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~八月十七日~ 海辺の砂城

   海辺(うみべ)砂城(さじょう)


 奥田沢は、南は千間坂、東は小群木(こむらぎ)、西は西田沢(にしたざわ)の四つを合わせて、かつては田沢村であった。昭和四十五年に隣町(となりまち)へ編入され、地名を残すのみとなったものの、今でも隣村(りんそん)という感覚から、この辺りの人を「田沢の」と付けて呼ぶ人がいて、村の名残が強い。町外れの寒村で、大が生まれた当時ですら本当に何もなかったから、田舎と笑われるのは仕方ないとして、一括りにする呼び方が、(つね)からどうも癪であった。

 嫌に目が冴えた朝をどうにもならない不満で、もやもやと乗り切るつもりであったが、(かえ)って意識がはっきりして、惜しみつつも布団を諦めた。作られて間もないおかずをご飯と一緒に食べる間も、二度寝を諦めて尚、「田沢の」話が離れず、しまいには、新しくマイルドな呼び方を考えてみたり、差別だ、と大げさに憤激してみたり、どうにもならないのに熱を入れる自身を笑いながら、それでも意識とは無関係に頭は働いているようであった。

 今日は寺町やモダン小路には出ず、住宅の通りを逆に歩いた。綾川が近づいて、寺町小路が合流する中沢(なかざわ)橋を渡り、西田沢の古い住宅街から奥田沢へ、いつもとは逆から回り込む道で、田沢を回ろうというテーマである。西田沢は、山が近いのと畑がところどころにある他は千間坂と変わらず、添え木のされた松が華奢な門口の旧家や、三階のテラスが温室でジャングルになっている新築や、小粒に並ぶ平屋建てを馴染みに通り過ぎて、川に一時(いっとき)迫ってきた山が離れると、広がる田んぼが空を映す奥田沢であった。

「のどかだなぁ」

 と田んぼと山だけを前にして、さすがに村を感じた。したたる汗をぬぐいながら、やはり「田沢の」とつくのは宿命なのだろうかと、まだこだわっていた。

 田んぼに時折(ときおり)民家が混ざって、道はまっすぐに伸びていた。少し先にぽつんと高橋商店のトタンが白く目立って、店先に黒のミニバンが、じりじりと揺れている。山桜の木陰(こかげ)から地蔵に見送られると、木は遠く退いて、滅入るような暑さに放り出された。大は険しい顔で道路に止まった車を目標に歩いた。すると、じっと見つめていた車へ、商店から純白のレースがふわりと張り付いた。小学校高学年くらい女の子らしく、後部座席のドアを力任せに引っ張り、そのまま飛び込んだ。続いて間もなく、萌葱(もえぎ)色の半袖を着た男の子がちょこちょこと出てきて、一所懸命に道路から車へ段差を踏み越えた。白のランニングに短パンの父親が気だるそうに出てきた時、大はこの間の家族だと気がついた。サンダルを擦りながら、運転席へ回り、よっこらしょと乗り込む。やはり見覚えのある白の帽子に花柄が可愛らしいワンピースの母親は、何度も振り返ってはお辞儀をして助手席に座り、見送りに慌てたお婆さんが麻葉模様(あさばもよう)の風呂敷を押しつけて、エンジンがかかり、運転席と助手席の隙間に旦那の影が横切ったが、店主が軽く手をあげて挨拶すると引っ込んで、車は走り出した。洋蘭園を右へ折れて上沢橋を渡ると、家々の中へ紛れていった。見えなくなるまで見送っていた老夫婦の、前を通り過ぎる大へちらりと向けたよそよそしい視線に、大は思わずうつむいた。

 彼らは家族であって、自分は蚊帳(かや)の外で、暮らすべき確かな場所が(とうと)かった。


―――…


「結婚しましょう!」

 パスタ・ナポリティアを食べて精をつけてから狩りに出ようと、洋間(ようま)に二人でいた時に、リルが突然そんな事を言い出した。

「あ!リアルじゃないよ!ここのね★」

 と、びっくりするタークスに付け加えた。

「それはそうでしょうね」

 タークスは動揺から、変に丁寧な口調で答えて、楽園で結婚ができる事を今更ながらに思い出した。結婚すると、二人の家が持てて、婚約の絆から些少ながら様々な恩恵を得られる。タークスはギルドへ入っていながら、メンバーとはあまり交流がなく、リルに会う少し前までは、一人で竜狩りをして、結婚とはまるで無縁であった。

「いつもわたし達、二人でいるんだし、どう?」

「俺は構わないよ」

 タークスはさらりと言いつつ、内心では結婚という言葉の重みに、胸が高鳴っていた。

「それから、ちょっとこれは言いにくい事なんだけど」

「どうしたの?」

「二人でギルド抜けよう」

 ニートの一件があってから、ノヴランが尚もしつこく周りに吹き込んでいるのか、メンバーと顔を合わせると、よそよそしくされる事があった。勿論、分別(ふんべつ)のある人もいて、中には励ましてくれる者もいたが、面と向かって皮肉や嫌味を浴びせるとんでもない者もいて、タークスは元々孤独でドラグバイトという貴重品を持つ妬みから、そういう罵声には慣れっこであったものの、色々と助力を受けていたリルには肩身が狭かった。メンバーの間に漂う嫉妬の重苦しさから、ギルド長に退団を求められるのも時間の問題で、二人の居場所はなかった。

「イヤ?」

「いいよ。抜けようか」

「うん」

 思い立ったが吉日(きちじつ)と、二人は早速、退団届を出して婚約を結び、タークスは婚約なら指輪だと思いついて、しかしそれでは実用的ではないので、代わりに希少石を散りばめた絢爛豪華(けんらんかび)な杖を記念に送ると、リルは飛び跳ねて喜んだ。二人の新居に必要な家具を買いあさり、和室洋室を決めて、植え込みに竹林を、敷き石の間隔にもこだわって、仕上げにリルが買ってきた花を床の間に飾った。花はスパンコールみたく弾ける赤色の花弁で、夕暮れにパチパチと火の粉を散らすように眩しく、竹林の細かい影が庭に暗く落ちる、そこはかとない哀愁漂う和室に、二人は一息ついた。

「これからもよろしくお願いします」

 リルは改まって頭を下げた。

「こちらこそ」

 と、返して、昨日までの日々が遠くに感じた。もうギルドの台帳(だいちょう)を開いてもメンバーの名前はない。代わりに空欄のパートナーにはリルの名があって、それは妙な親近感をもって胸に迫ってくる。

「しかし、これで良かったの?」

「どうして?」

「いや、俺が抜ければそれで良かったんじゃない?」

「いいのよ。ギルドに残ったって、わたしはター君に会いに行くだろうし、また変な噂たてられてぎくしゃくするのイヤだもん。それなら、いっそ二人きりになった方がいいわ」

 二人きりという言葉が、異性に慣れない彼には、またもや刺激的であった。

 リルはそれを見透かしてか、

「ター君、ドキドキしてる?」

「いや」

 と言いながらも、頭は熱くのぼせて顔は火照(ほて)り、高鳴りに深呼吸を繰り返していた。

「わたし達、駆け落ちしたみたいだよね」

「ハハハ」

「本当にいつもありがとう。これからも頼りにしてるから」

 リルは微笑んだ。

 彼女が眠りについた晩、タークスは顔を赤く染めながら、何度も会話の記録を読み返して、どういう意味だろうと、一つ一つを拾っては真剣に考えた。特別な好意を寄せられているようでありながら、からかわれてる風でもあり、捉えどころのないリルの大胆な物言いは、自分の知らない大人の機微であった。

 それからはリルの来る週末に、生け花や家具を飾って、茶菓子を前にタークスは待つようになり、また彼が遅くなると、同じようにしてリルが慎ましく座っていた。挨拶は「ただいま」「おかえり」に変わって、向かい合って座ればまさに夫婦で、タークスは強く居場所を感じていた。


―――しかし、その居場所ももうじきなくなる。


 免れ()ぬ残酷な現実を前に、大は無間(むけん)の闇を見た。八月から先が見えなかった。

 しかし楽園を離れ、奥田沢の田舎道に一人佇んでみると、はなから居場所はなかったように思える。自室のある家は親の居場所であり、親の持つ限られた居場所から、楽園を見つけ出して住み着いたに過ぎない。大には元より何もなく、見果てぬ夢をガラス越しに眺めていただけなのである。しかし、それでもその楽園の彼方に、リルと何かを築いたのは確かで、みっともないと思いつつも、大はなりふりかまっていられなかった。なんとしても、その何かにしがみついていたかった。


 大を受け止める座椅子は待ちかねたように尻と一つになって、パソコンの空調が現実を吸い込み、煌々(こうこう)と輝く画面に世界が広がる。現実と仮想が入れ替わり、開かれた楽園へ、大はどぶんと(もぐ)った。


―――…


 敷き石を渡っていくと、炉の前にリルは座っていた。

「ただいま」

「おかえりなさい!」

「早いね」

 まだ21時を回らない時分で、彼女はいつもよりだいぶ早かった。

「今日は休みだったの」

「そう」

「歩いてきた?」

「うん。近所をぐるっと」

「暑かったんじゃない?」

「うん」

 リルがお茶をたてて、タークスはそのお茶とヨーカンをいただきながら、ポテトチップスと麦茶を飲んだ。(ふじ)色の和服で茶を呑むリルの仕草が、森閑美麗(しんかんびれい)な和室に生き生きとして爽やかであった。

「今日はなに食べてるの?」

「リアル?」

「そう」

「コンビニで買ったくずきりと、緑茶」

 リルは恥ずかしそうに笑った。

「食べてるのが、こっちとほとんど変わらんね」

「合わせてみたの」

「ふぅん」

 と、ポテトチップスを放り込んで、

「どっか行く?」

「ゆっくりしたいなぁ」

「わかった」

 そしてまた二人は黙った。サトルは最後の最後まで狩りをしていたいという風であったが、リルは別れを惜しみつつ、だべっていたいようで、残された時間の使い方は本当に人それぞれであった。しかし楽園の終焉はもう間近(まぢか)で、週末しか来れないリルとは、今日を入れても三回しかなかった。

「もう、あと半月だね」

「そうだね~」

「サトルから聞いたんだけれど、もうゲームとかやらないって本当?」

「ええ」

「なんにも?」

「うん」

 リルの返事は、まるでサトルのように早かった。

「なにか他のやらない?一緒に」

「ごめんなさい。もう決めた事なのよ」

 タークスの胸はじわりと熱くなった。瞼も震えて、瞳は血走った。

「それは寂しいな」

「ごめんね」

「どうしてもダメ?俺にはつらい」

「ごめん」

「忙しい?」

「それもある」

「じゃあ、少しでもいい」

「ダメ」

「どうして?」

 リルが沈黙して、タークスはしつこくし過ぎて嫌われたかと、心臓に縫い針を刺したようであった。

「ごめんなさい」

 はっきりと記録には(いん)ぜられているのに、消え入るようなリルの声が実際の耳に聞こえてくるようで、タークスはめまいがして、文字がゆらゆらと(おど)って見えた。

「それぞれの現実に帰りましょ」

 と、リルはダメを押す。明らかな拒絶に、タークスは体中が痺れた。なんとしても一緒にいたい。強い気持ちが止め()なく溢れて、押しつぶさんばかりであった。

「じゃあ最後に会いたい」

 どどどどどっと突然に空が轟いて、驚いて窓を見ると、ベランダはただの深い闇であった。しかし音はまだ断続的に続いて、南の方が色とりどりに閃いている。花火とわかったが、今はそれどころではない。

「リル?」

 どれくらい待ってか、固まったリルに声をかけたが、呼吸を感じない。どこへ行ってしまったのか、もしや腹を立てて無視しているのではないかと気を揉んでいると、

「あ!ごめん!」

 少しして気の抜けた返事が来た。

「外で凄い音がしてちょっと見てきた」

「平気?」

「うん、花火だったみたい」

 リルはなにげなく答えたが、タークスの胸は高鳴った。

「こっちもやってる」

「そう?」

「もしかして近くに住んでるんじゃないの?」

 秘密の花園に迫っていくような恐ろしい、しかし魅惑的な感覚にタークスは興奮した。想いを寄せた相手が近くに住んでいる、なんと運命的であろう。

 しかし、

「アハハ!まさか」

 と、リルは軽く笑っただけであった。


次回 8月24日

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