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~八月十日~ 日暮れの鐘楼

   日暮(ひぐ)れの鐘楼(しょうろう)


 禅楽寺(ぜんらくじ)の牡丹園はとうに(さか)りを過ぎて、花びらは崩れ、幹は中折(なかお)れ、遊歩道からむごたらしくはみ出している。奥の本堂に広がった獅子は、目を剥いて勇猛だが、崩れた牡丹園を前に置くと、儚い花を悲しむようで弱々しい。

 禅楽寺は四月の初め、牡丹が開花すると、本堂の障子を開け放し、十畳ほどの間の真ん中に見事な獅子の屏風(びょうぶ)を飾る。薄桃(うすもも)色の花弁(かべん)が繊細な園の後ろに本堂が来るように立つと、雄々(おお)しき獅子がその園に佇むようで、絢爛豪華な(おもむき)を味わえる。しかし、季節の過ぎた八月となっては、見る影もなかった。

 吉村(よしむら) (だい)は、汗でぴたぴたに張り付いたランニングの胸をつまんで、ばたばたとさせながら、(すた)れた(その)を呆然と見つめて、もうとりわけ見るところもなく、黄檗(おうばく)宗独特の丸門(まるもん)をくぐると、寺町小路(てらまちこうじ)へ出た。

 路面はゆらゆらと歪んで、白い土塀は刺すような(まぶ)しい。頭上(ずじょう)(のぼ)った太陽は痛く、蝉の声がじぃじぃと焼ける音のようである。


―――このままでは、トンテキになってしまうッ!!!


 大は自虐的にそう笑って、寺町小路を曲がり、通りを一つ挟んでモダン小路に出た。どこまでも伸びる並木(なみき)のケヤキに入ると、ケヤキは歓迎するようにざわざわと葉を揺らせて、透けてくる日光が、おぼろに、明確に、地面を漂っている。ほっと一息ついて見渡すと、並木の突き当りは花屋で、胡蝶蘭(こちょうらん)の花弁が白かった。大はその清い純白に誘われて歩いた。

 彼の人生はうつむきであった。目的もなくただ足を動かして、とにかくそぞろであった。胡蝶蘭が興味を惹いたと思えば、もうレンガの敷き詰まった歩道に目を落として、喫茶トゥルーマンの、いかにもな看板を懐かしんでいる。

 モダン通りは、古い商店街を西洋風の新築に建て替えた通りで、トゥルーマンは元々西洋風な外観から、建て替えないままに、古くからある老舗(しにせ)だが、生まれてこの方一度も入った事はなかった。

 アーチ型の窓の向こうは分厚(ぶあつ)いカーテンが両脇に寄せられて、その奥は黒く口を開けて、その黒を見つめていると、日蔭の涼しさに吸い込まれそうになる。歩きながら、中がどんな(ふう)か窓の奥に目をこらしたが、よくわからないままに通り過ぎた。

 乗用車がギラリギラリと殺意を振りまいて、追い抜いて行った。反対側の歩道をおばさんが弱った虫のように自転車を走らせていた。空気は生暖かく、しかし木々を吹き抜ける風は涼しい。

 大の緩み切った精神は、(かえ)って刺激を求めて視線はあちこちに、何にでも敏感であったが、うつむいた思考のせいか、何の感興(かんきょう)もわかず、ただただ退屈で億劫に思うばかりで、しかしそれでも歩きの疲れと猛暑で、頭が真っ白になれれば、彼は散歩の化身(けしん)に取り憑かれたように歩けた。そして、少しばかりの間、現実を忘れられていられるのが、何より心地良かった。

 突き当りの花屋を曲がって、日差しへ出た時には、早くも化身となっていて、もはや猛暑さえ心地よく、通りを越えて、寺町小路も過ぎると、下千間(しもせんげん)橋脇の林道(りんどう)を抜けて川沿いの土手を歩いた。橋の向こうは、田んぼと一本の通りを挟んだらすぐ山で、土手からの眺めは、生活が遠ざかり、途端(とたん)に自然が近くなったように感じられる。

 ぽつんと田畑の真ん中に庇を伸ばした高橋商店の前に、野球帽をかぶった少年と麦わらの少年が、自転車にまたがって、携帯ゲームに夢中になっていた。


―――世代を感じる…


 と思いながら、自分もそう変わらない世代だと気づいて、反対側に目を背けた。

 振り返れば、先ほどいた禅楽寺の瓦屋根が灰になめらかで、土手から塀を足場に、またいで乗れそうな低さに、土手の高さを感じた。

 そういえば、歩き始めた頃は、この土手に上がるのさえ息があがっていたっけ…。


―――…


「ニートッ!?ニートなのねッ!エネゴリ君ッ!」

 リルは笑い交じりに言い、タークスは悲しみと驚きと恐怖で陰気に沈んでいた。しかし、守ってくれたリルの温かさ、わざとおちゃらけて見せる優しさに、胸の苦痛は少しずつ和らいで、開き直る勇気が湧いてきた。

「はい、そうです」

「そっか~。バイトは?」

「バイトなんて、高校生が片手間にやる遊びでしょ?」

 さすがに、そこまでは落ちこぼれちゃいないと心の内で苦笑しつつ、タークスは笑顔を向けていたが、リルは深刻だった。

「引いた?」

「全然ッ!」

 リルは首を振った。それを見てタークスは安心した。沸々と煮える胸底に、富士の冷水がひんやりと流れ込んだような解放感であった。

「これからもフレでいてくれる?」

「なに言ってんのッ!?当たり前でしょッ!ニートだからフレやめるって、それフレとは言わないでしょ~」

「良かった」

「家事のお手伝いしてる?」

「してない」

「なんにも?」

「なんにも」

「運動は?」

「してない」

「なんにも?」

「なんにも★」

 と、タークスは調子に乗るが、

「う~ん、ひな鳥さんは怪しからんね~」

「ひな鳥?」

「あ~、本当になんにもしないで親の世話になってる人のことね。私の中ではひな鳥~★」

 リルは明るく言った。その言葉には確かな糾弾が含まれていて、タークスはまた陰気に沈んだ。

 言い過ぎたと察したのか、

「まッ!わたしはフレをやめないよッ★でも、外を歩くくらいした方がいいと思うわ。健康のためにね」

 と、優しく微笑みかけた。

「うん」

 タークスも笑い返した。しかし、それは精一杯に取り繕っただけで、落とされた彼の心はもう浮かびはしなかった。突き付けられた事は紛れもない事実で、彼自身わかっていたし、覚悟もできているつもりであった。しかし、いざ他人からその事実を突き付けられてみると、心の内では軽蔑されているのではないかと常に疑念が渦巻いて、相手の何もかもが信じられず、とても一緒にはいられないのであった。

 結果彼は疑念に押しつぶされて、素性(すじょう)がバレると疑念を抱かない相手、つまり自分を何一つ知らない他人を求めて、姿をくらます事がこれまで幾度かあった。


―――誰も自分を知らない新たなエデンへ…


 エリュシオンでは、何者でもあり()るッ!仮に失敗しても、何度でもやり直す事が可能であるッ!


 しかし、今度はそうしなかった。逃げ出したい気持ちよりも、リルと別れるのが惜しまれた。また、これ以上嫌われたくない一心で、彼女の言う通りにした。

 その日から、散歩を日課としたのである。


 家へ着いた頃には五時を回っていたが、陽はまだ高かった。靴を脱いで、汗で湿ったランニングを籠に脱ぎ捨て、風呂場で冷水をかぶると、浅黒い肌が沁みた。曇りガラスから差し込む日の光が夜気(やき)の訪れで潤っているようで、豆腐屋のラッパが遠くに聞こえて、夕方は深まっていった。

 風呂場を出て、キッチンの戸棚からポテトチップスとコップを取り出し、冷蔵庫に作りだめしてある麦茶を注いだ。

「どこ行ってきたの?」

 と、俎板に向かったままの母が珍しく尋ねて、大はびくりと肩を揺らした。かまわず麦茶を一気飲みしながら、返事を考えた。

「そこら辺をぐるっと…」

 と、独り言のような小声で、新しく麦茶を注いだ。

「そう」

 母は言って、大は続きを待ち構えたがそれきりであった。


 次回 8月11日

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