~八月十三日~ 千秋の日暮
千秋の日暮
大は、はっと目覚めと驚きが同時であった。
どきっと胸が震えたのに、意識はおぼろげで、置時計へ目を向ければ、朝の七時にもならず、どんどんと階下が騒がしい。揺れと騒音に起こされたのかと天井を向いて、後ろめたい朝をやり過ごそうにも、どんどん、という騒音はいつまでも止まないばかりか、やかましさはあっちにこっちに落ち着かず、耳にしている方もそわそわしてくる。漠然とした不安が頭をもたげて程なく、予感通り地響きは階段を上って、すぅっと襖が開いた。
「ちょっと、起きて!」
母親の顔が鬼気迫って飛び出した。大は努めて冷静に、たった今、覚めたような振りをして、気だるそうに見た。
「なにしてんの?」
「来るの!」
「なにが?」
「親戚が来るの!だから、さっさと起きて、朝ごはん食べて、しっかりしてちょうだい」
「あ…え?なんでうち来るんだよ」
と、これには大も意外であった。
「知らない知らない。とにかく、昼前には来るからって!起きて」
「はぁ?」
納得のいかないまま、追い立てられるように、食卓へ着かされると、ごはんにみそ汁、漬物がすぐに出た。大は口に頬張ってみたものの、慣れない朝の食事に胃が受け付けなかったが、天井に響く足音に早く食べろと叩かれているようで、めまいがした。無理矢理に流し込んで二階へ戻ると、布団はすっかり畳まれて、爽やかなオレンジの半袖シャツに、ジーンズが着てくれとばかりに広がっている。
母が後ろを横切って、
「これ、着ればいいの?」
「そう!それ着て。それから、髭も剃ってね」
「あぁ…」
と、大はいつのまにか長くなった顎髭をふさふさ弄りながら、
「あれ?今日、仕事は?」
「なに、馬鹿言ってんの!お盆でしょうに」
「あぁ…」
「お父さんも居間で新聞読んでるわよ。本当にあの人は何もしないんだから…」
どんどん、と去っていった。
髭を剃って歯を磨いて、大の身支度は一時間もかからなかった。
「昼前に来るなら、こんなに早く起こさなくても良いだろ…」
と、時間つぶしにゲームでもやろうとしたが、
「ゲームなんてやらないでね!みっともないから」
母がどんどんと、通り過ぎた。。
やれやれと一人で嘆息してみせると、大は下から麦茶を取ってきて、ベランダの風を通し、壁にもたれて読み古した漫画を広げた。吹き抜ける風は涼やかで、畳を照らす朝日はレースのように軽かった。朝の清々しさが大には久しぶりで、早起きの良さを、人としての健全さを、強く感じた。
朝の時計はゆっくりとくつろいで、漫画から目をそらす度に、得をした気分になっていたが、やがて蝉が騒ぎ出すと、あっと言う間に昼前で、玄関ドアの音と母の甲高い歓迎とで、はっと顔をあげた。しかし、今の自分はあまりに体裁が悪く、出ていくに出ていけず、部屋で音も立てずにじっとして、漫画のページをめくるのも慎重に、無人のような静けさを努めた。
一階の居間はがちゃがちゃと食器が打ち合って、小さな地響きがばたばたと聞こえる。いよいよ来たかと、固唾を呑んで様子を探る傍ら、いつ親戚が上がってきやしないか、びくびくしていた。
「大~ッ!」
ついに母からお呼びがかかって、大はすくっと立ち上がった。覚悟を決めたつもりが、階段を一段一段降りるごとに気が重くなって罪人みたく、開いた襖から漏れる光の向こうが、処刑場に見えた。しかし呼ばれた以上、後戻りもできず、腹をくくるしかなかった。
「あらッ!大ちゃん、お久しぶり~」
居間へ入っての第一声は、おばさんの嫌に高い声であった。
「ほら、大。挨拶して」
母が挨拶を促す。狭苦しい居間に見慣れない人物がひしめいて、束の間、整理がつかなかったが、まず床の間の隅から兄が鋭く睨んで、大は恐怖にすくんだ。すぐ横の窓際に親戚夫婦が二人並んで、手前には両親が座り、親戚の子供が、それらの外周を、ぱたぱたと回っている。
「こんにちは」
出た挨拶は、消え入るように小さかった。
「ずいぶんと焼けたわねぇ~!外で何かやってるの?」
と、おばさんは目を開いて大げさであった。母がくるりと首を回したが、胸を張れるような話があるわけもなく、
「あぁ…ちょっと」
と、大は濁したが、
「最近、毎日少し歩いているのよね?」
と、丁寧に補足して、それがまた恥ずかしく、大は目を背けた。喋りたくないから濁したのに、ニートが散歩する事の何を誇れると言うのか。
「最近熱いだろう?」
おじさんが、白無地のセンスを忙しく煽ぎながら言った。
「はぁ」
「体力あるなら農業なんて、どうなの?田沢の子は、自然の子って言うし、どこか田んぼ貸してくれるところあるんじゃないかしら?」
と、おばさんが思い付きで言うのを、
「こいつには無理っすよ。根性ねぇっすもん」
すかさず、ニッカズボンのだらしない兄がヘラヘラと否定した。そこへ、
「来たッ!」
玄関の呼び鈴に母が走って出て、寿司を持ち帰ってきた。
昼食はその寿司をつつき合う会食になった。近所の噂から地元代議士の話、昔の思い出と、肴をころころ転がしては、酒をあおり、寿司を放り込む。母は母同士で甲高い声を競わせ、もうじき4歳になるという親戚の子供は行儀悪く座って箸を危なげに、案の定茶碗をひっくり返しては、幼い騒ぎを起こす。大はそれらを相席した客のごとくに見て、よそよそしくただ黙々と食べた。おばさんが時折、話を振ってくれたり、トロを譲ってくれたりするも、目の前の皿だけを見て、適当に受けていた。大はなぶられるのを恐れて、ひたすら無様に逃げ回った。
寿司も大方なくなり、昼食が一段落したのを見て、大は立ち上がった。
「どこ行くの?」
「俺そろそろ歩きに行きたいんだけど…」
「こらこら、そんな失礼な奴があるか」
と、顔の赤い父が微笑み交じりにたしなめたが、
「あらッ!私たちに構わなくていいのよ。散歩なら散歩で。健康のためにもね」
「そんな…悪いから」
「いいのよ。良かったら、うちの子も散歩に連れて行ってもらいたいくらいよ。うちの子、全ッ然ッ!歩かないのよ。一緒に歩かせてもらったらどうかしら、ねぇ?」
と、おばさんはやはり赤く染まった旦那を振り返った。
「…おぅ、良いんじゃねぇか?こんなとこに飲んべえと一緒じゃ退屈で仕方があるめぇよ」
「ねぇ、それがいいわ。そうなさいよ。大君、いいかな?」
「はぁ」
子供がついてくるのは煩わしいが、ここに居させられるくらいならば、二人で出されるのも吝かではなかった。
「…じゃあ、お言葉に甘えて…大、ちょっと行って来たら?裕ちゃんは小さいから周りによく注意しなさいよ」
と、母は注意して、
「裕ッ!」
おばさんも親らしい張りのある声で呼びつけると、両肩を押さえて、大の前まで押してきた。
「このお兄ちゃんと一緒にね、少し歩いてきなさい。お散歩ね。お兄ちゃんに迷惑かけないようにね」
おばさんはかがんで、子の耳元に優しく言いつけた。
「うん」
と、子供は頷くと、ちょこちょこと可愛らしい足取りで、大の足元にからみつくようであった。
「行ってくるよ」
大は子供を引き連れて居間を出ると、電話横の小銭をじゃらりと自然につかみ取った。
「早く帰ってくるんだよ」
「こんな服じゃ、暑くてそんなに歩けやしないよ」
と、見送りに出た母を背に、ポップな色合いが鮮やかな靴を子供に履かせて、自身はサンダルをつっかけると、急いで外へ逃げた。
昼過ぎの日差しは、焦がさんばかりの熱がどっしりと重かった。
「あ、これ。かぶれよ」
と、かぶっていた麦わらを、子供にかぶせた。大は習慣で麦わらを被って出たものの、急いだのもあって、子供の帽子までは気がつかなかった。しかし、家に戻るのは忌まわしかった。
マシュマロのように柔い手を握って、十字路を折れ、寺町小路の禅楽寺を横目に過ぎて、上沢橋の前に出た。
「歩きにくいな」
と、低い位置につないだ手を煩わしく思いながら子供を見れば、子供は子供で逆に手の位置が高く挙手しているようなもので、しかも歩幅も小さいから、自然早足にならざるを得ず、大よりも辛そうであった。大は一所懸命に並んで歩こうとするいじらしさにふと笑みがこぼれると共に、気の毒にも思えて、
「大丈夫?疲れてない?」
「うん」
子供は純な目で、大を見た。
「名前、裕って言うの?」
おばさんの張りのある呼び声を大は思い出していた。
「ううん、名前は祐樹だよ。ママは裕って呼ぶの」
「ふぅん」
と、大は上沢橋に足を踏み入れた。
向こう岸にはビニールハウスの頭がわずかに覗いて、左右に広がる田園が標本のように山肌を艶々しい水底に沈めていた。すぐ後ろの山は、雑木林が壁のように鬱蒼と、奥田沢の自然は、支流、綾川を挟んで、別世界の如く深い。上沢橋を境に、大の住んでいる住宅地が千間坂、川の向こうが奥田沢であった。
日照りは厳しい物であったが、欄干を吹き抜ける風は心地よく、橋下の綾川は、川底の石を透かして、白光が泳いでいる。はしゃいだ声に誘われて下をのぞくと、くいっと捻くれた河原に家族連れが水遊びをしていた。父親は正眼に構えた剣士のごとく釣り針を垂らし、女の子と小さな男の子が水を掛け合い、、白い帽子を目深に、母親が少し離れて三角座りをしている。微笑ましい光景は、夏なのに春のような温かみを大の胸に残して、なんと言っても、水の掛け合いが気持ち良さそうであった。
いつの間にか、橋の真ん中で立ち止まって、二人は川面を眺めていた。
「川、行く?」
祐樹が頷くのを期待したが、彼は横に振った。
「世代だねぇ~」
と笑いながら大は橋を渡って、胡蝶蘭が白く眩しい洋蘭園のビニールハウスを右に、川杉洋蘭園の隣は廃虚じみた倉庫で、錆びついたシャッターには田沢村第八分団とある。そこからはもう田んぼが一面で、少し先にはぽつんと古い平屋が孤独であった。
田んぼは角度が変わって青い空を映し、四角い枠に収まった青空の、雲もそのままに複写するよどみのない水鏡は、まるまる青空を眼下に収めてしまって、空中にいるようだ。奥田沢は天空に隠れたる幻想郷かしらと、ダイナミックな自然の迫力に大は見惚れた。
「ねぇねぇ」
祐樹が手をくいくいと引っ張った。
「うん?」
「ニートってなぁに?」
純真な目は、大をはっと現実へ帰らせた。
「え?そうだなぁ…」
「ママがね、ニートは悪い人って言うから、どんな人なのって聞いたら、お兄ちゃんみたいな人って言っててね。お兄ちゃんがニートで悪い人なんだって言うの」
「おぉ…そう」
「ニートって人が悪いの?」
「いやいや、ニートは人じゃないよ」
祐樹の微笑ましさに、大は思わずほころんだ。
「お兄ちゃんが悪いの?」
「…そうだね。お兄ちゃんが悪いかな」
「お兄ちゃんがニートなの?」
「そうだよ」
「それじゃあ、ニートも悪いんでしょ?」
祐樹はどうもニートが人物であると勘違いしているらしい。
「ニートが悪いわけじゃない、ニートのお兄ちゃんが悪いんだよ」
「お兄ちゃんが悪いの?」
「普通のお兄ちゃんは悪くない。ニートのお兄ちゃんが悪いの」
「よくわかんない」
「ニートはね、ひな鳥みたいなもんでね。お兄ちゃんはひな鳥なんだよ」
自分の境遇をうまく伝えようと苦心する内に、自己嫌悪がきざしてもどかしくなってきた。
「ヒナドリ?」
「そう」
「ヒナドリって?」
「…ヒヨコみたいな奴?」
「お兄ちゃん、可愛くないよ?」
「ヒヨコってわけじゃなくて、ヒヨコみたいな感じの人って事なんだ」
「お兄ちゃん、ヒヨコじゃないよ」
「うん、ヒヨコじゃないんだけど、お兄ちゃんはヒヨコから鳥になって、大空をはばたかなくちゃいけないんだ」
「ふぅん」
よけいにややこしくなりながらも、自身が本来進むべき道を、目に涙を浮かべ、口を小刻みに震わせながら、大はとにかく吐き出した。しかし苦しみながら、ようよう絞り出したその言葉も、移り気な子供の眼中にはすでになく、興味はガラス戸の向こうにあった。田んぼにぽつりとあった木造の平屋がいつしか目の前で、茶錆びたトタンでつぎはぎな外観に、高橋商店と黒い字がかろうじて掲げてあった。ガラス戸の向こうに駄菓子が所狭しと昔ながらに並んで、その一方、近頃流行りのカードゲームも売っていた。
大は吐き出した苦痛から、頭がぐらぐらと揺れて、頭皮がちりちりと焼けるようなのが、暑いんだか熱いんだかもわからなかった。
「…菓子、食う?」
「うん」
祐樹は元気よく頷いた。
祐樹を連れ帰って、まだ陽の傾きかけの明るい内に、親達は、酒飲みにしては珍しくあっさりと切り上げた。駅のロータリーまで迎えにいった兄の車を、帰りはおばさんの運転で、酔っぱらった兄も道案内ついでに送ってもらう事になり、家はがらんといつもの安らぎを取り戻した。
「あんたもちょっと手伝って」
と、母に手招きされて、ひっくり返った食べカスを、キッチンへ運んだ。仕上げにさっと布巾を滑らせ、テーブルがなめらかな光沢を取り戻すと、代わりに湯呑と急須を持って来て、
「ちょっと休憩しよう」
大に緑茶を注いだ。父は湯呑を片手にじっと固まっていた。
「ご苦労だったな」
と、父はどろりと血走った目を向けた。
「散歩はどうだった?大丈夫だった?」
「何も」
「そう」
母はほっと肩の力が抜けて和やかに、茶を啜った。解けた緊張に大もついつい口元が緩んで、ニートのやり取りが面白かったのを、なんとはなしに話した。
「ニートって言葉がよくわかってないのねぇ」
と、母も簡単に捉えて、祐樹をいじらしく思ったが、父は話を聞く内に見る見る険しさを深め、聞き終わる頃には肩を震わす程で、
「馬鹿ッ!笑ってる奴があるか。子供の口から言わせるなんて、嫌味な事をする」
と、湯呑を荒々しく叩きつけると、びくりと二人は跳ね上がった。
「…そうねぇ。おばさん最初からそのつもりで、大と二人で行かせたのかしら」
母は父の言葉を受けて、遠い目をした。
「しかし、おまえもおまえだぞ。いい加減、就職するなり、学校に通うなりしないかッ!」
「まあまあ」
「一日中ゲームばかりして、いつまで現実から逃げるつもりなんだ?」
「お父さん」
父がまっすぐ大にぶつけるのを、母は腕をさすって、なだめていた。大は向ける顔もなく、うなだれた。そうして、母のなだめる姿にただただが申し訳ない気持ちであった。思い返せば、これまで怒る父になだめる母という構図を、見た覚えがなかった。以前はそろって気焔をあげて、逃げ場のない罵倒の嵐に眼を潤ませる事は数知れず、時にはひっぱたかれさえしたものだが、いつしか母が声を荒げなくなり、殊に将来の件では優しい。年齢が年齢だけに丸くなってきたのか、それともすっぱり諦めてしまったのであろうか。
「ちゃんと大はわかってるものね。大には大の考えがあるんだよね?」
と、母は味方して、大は頷くとも謝罪とも知れないお辞儀をした。先の考えも当ても、なんにもなかった。母への度重なる裏切りにきりきりと胸が痛んで、しかしそれでも、ただしのぐ事しか頭になかった。
親戚から逃げ、家から逃げ、親から逃げ、現実から逃げているという父の言葉は正しい。
結局よくよくまとまらず、大は間もなく解放された。
二階の部屋の戸は、朝に開け放したままで、茶色いベランダの手すりや隣の壁は水に浸したように青暗く、山に沈んだ陽の名残が風に運ばれて生暖かい。畳の熱はすっかり抜けて、しっとりと夜気を含み、黄昏の侘しさに、過ぎゆく日々は連れ去られていった。
次回 8月14日




