく口臭をかいだ。一階を回って、父が居間で昼寝してるのを確認してから二階へ戻り、ホコリっぽいクローゼットから、中でも無難そうなチノパンツとブレザーを引っ張り出した。しかし前に着たのはいつの事であったか、腿が太くなっていてパンツは入らず、クリーニングのビニールを引き裂いて羽織ったブレザーも余裕がないばかりか、生地が厚手で暑苦しい。姿見へ立てば、腰回りがパンパンに張って、中年が無理しているようである。
しかし、みっともないと思いつつも、代わりはなく、とりあえずパンツはそもそも入らないので、春ごろ普段着にしていたジーンズで妥協した。ジーンズをはいて、もう一度自分を見ると、今度はブレザーの下にTシャツ一枚というのが、なんだか気取って見える。ワイシャツを求めて引き出しを開け閉めしたものの、高校に着ていったものしかなく、止むを得ず廊下をまたいで隣の物置部屋の、父の箪笥を当たったが、小柄な父の物は一目で自分より小さかった。
日頃から人前に出ず、服装に無頓着である内に、衣服の大半は、なくなってるか、着れなくなってるかして、思っていたよりもはるかに少なく、何より余所行きの服装がまるでなかった事に愕然とした。
服などなくなるものではないし、持っていればどうとでもなる。そう高を括っていたが、その実オシャレもまたトレーニングのようなもので、何の面白味もなく自信の持てない洋服の並びに、我ながら情けなく思うのであった。
結局、ワイシャツは諦めて、ジーンズにグレーのブレザー、白地のプリントTシャツという出で立ちで、紺の靴下をはいた。
居間を忍び足に通り抜けて、下駄箱の靴を物色したが、やはりここにも種類はなく、いつもの薄汚れたスニーカーで、こっそり飛び出した。
もわりとした熱気が待ってましたとばかりに絡みついて、しかし今日は皮膚を刺すようなのと違ってどこかぬるく、微かな清涼感さえあった。青く透かした薄い雲に隠れた太陽が朧に滲んで、モダン小路のケヤキ並木に入ると、屋内のように涼しかった。久々に熱射から逃れて、街は豊かに潤んで光沢を放ち、顔をあげれば、葉の連なりが黒々として、青臭い緑の深奥に立った気になる。
喫茶トゥルーマンはそんな濃い陰の下に、朽ちた大樹のごとく佇んでいた。ごつごつした白壁に、紅樺色のレンガをあしらえて、アーチ型の窓の奥は黒い洞穴が広がっていた。
大はそぞろに一旦は通り過ぎたが、中はやはり暗くて、不安なまま渋々、ドアノブに手を掛けた。升目に区切ったガラス窓から諦めずに覗くも視界が狭く、しかも戸を押しているのに開かない。もしや休みなのではと恥ずかしくなったが、ぐいと力を込めると、途端にドアの抵抗はなくなって、カランカランと呼び鈴がけたたましい中、放り出される形でカウンターの前に立たされた。
頭頂は禿げ上がって横鬢が白髪の店主は、カウンターの奥でペイズリー柄の皿を磨いていて、純白の受け底がてらてらと滑らかであった。拭く手を止めて、太い黒縁メガネが大をじっと見て、いらっしゃいませと言うでも案内をするでもなく、個人店らしい気ままな態度である。久しく他人と接していないのと、こういった喫茶店の勝手を知らないのとで、大は佇んだまま途方に暮れていると、どうぞ、と布巾を持ったまま、フロアへ促した。
「あ、はい」
おずおずと頭を下げて、テーブル席を見渡したが、アンバーライトが淡い光の店内は誰もおらず、しんと眠ったようであった。アーチ型の窓の裏側からは昼下がりの通りがはっきりと見えて、慣れない心細さから、窓外が恋しく感じた。
店内奥は壁一面総ガラス張りで、臙脂の分厚いカーテンの向こうは、薄暗い店内よりもさらに暗かった。黒々とした小さな木々がガラス窓の上部を豊かな葉でいっぱいにして、根元には岩がごろごろと並び、張り付いた苔の湿った緑が鮮やかで、傍らをか細い小川が縫っている。木々のすぐ後ろは見えない闇の壁があって、しかし天井は吹き抜けなのか、分厚い葉の隙間から、微かな日差しがちょうど小川に当たって煌めき、小さな原生林が生き生きとしていた。
大はその原生林を背に一番奥に座った。やはりおっかなびっくりに腰を下ろしていたのだが、椅子にようやく落ち着いたその途端、ボーンボーンと入り口の壁掛け時計が大きな音を立てて、思わず立ち上がりそうになった。
「ご注文は?」
と、店主がおしぼりとお冷やを置いた。
「えっと…」
慌てて分厚い皮のカバーを脇のスタンドから引き抜くも、モカだのマンデリンだの、さっぱりわからない。
「お決まりになりましたら…」
「あッ!アイスコーヒーで」
待ちかねて、店主が切り上げようとするのを縋るようにして、大は注文した。この機を逃したら、自分から話しかけられない気がして、銘柄の書いてなかったアイスコーヒーに急いで決めてしまった。自分と店主との間に得体のしれぬ薄い膜を感じていた。それは長く世間から離れて対話に慣れぬせいなのか、世間に対する引け目がそうさせるのか、しかし、その膜は明らかに世間とのズレであった。
「かしこまりました」
店主は固い顔を下げて、カウンターへ戻って行った。メニューの立てかけにはナプキン立てもくっついていて、ナプキンに、川杉珈琲店トゥルーマンsince1980と青字で書いてある。あの店主が川杉さんなのであろうかと、落ち着きなく考えながら、しかしもう二時は過ぎてしまったけれど、リルは一体どうしたのだろう、と、大は壁掛け時計が知らせていたのを思い出した。
もしかして、からかわれたのではなかろうか。顧みれば、こんなニートと誰が会いたいと思うであろうか。弟まで巻き込んで、あまりにもしつこいので、その場しのぎに騙したのではなかろうか。しかし、彼女は一度会うべきと言ってくれた。やはり単に遅れているだけかも知れない。そんな邪推をすべきではない。と、ついうがった見方をしてしまう癖を叱った。
カウンターの方では、熱湯がジョッと白い息を吐いていた。アイスコーヒーはまだかと大が眺めていると、カランカランとドアが鳴った。
―――リルがついに来た!
入ってきたのは小柄な女で、涼しそうなシースルのカーディガンに、明るいピンクのワイシャツが中に透け、俯きがちな銀縁のメガネが店の照明にきらりと光った。色白に童顔で年齢がはっきりとしないが、髪の色を除けば、楽園のリルによく似ている。
しかし、大の待望の眼差しはその姿にぶつかった時、どうしてこんなところにという驚きで、或いは自分の眼を疑って、そのまま動けなくなってしまった。偶然にも居合わせただけであって、待ち合わせ相手ではないはずだと、そんな考えは絶望的であるのに、それでも否定したくて、違う席へ向かう事をひたすら願っていた。
「あぁ!どうもどうも」
女が頭を下げたのに、右手にポットを持ったまま、店主は懐かしい声をあげて、どうやら知り合いらしかった。親しげな微笑を浮かべて、軽い挨拶を交わしてから、女は大を見て、店主へ向けていた微笑をそのままに、まっすぐテーブルへやって来た。
「ただいま」
挨拶する女の第一声に、大はぎくりとした。
「座っていい?」
と、女は微笑みを絶やさず、向かいの背もたれに手をかけて、
「…はい」
大はからがら小声で答えた。ハンドバッグを隣に腰かけて、華奢な体が無邪気なしなを作って、のぞき込んだ。
「お久しぶりね。元気してた?」
「…どういう事なんですか?」
大のあまりに暗い顔つきが、女の微笑にも移りそうに曇ったが、
「やっぱり名乗った方がいいかな?こんにちは、リルです」
と、気を取り直して明るく名乗ると、小さく会釈した。
「だから!なんであなたがその名前を名乗るんですか?新原先生!」
大はおどろおどろしく声を荒げた。
目の前の女性を大はうんざりする程、よく知っていた。新原弓子先生、大がひきこもった高校三年の、何度も自宅へやって来た担任であった。
「はいはい!今日はそういうのは無しにしましょう。先生としてではなくて、ネットのお友達として来たんですから」
と、弓子は先生らしくさえぎって、
「すごい汗だけど、大丈夫?上着脱いだら?」
気づけば大の顔は汗まみれで、ブレザーの脇は濃くにじみ、ぬるぬるとしていた。大は乱暴に顔の汗を拭うと、上着を隣の背もたれに投げて、やけっぱちに黙り込んだ。
「それにしても、今日で最後なんだね。出会った頃とか覚えてる?私、よくわからないから教えてほしいってメッセージ送って、吉村君にわざわざ来てもらったのに、地図の見方もわからなくて、道具屋の場所も知らなくて…。それから、魔物に素手で殴りかかっていってね。魔法使いなのに、本当笑っちゃうよね」
「お待たせいたしました。アイスコーヒーとウィンナーコーヒーです」
店主が静粛に現れて、飲み物を置いた。弓子に置かれたカップには、生クリームの白薔薇が咲いていた。
「ごゆっくりどうぞ」
「昔のまま…」
弓子は白薔薇に瞳を輝かせて、
「飲もう」
と、スプーンで惜しそうに崩した。大もコーヒーを吸った。苦味が口中に広がったが、後味がさっぱりしている。
「この店ね。私が高校生の時によく来てたの。アイスコーヒーにもこだわりがあるんですって」
しかし、大はふてくされて、リルのハチャメチャな行動に腹を抱えていた頃が、ただただ懐かしかった。
「一流の魔法使いにしてやるって、吉村君が言ってくれたのに、結局パッションズフレイムも覚えられなかったね。あんまり出来なくて、ごめんなさい」
「もうやめてください。それより、どうして僕だとわかったんですか?」
「…松島君から、あなたがネットゲームをやっているって話を耳にしてね。詳しく聞いたの」
弓子の笑顔がにわかに曇り、後ろめたい影が差した。
松島は一緒にゲームを始めたクラスメイトで、同じギルドにも入ってよく付き合いがあったが、松島の方がだんだんとプレイする頻度が減ってきて、三月の高校卒業をさかいに、ぱたりと来なくなっていた。
「なにしに来たんですか!わざわざゲームになんか…じゃあ、あのメッセージも俺に近づくためだったって事ですか?」
「…ごめんなさい。一緒に遊べばなにかわかり合えるんじゃないかと思って…。それで学校へ来てもらえればいいなって。でも、どんな声をかけていいかわからなかったの。私には吉村君のなにもわからなくて、時間がたつにつれて、私の事も言いづらくなってしまって」
弓子は沈んだ顔で淡々と、洗いざらい白状していったが、一方、大は、これまでの言動や振る舞いが、すべて先生へ向けたものであったという事実を思うだけで、のたうち回りたい狂気に駆られ、しかも、弓子は端から大とわかっていたと言うのだから、まったく救われようがなく、体中がわなわなと震え、座っているのさえやっとで、話などまるで耳に入らなかった。
「私が傲慢だったのよ。話を聞けば、なんとかなるなんて軽く考えて、御両親にまでお願いして…、結局やった事はあなたを騙しただけだった」
「御両親?」
「吉村君のお父さんとお母さんにね。私に任せてほしいってお願いしたの。私がなんとか頑張ってみるので、しばらくそっとしておいて欲しいって」
「親も知ってたって事ですかッ!?」
「違うわ。お願いしただけ」
とうとういきり立った大に怯えて弓子は目を瞑った。大は興奮の内に、うるさかった両親を思い出した。
去年の今頃は、日がな一日、ノートと参考書を睨み、学校の机と自分の机の往復で、日曜日さえ休む事を許されず、本当に勉強漬けの日々で、夕食に両親と顔を合わせればまた受験の話で、勉強を頑張って、良い大学へ進みなさい、あなたの為だからと決まって言われた。しかし、模試の成果は思わしくなく、そのもどかしさからか、筆も進まなくなり、親達の励ましに至っては、その実無関心なのが透けていて、夕食後には笑い声が、日曜日にはいびきが、居間から響いてくるのであった。当の本人達は偉そうに言う割に、二人とも大学へは進んでおらず、兄もまた高校卒業後に就職して、本人の意思も聞かずに人生を決めようとする両親に、しかも自分達や兄が歩めなかった道を歩ませようとする卑しい根性が、腹立たしい事この上なかった。なにより、家族で自分だけがこんな苦しい思いをさせられる不公平は、どんなに考えても納得できず、そんなに大学に行きたければ、自分らが行けば良いじゃないかという思いばかりが膨らんで、去年の十一月、奥田沢の山が鮮やかに色づいてきた朝に、大は不登校を誓った。
「大~ッ!学校遅れるよッ!」
母が下から騒々しい足音を立てて上がってくると、
「大ッ!早くしてッ!」
「学校はもう行かねぇ」
大は高まる緊張を押さえて、幾分投げやりな風で訴えた。
「ちょっとあんた、なに馬鹿な事言ってんのッ!」
「俺はもう学校へは行かねぇ!勉強もしねぇ!やってられるか!」
と、乱暴に襖を開ける母に、内心震えながらも吐き捨てた。母の憤怒が背けた背中にじわじわと食い込むのを感じた。大は降りかかる怒号の爆発を今か今かと覚悟していたが、
「あ、そ」
母はあっさりと階段を駆け下りて、あっけなく部屋に取り残された。
両親は仕事へ出かけ、授業が始まる時間になっても、肌寒い冬の朝があるだけで、世界が終わるわけでも、命が取られるわけでもない。きりきりとした日常は他愛もなく崩壊して、これからは自由に生きるのだ。と、大は晴れやかな気持ちで昨日までの自分に決別した。親の言いつけに背いた罪悪と、学校を休んでいる背徳感とが、心の片隅に小さな影を作っていたが、しかし自分はテレビに出てくるような世間になじめぬニートとは違って、自分らしく生きるために、胸を張って受験をやめたのだから、落伍者ではないし、罪悪を感じるのはおかしい、と自分を叱咤した。
その晩、今度は母の前に父が深刻な眉根を寄せて現れた。
「…おまえ、今日学校へ行かなかったんだって?」
父の声は震えて、怒りを含んでいるのは明らかであった。
「それが?」
と、父が来るのは想像がついていたから、ゲームに向かったまま、大は喧嘩腰であった。
「それが、じゃないでしょッ!あんた、自分のやってる事わかってんのッ!?この大事な時期にッ!」
母が声を張り上げると、
「大事ってなに?」
「馬鹿ッ!受験だろうがッ!ゲームなんかやってる場合かッ!おまえの将来がかかってんだぞ?」
つられて父も怒鳴った。
「だから?」
しかし、大は両親にびくびくしつつも、挑発をやめなかった。もう後戻りはしない。徹底抗戦すると、昼間から腹をくくっていたのであった。
父は愕然とし、いよいよ険しくなった。
「だから?…おまえ、受験もせずにこれからどうする気なんだッ!」
「自分の将来は自分で決める。受験はやらない」
「あのねぇッ!受験で将来が決まるのッ!あんたが将来を決めるんじゃなくて、受験で将来が決まるのッ!」
「それはあんたらの価値観だろ?」
「あんた?…親に向かってなんて事言うのッ!」
「いちいちうるさいな。だいたいなんで、あんたらの言う通りに俺が受験しなくちゃなんねぇんだよ。え?」
大は無理に冷笑を浮かべてみせた。
「そうするのが当たり前だからに決まってるだろうがッ!」
「当たり前って誰が決めたんだよ?」
「なに?」
「あんたらだろ?あんたらの都合で勝手に俺の将来を決めてるだけじゃねぇかよ」
「昔からそう決まってるのッ!みんなそうしてきたのよッ!」
「くだらね」
皆が通った道を辿らされて、何の価値があると言うのか。
「…おまえ、くだらん言うけどな。大学へ行ったか行かないかで、就職先も変わって来るんだぞ?行かないなら、行かないでいいけど、そんなら、就職先はどうするんだ?」
父は高ぶる感情を押さえて、努めて穏やかに尋ねた。
「それはこれから決める」
「決まってないんなら、大学へ行ってからでも遅くないだろうが」
「その決める時間を奪ったのが、あんたらだろ?あんたらのせいで、俺はこれから自分探しすんだよ」
「…いい加減にしなさいよッ!」
後ろに控えていた母が、ついに拳を振り上げて、父は咄嗟に両肩を押さえた。
「落ち着けッ!いいからッ!落ち着けッ!」
もみ合いになりながら、なんとか廊下の外まで追い出して、
「大、おまえもいい加減にしろよ。なんもしないなら、飯も食わさんし、家から出てってもらうからな」
「働かざる者、食うべからずッ!」
母がまるでデモのごとくに拳をふりあげるのを、父に取り押さえられて、二人は下へ降りて行った。
それから毎晩、両親は大の部屋へやって来ては、本人達は説得のつもりで、怒鳴り散らし小言を言い、大も初めは受け答えしていたものの、次第に面倒になって、慣れてくると無視してゲームを続けるのが当たり前になった。飯も食わさんという父の宣告通り、大の飯は用意されず、下へも呼ばれなくなったが、それでもゲームを続けて、どうしても腹が空いた時は、お年玉を切り崩してコンビニ弁当で凌いだ。あんまりに粘るのでとうとう親の方が根負けして、食事が部屋の前に置かれるようになると、恥も外聞もなくそれを食べた。大に言わせれば、親が子を養うのは普通であるし、今まで自分にしてきた所業を考えれば、食事の世話くらいしてもらっても、罰は当たるまいという考えであった。
大の為と言いながら、自分の考えを押し付けて、大の為と言いながら、毎晩小言で大を苦しめる。本当に大の為を思っているのならば、放っておいてくれれば良い。何故息子をもっと信用してやらないのか、と大は親の矛盾に呆れていた。
しかし、大もまた自分らしく生きる、自分探し等と言いながら、碌々その自分とやらを探す事もせず、毎日こもってゲームに明け暮れているのであった。
十二月中旬、奥田沢の河原に、水仙が若々しい花をつける頃になっても、相変わらず大は画面に向かっていた。両親の口撃を無視して、ずっと画面ばかりを見ている内に、世間が動いている事も忘れて、向かいの家の寒椿が艶やかなのも、知らなかった。だからその日、時の過ぎる現実を知らされて、はっとさせられる戦慄に大は打ちのめされた。
昼過ぎ、ゲームの世界に浸りつつ、膝から伝わる階下の騒がしさに不思議がっていると、振動が階段を駆け上がり、ぴしゃりとひっぱたくような音が、ヘッドフォンを突き抜けて聞こえてきた。常ならぬ勢いに驚くと、襖を両開きに兄が睨んでいた。
「おい」
そう口を動かしながら、兄は大股に乗り込んできて、唖然とする大のヘッドフォンを取り上げた。
「なんだよ!」
と、大は睨み返したが、兄は顔色一つ変えず、ただ見つめて、
「留年するってよ」
深刻な顔で告げた。てっきり両親に代わって小言を垂れに来たと身構えていた大は、意外な忠告に息を呑んで、大は画面のカレンダーをちらと横目に見た。学校へ行かなくなってからまだひと月しか経っていないのに、もう留年の話が持ち上がっているのか。では巷でよく取り上げられる不登校児は皆が皆、留年やら退学になっているというのか。このご時世に中卒という経歴を想像して、さすがの大も戦慄を覚えたが、いずれこうなるであろうとはわかっていて、自分の道を自由に歩む以上、それは避けられないリスクの一つと考えていた。そして、ここで自分を曲げるくらいなら、端から大人しく勉強しているべきだとも、考えていた。おい!大よ!何をビビっている。こうなる事はずっと前から覚悟していたじゃないか。なぁに、中卒だからなんだって言うんだ。中卒でも成功している人は世の中にごまんといる。兄に言われたくらいで、挫けてなるものか。大は言い聞かせて、
「…だから?」
冷ややかに返して見せた。
「あ?だから、じゃねぇだろ?てめぇの為を思って言ってんだろうが」
兄のすごみに大はすっかり気を呑まれたが、それでも意地になって、
「はぁ?俺の為?頼んでもいねぇのに、なに言ってんだ。この偽善者が」
「このまま行きゃ、てめぇ中卒だぞ。それ、わかってんのか?」
「自己責任だろ?」
「俺みたいになるって事かよ?」
「なるかよ」
大は鼻先で笑った。
「じゃあ、何やんだよ?」
「さぁね」
兄は舌打ちして、天井を仰いだ。大はほくそ笑んだ。人の意思は誰にも脅かせない。
「つぅかさ、勉強もしないで好き勝手ふらふらしてた奴が、なに知った風な口利いてんだ?俺は、自分の意思で人生を切り拓くって決めたんだよ。てめぇみたいな馬鹿と一緒にすんな。つぅか、馬鹿のくせして調子のってんじゃねぇよ」
と、嘲笑したが、兄は黙ってむんずと大の髪を引っ張り上げていた。
「痛ッ!なにすんだよッ!」
「うっせぇ」
兄は掴んだまま部屋を出て、大はバタバタと引っ張られる髪に縋った。
「やめろッ!やめろッつッてんだろ!」
階段で兄を突き放そうにもびくともせず、却って段々の角が食い込む痛みに身体がよじれ、階段を降りる頃にはぐったりと引きずられるように居間へ入ると、両親が二人の姿にぽかんと口を開けて、
「おい!なにやってんだ!」
と、父が立ち上がったが、
「いいから!黙ってて!大丈夫だから!」
兄は冷静な声色で制止して、縁側まで出ると、ぐるりと大を振り回して、庭へ放り投げた。
「痛ぇな。ふざけんなよ、てめぇッ!」
大は頭を押さえながら、怒りに任せて叫んだが、
「あ?ふざけてんのは、てめぇだろ?ここは親父の家なんだよ。てめぇ出てけって言われたんだろ?勝手に居座ってんじゃねぇ」
「はぁ?」
「おら、さっさと出てけ」
兄も庭に下りて、大にゆっくりと近づいてきた。もはや暴力も辞さない気迫に、大は尻もちをついたまま、じりじりと後ずさる他なかった。
「自己責任なんだろ?だったら、家を追い出されんのも、自己責任だよなぁ?」
「…勝手な事言ってんじゃねぇよッ!」
「勝手なのはてめぇだろ?親の世話んなっておきながら、ゲームばっかしてよ。誰のおかげで、生きてんだ?おい」
「おかげとか、恩着せがましいんだよッ!俺を勝手に生んだのは親だろ?だったら、親の自己責任だろうが、世話すんのが当たり前だろッ!誰が好き好んでこんな家に生まれてくるかよ」
途端、尻もちをついて見上げていた大の、澄んだ冬空に巨大な人影が覆った。と思うや否や、角ばった拳が大の口元を突き抜けた。大の唇から、どろりと血が溢れた。
「し、傷害だぁ!」
「うるせぇよ」
兄は容赦なく二の腕を蹴った。
「おいッ!」
と見かねた両親が飛び出してきて、父は兄を羽交い絞めに引きはがし、
「ちょっと大丈夫?」
母は大の背を抱きかかえて、
「あッ!血が出てるッ!」
「馬鹿ッ!なんて事してくれたんだッ!」
「訴えてやるッ!訴えてやるからなッ!」
大は激昂して指さした。
「…勝手にしろよ」
兄は肩を落として、勝手口からとげとげしく去っていった。
その日から、兄はもとより両親も部屋へやって来なくなった。用を足しに下へ降りて行っても、非難を浴びる事はなく、親と会話しても、何事もなかったかのように平凡であった。あんな暴力沙汰にまでなってしまったから、てっきり反省して大人しくしているのだと思っていたが、それにしたって、やけにあっけないと感じていた通り、親は先生の手引きで一芝居打っていたのである。躊躇なく半年以上も欺ける冷血ぶりに、大はぞっとした。よくよく思い返せば、兄の件にしてみたって、部屋へあげればどうなるかも予見できたに違いなく、それがわかっていながら差し向けたのだから、もう息子とすら思っていないのかも知れなかった。
しかし、大がこの家に、生まれたくて生まれてきたわけではないと言うのであれば、親も親で、将来ニートとなるとわかっていたら、進んで生みたいとは思わなかったろう。
親の責任か、子の責任か。
確かに生み育てた親の責任はあるのだろう。しかし自己の責任、殊に自身がそれとわかってて行動している以上、子の責任は決して軽くはない。
「お父さんお母さんには、協力してもらっただけよ。それだけは信じて。すべては私の罪なのよ」
弓子の泣き出しそうに言って、唐突に立ち上がると、ひざまずいて諸手をつき、小さな黒髪がさらりと垂れた。
「許してくれなんて言えない。どうぞ、気の済むまでぶってちょうだい」
「ぶつって…」
土下座を前に大は戸惑った。人目を気にしたが、店主が来た時のまま、もくもくと皿磨きに集中して、努めて見ないようにしている風であった。
「私にはこんな形でしか償えない。遠慮しないで好きなだけ」
「いや、そんな事言われたって困りますよ。ぶって何になるって言うんですか?」
「じゃあ、どうすれば良い?」
弓子の円らな瞳をあげて許しを請う、その従順を形にしたような姿に大は胸が高鳴った。三十も半ばを超えているであろう先生に、興味なぞ湧きはすまいと思っていたが、こうして女を見せつけられてみると、色香に魅かれないではいられなかった。かつての担任という背徳感も手伝って、大はこの女の身体を蹂躙してみたいという欲求がふと湧いて、そこに来て相手がなんでもするという姿勢であれば、もう答えは一つであった。
「…付き合ってくださいよ」
「え?」
「俺と付き合ってください。先生」
弓子は顔をあげたまま、寸時固まったが、
「ごめんなさい」
と、顔を逸らして謝った。
「償うんじゃなかったんですか?」
「それだけはできないのよ。ごめんなさい」
「どうして?」
「サトル君…彼が私の夫なの」
「…は?」
大は絶句した。怒りとも悲しみともつかない激情が背筋を突き抜けるようであった。
「聞いて。サトル君はね。私の事を心配して、わざわざ一緒にゲームしてくれたの。あなたの恋心を知って、それでも黙っていてくれたのよ」
「だから?言ってる意味がわかんねぇよ。結局、皆で俺をはめて、笑ってたんだろ?」
「違う!そうじゃないの!確かに私はあなたを騙した。でも、他の皆は私に言われてそうしただけなのよ。あなたが学校に戻ってくれると信じて黙っていたの。我慢していたのよ」
「違わねぇよッ!」
大は椅子を蹴飛ばして、立ち上がると、ひざまずく弓子の肩を足で押しのけて、出口へ歩き出した。
「吉村君!」
弓子の声がしがみつくようであったが、もう耐えられなかった。外へ踏み出した途端、人の胸にぶつかって、
「っと?」
ぼさぼさに乱れた長髪の男は、店から飛び出した大に目を丸くしていたが、大は怒りに任せて舌打ちすると、ケヤキ並木をずんずんと不機嫌に進んだ。しかし、弓子の声が追いかけてくるようで、居ても立っても居られない恥ずかしさに大の歩調は早まり、とうとう走って逃げ出した。運動不足がたたってすぐに息があがっても、とにかくふらふらと走り続けた。適当な角を曲がり、時には直進し、どこの道かもわからなくなって、川沿いへ突き当たると、人のいないのを見回してから、ようやく息をついた。暑さと疲れで汗が張り付いて、横たわる川の曇り空でねっとりと濁ったのが、流れる汗と同じような汚らわしさであった。
これからどうしようと考えるも、大は家へ帰る気にはまるでなれなかった。これからまた小言の日々が始まるという憂鬱もそうだが、なにより、あの家がもう自分の家と思えなくなっていた。もしかしたら、両親はこれまでのように普通に接してくれるかも知れない。しかし真実を知った今、全てが芝居であるとわかってしまった今、腹の底では、疎ましく思っているに違いなく、そうでなかったとしても、もう親を信用できなかった。いつか兄が親父の家と言った通り、あの家は吉村と言う同姓の家で、自分の家ではなかったのだろう。居場所など端からどこにもなく、そして現実のリルにも旦那がいて、自分は楽園にすら何も築いてはいなかった。
大はポケットをまさぐった。じゃらじゃらと小銭が小気味よく擦れた。お金はこれしかない、と大は心細くなりながら、それでも川沿いを下流へ離れて、いつか金が尽きて飢え死にするとか、この暑さだから脱水するとか、死ぬことばかりを考えていた。楽園が虚構であって、現実もまた虚構であったなら、楽園の死は同時に現実の死でもあった。虚構と共にこの世を去るのも悪くはない。現実から逃げていた自分は、ついに現世からも逃げ出す時が来たのだ。
なにを見てもこの世の未練を感じて羨ましく、時折訪れる激情にふけったかと思えば、呆然と上の空で、いつしか舗装された道が砂でぷつりと切れた。その先には砂浜が広がって、藍の海が白波を潰していた。そして、舗装の切れ目で、大は立ち尽くした。
砂浜は紅白のビーチパラソルが何本も突き刺さり、晴れやかな水着の女達が戯れて、短パンの学生が波打ち際で馬鹿騒ぎをし、ビニールシートでは、おっさんがサングラスをかけて気取っている。覆われていた雲から太陽が隙をついて顔を出し、神秘的な光に砂浜は騒々しくもそこはかとない静寂を含んで、高尚な絵画のような風趣を添えている。しかしながら差し込む強い光の、近くに遠くにきらきらと輝く様は、眩しくもどこか哀愁を漂わせて艶めかしい。大はそこに現実の楽園を見ていた。しかし、その楽園は目の前にありながら、大にはあまりにも遠かった。同じ人間でありながらも、自分と水着の人々とは明確な隔たりがあって、落伍者である惨めな自分をはっきり突き付けられるようであった。俗悪で汚らわしいと見下してみても虚しく、却って狭量な自分が浅ましく映って、楽園に入っていけない大は、ただ遠巻きに見ているしかなかった。落伍者の末路とはこんなにも、居心地悪く、息苦しいものかと、生温かい潮風は突き刺さるようで、海岸沿いを歩く大の頭は次第に俯いた。
長く空にあった太陽が山間に沈んだ頃、ちょうど砂浜も切れて、波打ち際の険しい斜面に巻き付いた狭い車道を孤独に歩いた。もう海原には何も見えず、車も滅多に通らず、自分らしい、物寂しい静けさに大の気分はようやく風景になじんだ。足裏がさすがに疲れて、漆黒に伸びる枝を時折仰ぎ見ながら休み休みに、打ち砕かれる波濤の音だけを耳にして闇の中に一人いると、どうでも良い事ばかりが頭に浮かんでは消えた。
ノヴランはニートの自分を責めた。それは本当に唐突で、その時は驚きのあまりただ出まかせに反発するしかできなかったが、嫉妬と当たりはついていたものの、どうしてノヴランは、縁もゆかりもないネットの、こんな儚い関係にこだわっていたのだろうと、大は不意に考えて、こだわっていたのは自分も同じだと、恥ずかしさから海を見た。
海は月明かりに照らされ、死人のように青ざめていた。水面の白い反射が煌めいて、丸みを帯びたうねりは、全てが終わったような安らぎを湛えて優しく、それは大の心も慰めて、泣き出したくなる物悲しさだが、水平線の境、青黒い宵闇の中にぽぅっと突然灯が点いて、はっと目を見張った。大は始め人魂かと思ったが、それにしてはやけに黄色い。耳を澄ますと、波間にエンジンの音が微かに聞こえて、それは漁火であった。
こんな遅くに、と大は闇の中にただ一つ浮かぶその灯をじっと見つめた。それは時折眩しく瞬きながらも大人しく浮かんで、闇に輝く一筋の希望のように映った。
ノヴランはやり方こそまずかったが、彼もまた、リルに居場所を求めていたのではなかろうか。こんな風に宵闇をさまよっていて、闇の中にリルという光を見つけて、自分と同様、その輝きに見入っていた。いや、リルと言うより、画面の輝きそのものに見入っていたのかも知れない。
水平線上のリルがふと消えて、光の名残が眼に残る宵闇に、あっと大は悲しみに打たれた。しかし思いに浸る間もなく、今度は強い光線が大を包み込んで、たまらず目を塞いだ。水平線上にいたリルが目の前に飛んできたのであろうかと、大はわけのわからないまま、とにかく指の隙間から輝く方を覗き見ると、四角い黒い影が二つの丸い光を作っている。四角い黒い影は形を変えて、右からにょきりとキノコが生えた。
「君!こんなところで何してるの?」
若々しい張りのある声が、大を繋ぎとめるように響いて、あぁ、と大は悄然とした。
警官が近づいてくると、あれやこれやと質問を投げかけてきたが、大は何も答えなかった。民家もないこんな崖沿いの海岸線を夜中に一人で歩いているのに、まず言い訳が思い浮かばないし、何より言い繕う気力がもう彼にはなく、どうにでもなれと投げやりで、警官も何かを察したか、とにかく来てくれと大をパトカーへ乗せた。
「君、黙っていたら、なにもわからないでしょう」
冷たい麦茶を前に、警官は粘り強く、しかし焦れるともなく、穏やかな声で話しかけた。思っていた警官像とはかけ離れた人の温かみに、口元が緩みかけたが、話したところで、なにもわかりやしないのだ。それは身内から嫌と言うほど思い知らされたではないか。と、引き締めた。
そうして黙っている内に、警官の方がついに根負けして、
「それじゃあ、ずっとここにいられても困るから、こちらで調べて、親御さんに来てもらうけど、いいね?」
警官が呆れて席を外すと、目の前の麦茶の、みずみずしい茶色がなんとも冷たそうで、大はたまらず飛びついた。程なく警官が帰ってきて、
「麦茶おかわりする?喉乾いてるだろ?」
と、微笑ましく笑いながら、コップを持ち帰って、おかわりの一杯と、ポットを持ってきた。大はきまり悪く、ちびちびと飲んだ。
「確認だけれど、君、吉村くんだね?」
大は驚いて顔をあげた。
「うん、ご家族の方から捜索願が出てるんだ。今、連絡とって、これから迎えに来てもらう事になったから」
それから四十分後、両親が警官に連れられてやってきた。
「間違いありませんね?」
と大へ手を伸ばす警官に、父親は泣きそうな顔をして、
「はい、うちの息子です!吉村 大です!」
きびきびと言った。
了
これで、終わりです。
読んでいただきありがとう。
では、また…。




