~八月二十四日~ 水飴
水飴
大は布団の中で何度も寝返りをうっては、起き上がろうと試みたが、ダメであった。うつ伏せになって、ぐぐっと腕で押し上げてみても体は高く上がらず、どうしてか力が入らない。うつぶせのまま深呼吸をして、少し休んだ。
全身に強い重圧を感じる。地球の重力が強くなったのではないか。
ベランダは薄暗がりの部屋に白く浮き上がって手すりが眩しく、階下でバタバタと動き回っていた両親も先ほど出ていって、夏の一日が始まっているのに、大だけが静寂に取り残されている。いや、もしかしたら精神だけが取り残されたのかも知れない。身体も精神を残して一日へ行ってしまった。だから、言う事を聞かないのだ。
「すべてに見捨てられたってか」
と、苦笑いした。薄暗い部屋が影を強めて、死の気配が忍び寄ってくるようであった。
何かしなくちゃ、散歩にだって行かなくちゃならないと、気配から逃れたい一心で今度はありったけの力で押し上げた。ミシミシと嫌な軋みが聞こえても、とにかく腕を突き立てた。体がようやく浮き上がって、その隙に膝をすべり込ませ、なんとか正座の姿勢になると、大はほっと息をついて胡坐をかいた。額を拭ったが、ぱさぱさに乾いていた。
午後の一時は相変わらずで、大気は揺れ、溢れる汗にぼんやりと思考も流れ出ていくようであったが、大はそれが暑さのせいか、暗鬱な気持ちのせいか、区別がつかなかった。ふらふらと歩き出したものの、のしかかる重力は未だに強く、ふくらはぎは堪えかねて、ついには上沢橋の真ん中で立ち止まってしまった。欄干にもたれようにも熱くて、頼りもなくその場にしゃがみ込んだ。
「今日きついなぁ」
と、欄干の隙間から川面を眺めた。深緑に透ける川底の上に地引網のような光が上流から弧を描いて流れてきて、大の下をくぐっていく。川辺の小石は人肌のように白く、草場の緑は食べられそうにみずみずしい。がらんと広い河原の対岸は、擁壁が川に沿って高い城壁のようで、河原へせり出した杉林の奥に下千間橋の欄干が半分覗いていた。橋の先は山肌がうずたかく、純白のガードレールが桜の木を挟んで、斜めに這っていた。
生暖かい風が、首筋やふくらはぎを気持ち悪く撫でた。
リルと別れてから、大はネットで全国の花火大会を調べた。思っていた通り、花火大会というものは、だいたいが七時頃に始まり、九時までには終わる。夜九時から三十分打ち上げるこの町の送り花火は珍しい行事で、勿論、事細かに調べたわけではないものの、ただでさえ珍しい時間帯に加えて、同じ第三日曜日に開催すると言う偶然が起こるとは考えにくかった。近くに住んでいると、大は確信したが、そこまで調べたところで、虚しさに襲われた。遠いも近いも会ってくれない以上は同じ事で、むしろ、居所に執着した自分の浅ましさに、嫌悪だけが残った。
とにかく体を動かそうと、大は陰鬱な気持ちを振り払うように立ち上がった。
下千間橋の先は、右手の山肌に沿って、緩やかな傾斜がどこまでも伸び、やがて山に抱かれて見えなくなるが、その坂は2キロにも及んで、地名に恥じぬ立派な坂である。坂の上には千間神社があり、ささやかな社殿ではあるものの、坂に風情を感じるのか、元日は参拝客が絶えない。また四月にもなれば、崖側の桜が鮮やかに、山側には出店が並んで、花見客で賑わった。
大は半ばやけくそに、この猛暑の千間坂の、はるか先の緑を目指して、大股にずかずかと登った。なんでもいいから、とにかく疲れさせて頭を空っぽに、暗い感情を少しの間でも忘れていたかったのだが、息は弾み、太ももはあがらず、頭は真っ白で、五感が微かな痺れすら覚えても、感情の塊は芯に根付いて離れず、どころか、疲れる自身を冷静に見つめているのであった。何を見ても、リルの思い出がちらついて、そもそも散歩を始めたのも彼女に言われての事で、いかに彼女が自分の生活を占めていたか、まざまざと思い知らされるのであった。
出会った頃、楽園の右も左もわからず、タークスは手取り足取り本当に初歩から教えた。リルも頼ってきて、次々と学習していく様は、ひな鳥みたく可愛かった。しかし、リルをか弱い初心者と見る一方で、不器用な大人の女らしさと温かみが、密かな楽しみになっていた。今では自分の生活になくてはならない癒しで、頼られているつもりが頼っていて、リルの後ろに、生きたお姉さんが見える。こんなお姉さんの腕が現実に自分を抱いてくれたなら、どんなに幸せな事か。
会いたいと口を突いた理由が、この時ようやくはっきりした。
リルに恋していたのだ。
はっとそれに気がついて、満面に笑みがこぼれた。本当に愛する人を見つけた喜び、それも初恋の、華々しい目覚めであった。葉桜は満開の桜に見えて、眼下に広がる田んぼは花園に彩られ、青空は大輪の祝砲に咲いて、ここはこの世の楽園か。幸福に足は弾み、思わずスキップして、このままどこまでも行ってしまえそうに身軽であった。しかし、二、三歩も跳ねると、すぐに楽園は消えてしまった。いつまでも一緒にいたいという思いは恋の目覚めと共に強くなって、強くなればなるほど、楽園の終わる現実が、会ってくれない現状が、重くのしかかり、そのうえ付き合おう等と、ニートの自分がどの口で言えようか。しかし現実に絶望しつつ、逆にやってみなければわからないとも大は思った。散歩にしろ何にしろ、やらなければ、今頃も部屋にこもっていたであろう。そう考えれば、今と昔の自分には大きな違いがある。告白にしたって同じ事で、引け目を感じてやらないよりも、やって玉砕した方がまだいくらかはマシなのだ。
やらなければ、現実は変わらない。やらずに終わる事ほど、惨めなものはない。
もう一度リルに、会いたいと告げて、もしも会ってくれたなら、その時は今の気持ちを包み隠さず伝えよう。坂を登り切って、千間神社の鳥居をくぐり、うまくいきますようにと祈願して、大は帰宅した。
しかし、その晩リルがやってくる事はなかった。
次回 8月27日




