└伝わるあたたかさ
その後は他愛のない会話をしながら電車を待ち、間もなくやってきたそれに揺られる事、約十分。
僕達は、さっきとは比べ物にならない程多くの人が行き交う、都会の町並みへと辿り着いた。高層ビルがあちこちに立ち並んでいたり、ゲーセンとかの娯楽施設もある。
「……」
他人の事など気にも留めない、それぞれ自分で好き勝手に歩いて行く人々。
その波に今から飛び込むと思うと、人混みがあまり好きではない僕は若干辟易した物を感じる。
「あからさまに嫌そうな顔をしているな、後輩君」
「…人の多い場所、あまり来ませんから。慣れてないんです」
「ふむ。そうか…」
僕の答えに、先輩は顎に手を当てて何か考えているような仕草をした。
…何だろう。いやーな予感がする。
「!?」
僕がそう思った刹那。やはりと言うべきか、その予感は的中した。
「これで心配はないな」
――…まず感じたのは、生暖かさ。その包み込まれるような感触に、僕は驚愕せざるを得なかった。
けれど、普段から僕は先輩に色々と踊らされてばかりで。そんな先輩への対抗心のようなものが、僕に驚きの感情を素直に出す事を躊躇わせた。
…どうせ、先輩は僕のそんな考えすらお見通しなんだろうけれど。
――結局どうなったかというと、先輩の左手が、僕の右手を捕らえていたという事だ。
…つまり、手を握られた。
「後輩君が人波に浚われてしまわないよう、私がずっと君の手を握っているよ」
いつものように芝居がかった口調で、先輩は満面の笑みでそう僕に告げて来る。台詞の内容は先輩自身が好きな恋愛ゲームのそれをそのままなぞったようなものだ。
…けれどその語り口には、何の違和感も抱かせない雰囲気があった。
そして、先輩は僕が何か言う間もなく歩き出す。勿論本人の発言通り、僕の手を握り締めたまま。
(……)
凄く、気恥ずかしいものがある。こんな多くの人がいる中で、女性に手を引かれて頼りなく歩く自分の姿が、客観的に見て非常に情けなく思えた。
小さな子供じゃないんだから、人混みの中で先輩とはぐれた所で実際は別にどうって事はない筈だ。携帯で連絡を取るなりすれば、合流も簡単だろう。そして先輩がそれに気付いてない訳もない。
そう考えれば、今の状態はただ単に僕が恥をかいているだけなのではないだろうか、とも思う。
――…けれど、先輩の手から伝わるあたたかさに、どこか安心感のようなものを覚えているのもまた確かだった。
何故だろう。体調が悪い時に『人肌が恋しくなる』とは言うけれど、今の僕は精神面はともかく身体面では健康そのものなのに。
『――櫂斗くん』
気を抜くとすぐに思い出してしまう『彼女』の声。僕の心を強く抉って、焼けて灰になってしまう程の熱を持つ声。
でも、今は何故だろう。さっき程僕の心がささくれ立つ事はなかった。
…自分の感情が、よく解らない。
「後輩君、着いたぞ」
先輩の声に、僕は長々と働かせていた思考を止める。そして先輩の視線を追うように空を見上げた。
――そして、僕の思考は、そこでもう一度止まった。
――僕の目には、太陽まで届かんばかりに聳え立つ『それ』が映った。視界いっぱいに、一目ではその全体を捉える事が不可能な程に大きい、建物。
「…なんですか、これ」
「ん? 何だ、後輩君。この建物はどう見ても高層ビルじゃないか」
そんな事は分かってる。僕が本当に聞きたい事が何なのか、実際のところ先輩は理解しているのだろう。その証拠に、こちらを見る先輩はにやにやと意地悪い笑みを浮かべていた。
「………」
先輩から視線を外し、僕は再び空を――目の前に聳え立つビルを見上げる。
そこには…先輩の好きそうな女の子(目が縦長の、金髪碧眼のキャラクターだ)の絵が描かれていた。
ビルの上から下まで。
頭から爪先まで。しっかりとだ。
…僕は、嫌な予感はやはり当たっていたという現実に、溜め息しか出なかった。
「よし。それでは潜入するとしよう」
「何が潜入ですか。…後、手、離して下さい」
堂々とこの珍妙な建物に入るのに『潜入』も何もないだろうに。
僕の申し出に、先輩は不満げに目を細める。僕としては、広い町中よりも人の視線がこちらを向きやすい建物の中で手を繋ぎたくはないのだけれど。ましてや、僕と先輩はあくまで同じ学校の先輩後輩、そして先輩曰く『契約』関係でしかない。それ以上の関係ではないのだから。
「む。何だ、今までは文句ひとつ言う事なく私に身を委ねていただろう。今更何を拒む事があるのだ。大丈夫だ、痛くはしないから安心して…」
「とにかく離して下さい。早急に、今すぐ」
「…むー…」
このまま喋らせると、さらに危ない発言になりそうだったから止めた(女子高生の発言とは思えない)。
先輩は不満そうに口を尖らせていたけれど、ちらりと目的のビルに視線をやり、「仕方がないな」と呟きながら僕を解放する。
何だかんだで、早くこの中に入りたいのだろう。
「…では、行こうか」
先程より沈んだ調子で、先輩は建物の中へ入って行った。仕方なく、僕も後に続く。
…この中には、どんな世界が広がっているのだろう。
先輩の趣味はある程度は理解したつもりだけれど、かと言って完全に受け入れたかと聞かれれば僕は確実に首を横に振る。
そしてこの中にいる人達は、確実に僕ではなく先輩寄りの趣味嗜好の持ち主達だ。
「…はあ」
知らず、大きな溜め息が零れた。
「これは破狭身氏の代表作『E・R・O』。その名の通りエロゲーと見せかけて、実際はパンチラすら皆無の淑女ゲーだ。ヒロイン達の着替えシーンも無ければ主人公がヒロインを追いかけたが転んで押し倒し右掌がヒロインの胸の上に〜なシーンも無い!
サービスシーンもラッキースケベも皆無だ! しかし断言しよう、だがそれがいいッ!!
タイトル『E・R・O』の本当の意味や、ヒロイン達の生肌を頑ななまでに晒さない、その理由が明かされた時…私はあまりに巧妙に張り巡らされた伏線に号泣したものだっ!」
……。
…売られているゲームのパッケージを手に、先輩は鼻息荒く熱弁している。
この界隈では有名らしいシナリオライター『破狭身』さんの作品が先輩は大好きらしく、今までよりその解説には熱が入っていた。
…うん。
これが初めてじゃないんだよね、解説。
結局この店(というかビル内部全体)は先輩の愛する淑女ゲー含む『ゲーム・アニメ・漫画専門店』だったらしい。先輩曰く全国に店舗があるらしく、今僕等がいるここが本店だとか。
先輩の目的は特に、全30階中の12階。ゲームフロアの内の淑女ゲー階(勿論、一般にはギャルゲー階)と呼ばれる場所だった。