~八月十一日~ 黒い濃霧
次回 8月13日
黒い濃霧
「いってくる」
くぐもった低い声が床越しに聞こえて、ばたんと閉まる音が家じゅうに響いた。それからまたしばらくして、がちゃ、ばたんと開いては閉まる。ドアが閉まってから今度は錠のかかる音が耳穴をくすぐって、しかしそれが済むと、本当にしんとなった。
大は布団の中からベランダをなんとなく眺めていた。しかし、目が冴えていても起き上がらず、まだ起きる時間じゃないと言い聞かせて、じっと眠りの続きを待っていた。世間では、もう出勤の時刻だと言うのに、いつからか焦燥や背徳も感じず、違和感すらなくなって、昼まで寝ている事はごく自然な、当たり前の日常になっていた。
起きていれば、罪悪に心が沈む。とくに家人が一人また一人と出ていくような朝は、できるだけ眠っていたくもあり、朝寝をするようになったのは平静を保つ上でも、自然の流れかも知れなかった。
大が次に目を開いたのはもう一時過ぎで、太陽はてっぺんに昇り、畳がちりちりと音をたてていた。蝉の騒音が窓越しに丸みを帯びて、ギザギザの金属を擦ったように小気味よかった。のっそりと布団から抜け出して、階段をぎしぎしと降りると、キッチンのテーブルには焼き鮭にラップがかけてあり、食べてくださいと書置きがしてあった。
顔を洗い、焼き鮭にごはんとインスタントみそ汁をつけて遅すぎる朝食を平らげ、新しいランニングに着替えてから、敷きっぱなしの布団にどかっと胡坐をかいて、どこへ行こうかと、悩んだ。大には金がない。だから、歩くくらいしかできないのであるが、近頃は歩いていける近所はだいぶん歩き尽くして、飽きてきていた。先日も行き先が思いつかず、ヤケで興味もない禅楽寺に入ってみたのである。今日は隣の浄願寺へ行くかと思い、しかし有料だから入れないと諦めかけたものの、そこでふと金の当てが閃いて、階段を駆け降りた。
「あった!」
と、大は玄関横の電話に駆け寄った。細かいのが入り用の時にと、電話の脇にはいつも小銭を散らかしていたのである。思わず小銭を抱き集めたが、全部持っていっては怪しまれると、元通りに散らかし直して、五百円だけポケットにしまった。
サンダルをつっかけて戸を押すと、活発な夏の重い熱気がやかましく迫った。
大はぐいと熱気を押しのけるように一歩を踏み出した。大の家は寺町小路とモダン小路に挟まれた通りにある二階建てで、そばの十字路を左へ曲がれば、上沢橋の土手が奥に、手前の十字路を右へ向けば、禅楽寺がもう目の前である。浄願寺はその隣にあった。
梅の幹が厳めしい庭を抜けて、本堂前の受付に立ったが、遠目に人だと思っていた影はあかとらの猫で、ガラス窓の受け取り口からしっぽをゆらゆらと、大に振り返るなり欠伸をして、のんびりしたものである。昼休みにでも出ているのか人けはまったくなく、かと言って、そのまま入るわけにもいかず、幸い入場料がちょうど五百円なので、留守番のしっぽの傍らに置くと、パンフレットを片手に勝手に入った。短い廊下を奥の暗闇へ進むと、木造の通路は大きく開けて、目の前に繊細な金細工が躍る仏像が高窓からの柔かな光を浴びて、鈍い輝きを放っていた。
「おぉ」
と、大が見回せば、支柱や欄間には赤に緑に塗られた装飾や高彫、透彫の竜や孔雀が華やかに舞い、木を思わせぬ存在感である。目の端に威圧を感じて天を見上げれば、不吉な暗雲に覆われたその中心に海があって、その海は荒々しい波濤が渦巻き、深淵から波と共に八匹の龍が伸びて、暗雲の空に瞋恚の相貌を覗かせている。それは均等に八方に伸びて、渦の奥は底知れぬ深さを感じた。
大はパンフレットを広げた。この天井画こそ、浄願寺の最も見どころとするところで、この町出身の著名画家、高山高越が晩年に手掛けた九頭龍図である。高山高越は享年三十八歳と、若くして亡くなったものの、作品は絵画に留まらず、陶芸、詩句と、多分野に渡って、その才能を発揮した。その中でもこの天井画は特に珍しいとされ、二十世紀初頭に洋行した折、感銘を受けたという聖堂の均整なる美しさを生かした吸い込まれるような構図は、京都の建仁寺や、妙心寺などとは一線を画すものである。尚、九頭龍図とありながら、頭は一見八頭に見えるが、九頭目は暗雲を円にくり抜いて、遠くから正面を睨んでいる。
読んでから天井を見上げると、なるほど暗雲は龍の鱗に裂かれて、そこに異次元の波濤を生み出し、鱗の輪の一部に小さく頭が描かれ、見上げる大を睨んでいる。それを確認すると、大はぐるぐると回ってみた。均整な竜の頭は風車のように周り、奥の渦はまさに渦そのもののごとくであった。上も下も右も左もない。大は前後不覚に陥って、めまいがした。
―――…
創生不朽のエリュシオンッ!死を超越し、輪廻転生の法則を乗り越えた、神に等しき肉体を持つ者達の、悠久美麗の理想郷ッ!
しかし、それらの肉体よりもこの楽園が我々の心を魅了してやまないものがあったッ!それは絶対不干渉、完全平等の法則であるッ!
人間を最も貴き者としてあがめる理想郷は、その個々を等しく尊重し、人の上に人を作る事を禁忌とし、その上で俗世にて間違いがないよう目にも留まらぬ電光の輝きの中にその楽園を置いた。
…上も下も右も左もない。一度この楽園に足を踏み入れば、一切の名誉や富は捨て去られ、一つの魂として対等に扱われる。平等なる対話にあるのは己の器のみ。それらを持ち寄って杯を交わす事は、この世のどの宴よりも無邪気にして純粋で、味わいは天上の美酒に勝るとも劣らぬであろう。
だがしかし、完全平等とは、一切の名誉や富を捨て去る代わりに、一切の制約をも課さない。即ち全人類、何者であれ楽園に入る資格を有しているというわけで、この俗世に高潔なる者は如何ほどか。人間の持つ浅ましさ、愚かさは計り知れない。
図太き者、欺かんとする者、悪罵を浴びせる者、あらゆる煩悩、悪霊、この楽園に忍び入り、善良なる魂に白刃を突き立てんとする事件は後を絶たず、されとて絶対不干渉の法則に悪は守られ、悪霊滅する事も容易ならず。無法は増長し、楽園は永劫美麗でありながら、そこはかとない憂鬱の影を落とすのであった。
そして、タークスもまたその凶刃に晒された一人であったッ!
楽園で最も注意すべきは何か。それは俗世の己を見られる事に他ならない。完全平等の前では考えもまた平等、どのようにだって批判は可能なのである。
楽園の仕組みに慣れた悪党は己を隠遁し相手から己を引き出そうと試みる。受け手へ回り、自身が批判する立場へ置くのが常套の手口なのであった。
しかし、タークスに向けられた悪意はまったく思いもよらぬところから、不気味なほど近くに現れて、しかも俗世の身さえ案じる脅威を与えたのであった。
「タークスって、ニートだろ?」
その言葉はまさに青天の霹靂であった。タークスは驚きと後ろめたさとで息が詰まり、血が生々しく波打つのを感じた。しかし、言葉を浴びせたひょろ長の男、ノヴランは顔見知りは愚か、ただギルドが同じというだけの、所在も職業も知れぬ赤の他人であった。タークスの事を知り得るはずもなく、またタークスも相手をよく知らないから、この罵声は突然も突然であった。
「女とイチャつく暇があんなら、就職しろよ」
と、ノヴランは小馬鹿に続けて、ははぁ、自分がリルと仲良くしているのが気に入らないのだな。それで適当な悪口を言っているのだと合点がいって、
「嫉妬してんの?」
と、やり返した。
「は?キメェんだよ。どうせ一日中ゲームやってんだろ?リルさん、こんな奴と遊ばない方がいいっすよ。こいつは将来真っ暗ですから」
ノヴランは傍らにいたリルに苦笑いをして見せた。リルは黙っていた。
「効いてる効いてる。図星を突かれるニートウケるわ~ッ!仕事も勉強もしないで昼までゴロゴロしてゲームして、まったくいい御身分だよな?そんなソード背負って、何時間やってんすか。ウンコ製造機はウンコ製造機らしく、大人しくゲームやってりゃいいんだよ。ねぇ、リルさん」
「リルは関係ないだろ」
「はいはい。さぁさ、今日は俺と約束してたよね。いい場所連れてくよ」
「じゃ、そういう事だから、さいなら。ゲーム頑張ってねッ!吉村君!」
ノヴランは簡単に言い捨てると、背を向けて走り出したが、ひたすら罵声を堪えていたタークスは最後の恐るべき止めに、鳥肌立った。
―――吉村君!
見ず知らず男が、なぜ本名を知っているのか。
走り去ったノヴランが、戻ってきた。
「リルさん?いないの?」
と、立ったままのリルに話しかけた。
リルはやはり黙っていたが、少しして
「三人で行きましょ」
と、ぽつりと言った。
「?何言ってるんですか。ニートはニートらしく一人でゲームにひきこもってればいいんですよ。僕らは人らしく楽しく遊びましょう」
ノヴランは笑顔を作ったが、
「二人より、三人の方が楽しいわ」
「こんなキメェのといて楽しいなんて、リルさんも面白い人だな。けど、今日は俺と約束してるから、俺と二人で遊んでよ。俺はコイツ嫌いだし」
「じゃあ、ドタキャンする」
リルはついとタークスの方を向いた。
「は?ふざけんな」
「あなたさっきから、ニートニートってうるさいけれど、あなたは何してる人なの?」
リルはそっぽを向いたままに言った。
「それを言う必要があるわけ?」
「言わないの?自分は何も明かさず、人に悪口だけは言うなんて、あなたの方がよっぽど気持ち悪いわ」
「は?大学生だし。言ったところでなんになんだよ?」
「大学生なの?」
「だから?」
「大学生なら、将来が決まる大事な時期じゃないの?こんなところで遊んでいる場合なの?」
「息抜きしちゃいけませんか?」
「そうね。それなら、ター君が息抜きしててもいいでしょ?」
「は?そいつは一日中息抜きしてんじゃねぇかよッ!そいつはニートなんだよ。俺は知ってんだ」
「一日中息抜きしてるって、あなたは一日中彼を見てるの?」
「だから、ニートだろ?ニートは一日中休みだろうが」
「ニートだからって、なにもしていないとは限らないわ。あなたは彼の一日、一挙手一投足、心の内まで全て知っているの?」
「馬鹿ッ!ニートは何もしてないからニートなんだろ?」
「それはあなたの決めつけよ。あなたに彼の事はわからないわ。ター君、行こッ★わたしの狩り手伝って」
二人が何をやりあっているのか、タークスは本名の衝撃で頭は真っ白に、ただ怯えて胸を押さえていた。
「ター君?」
と、リルに促されてようやく、はっと顔をあげた。
「あ」
「行こッ★」
戸惑っている内にリルが走り出して、タークスは慌てて、すがるように追いかけた。
「調子乗ってんじゃねぇよッ!クソババアビッチ!」
と、ひどい罵声が飛んだが、ひらりと二人はワープした。
険しい山道を走るリルの小さな背中は、タークスに大きく映って、おぶられているようであった。雪のように白い肌に、体温さえ感じた。リルという女の優しさに思わず涙がこぼれ、この背中はたくさんの苦労を背負ったのだろうか。深く傷つくような事もあったのだろうかと、リルという人間への興味から苦い経験の跡を、妄想せざるを得なかった。
リルが足を止めた場所は、街からそこそこに離れた高原で、延々と続く草原がのどかだった。振り返れば、街道は下へ下へと蛇行して、先ほどまでいた町は赤い屋根の群が小さく、爛々と輝くルビーに見える。だいぶ遠くに離れたのと、やわらかに揺れる緑の絨毯とに、重かった胸がいささか空いた。
「さッ!狩りを手伝ってちょうだい」
リルは振り返って、何事もなく活発な微笑みを向けた。しかしタークスの心は引っかかって、
「ありがとう」
と、礼が口を突いた。
「なにが?」
「さっきの」
「いいのよ。あの人、前々からしつこく言い寄って来ててね。いつか言ってやろうと思ってたのよ。でも、大学生と言わせておきながら、わたしが名乗らなかったのはずるかったかな?」
リルは活発な微笑みに、イタズラっぽい色を滲ませて、
「ま、言ったところで、結局なにもわかりやしないのよ。彼もわたしもター君も」
と、今度は悲しげな顔をして見せた。




