図書館司書の過去語り
シュリエラは不眠症だ。
気の許せる誰かが傍に居ないと眠れない。
逆に言えば気の許せる人が近くに居れば、眠くなる。
古巣である此処は勿論、気の許せる者達ばかりだった。
古くてガタガタするダイニングテーブルとは質感の違ったボロの椅子に腰掛け、シュリエラは初め王女と他愛もない会話をしていた。
しかし、次第に気が抜けて、うつらうつらと頭が舟を漕ぎ始める。
シュリエラと女王を二人きりで残していた青年が暫くして顔を覗かせた時、シュリエラは拳を固く握りしめて眠気と格闘していた。
「……シュリ、ルディーノ達が来たら起こす。何かあったら起こす。俺はお前が起きるまで絶対にここを動かない。寝ろ。」
シュリエラはそれを聞いた途端に意識を手放し、テーブルに突っ伏した。
「悪いな、こいつちょっとしたビョーキみたいなもんなんだよ。仕事をサボったとか悪く思わないでくれな。」
「え、えぇ。構わないわ……安全なのでしょう?」
「それは俺が責任持って保証する。迷惑にはならねぇ。……っつっても、シュリが起きるまで暇だよな。」
あんまり話題を提供するとか得意じゃねぇんだよ、と青年は困り果てた顔をしていた。
女王は年相応のその仕草に可笑しさを覚えてくすりと笑った。
「……それでは私が話を振りますので、それに応えていただけませんこと?私も含めて大抵の女性は男性が時折相槌を打ったり、質問に答えてくださるととても気が紛れるものですのから。」
青年は素っ頓狂な声を上げた。
「へぇ、そんなもんか?」
「えぇ。そんなもん、ですわ。本当ですのよ?それでは早速質問させて頂きますわ。まずお名前を教えてくださらない?」
「ん、あぁ、名乗ってなかったか。俺、ムト。」
「そう。ではムト、貴方は随分頭が良さそうだけれど、何か知りたいこととか無いかしら?私、これでも一国を束ねるにあたって知識を蓄えた方なのよ。」
「そうだな……この国には居ないアンタの国の『守護』のこととか、秘密に触らない程度に知りたい。」
女王は話が上手かった。
ムトは話題の提供は出来ないが、話すことそのものは苦手ではない。意外なほど話は盛り上がった。
「貴方はシュリエラに拾われた、と言いましたね。では、シュリエラはあなたから見てどんな人かしら。」
「俺から見て?すげぇハイスペックな困った人だよ。……そうだ、シュリエラの昔話してやろっか?俺は本人から聞いたし、本人も隠してないからさ。……なぁ、興味ねぇ?」
女王は一も二もなく頷いた。
少女は色街で生まれた。
美しく、煌びやかな母が居たのは覚えている。けれど、いつの間にか記憶から母は居なくなり、道端の草を食べ、泥水を飲んで生きていた。
路地裏には同じような身の上の、出自など分かったものでない子供たちが溢れていた。皆が皆、殺伐とした空気の中食べるものや着るものを奪い合いながら日々を凌ぎ、それが叶わなかった者は凍え、干からび、餓えて死んでいった。
彼女は凍えて死にかけた一人だった。
そのまま捨て置かれていたならば間違いなく少女は死んでいた。
それを、彼女より幾らか年上の少年が己の身と擦り切れた毛布で温めて救ったのだ。
彼は少女のような子を見つけては一人一人その場しのぎとも言える救済を与えていた。
彼の元には多くの子供が集まっていた。食べ物屋の廃棄物から食べられるものを持ち寄っては分け合って、誰かが寒がれば他の誰かが素早く身を寄せて体温を分かち合った。
彼は少女に言った。
子供たちが飢えたり、凍えたり、干からびて死んでしまわないようにしたいと。
少女は応えた。
沢山の毛布や食べ物を集めなければならない。
少女の答えに、少年は笑う。
毛布も食べ物も必要だけれど、同じくらい知恵が必要だ。
その言葉が少女の原動力となった。
少女は昼間は他の子供たちに混じって食べ物をかき集めた。そして夜毎に図書館に忍び込み、月明かりのもとで本を読み漁った。簡単な子供向けの絵本でさえ、初めはただの線の羅列にしか見えなかった。それを絵と照らし合わせ、必死に覚え、意味を理解した。
徐々に絵本が挿絵付きの童話に変わり、それは文字だらけの学問書になった。執念とも言えるような努力をもって、僅かな期間で学校に通う同年代の子供たちよりも深く、多くの知識を得ていた。
ある日、少女はその図書館で遅くまで作業していた職員に見つかった。
少女が知らず読んでいたのは、貴重な文献だったのだ。
少女は死を覚悟した。
薄汚い路地裏の子供を嫌う人は多い。汚物であり、一つ二つ無くなろう気付かないし、消すことに躊躇いも持たない。
しかし、その職員は違った。
「お嬢さんはそれを読んでいたのかい?」
少女は職員を睨みつけた。
路地裏の子供が読めるはずがないとからかわれているように思ったのだ。
「読んでたらなに?営業時間外にこっそり忍び込んだ事については謝るけど、あんたらはあたしらみたいな薄汚いガキが本に触れるのを嫌がるからな。人目につかない時間を狙うしかなかったんだよ。ちゃんと手は洗ってるから汚れてない、そこは安心しろ。」
少女はまくし立てた。
「そんな事はどうでも良い。……それを読んだ感想を、この老いぼれに聞かせてくれないかね?」
少女はてっきり怒鳴られると思い込んでいた。しかし、職員の言動があまりに予想外だった。
「はぁ?」
思わずそう返して少女は職員の顔を見た。
嘲りの色はない。
「元々、あたしがこの資料を見ようと思ったのはこの街をより深く知るためだ。……この街の構造や特徴について、詳細が述べられている。乱雑に建った建物、川や森の位置から始まり王宮内へ街から侵入されることに対して集中して記述がされていることから、軍人かそれに近い人が書いたんだろう。少なくとも市民に近しい者ならこんなことにばかり注目せず、道路の整備不良による交通利便性問題を先に気にするはず。」
「どうして、街を知ろうとしているのかね?」
「あたしらの生活改善の為だ。」
「ふむ。この街に何をして、それを成そうとしている?」
「衛生面を改善する。」
「ほう?衛生面とな?」
「過去の新聞や歴史書を見ると分かるが、この街では高い頻度で疫病が発生してる。毎回経路として挙げられるのが水や空気だ。雨で濁った川の水をそのまま汲んで使用していること、廃棄物の遣り場が街になくて道路に捨て置かれているのが原因だ。これを書いた奴はは家をぶっ壊して道路を広げるとか巫山戯たことを抜かしているが、地形の関係で石が多いから整備が難しい。もし完成した道の状態が悪ければ結局馬や押し車は通れないし、第一建てた家を壊される市民は納得しない。故にこれは机上の空論、意味は無い。
そして衛生面の改善は道路より先にやるべきだ。この街は山も近いし川が近くに流れているから、かならず掘れば水脈に当たるだろう。だから井戸を掘ることが先決だし、その後家を壊すんじゃなくて今ある道路の整備と同時進行で道路に沿った水路を作ってゴミを流し、1箇所に集めて堆肥にするべきだと結論付けた。そして、あたしは今、路地裏の子供たちの手を使えばそれが出来ると確信してる。」
少女は夢中で喋った。
真剣に話を聞いてもらえるのは初めてだった。
少女に知恵を付けなければならないと告げた青年は、少女が話せば聞いてくれるだろう。
しかし、あまりにも身近過ぎて、まだまだこの無謀な計画を話すことが躊躇われたのだ。もっと綿密な計画を立ててから、と考えて口を噤んでいた。
「あたしは、いや、あたしらはこの街を変える。もっと綿密な計画を立てて、必ずやり遂げる。要は街の住民とあたしら、双方の利害が一致すればきっと上手くいくはずだ。報酬を求めたって文句は言えないだろうし、みんなが飢えないようにできるんだ。」
「ふむ。」
職員は唖然としていた。
彼はこの図書館の責任者であり、とある人物から少し前から、路地裏の子供が図書館に侵入しているとは聞いていた。
物盗りかと思ったが、ただ本を、文書を読み漁って帰ってゆく少女がいると。
学ぶ術を持たず、また学ぶ必要などないはずの少女が何故叩き出され、もっと言えば傷付けられるかもしれないと分かっていながら夜毎に忍び込むのか。
気になってはいたのだが、少女の頭の中にこんなに壮大な計画が、荒削りだが理路整然と成されていたとは思いもよらなかったのだ。
学校に通ったり、家庭教師に師事して知識を得る子供より遥かにその能力は上。まだ計画が荒削りだということも解っていて、計画を洗練させる。
恐ろしい才能と努力だった。
「……お嬢さん、それは一人で考えたのかね?」
「ここに、あたし以外誰かいたか?」
「そうか……驚いた。なるほど、あの子が君を推すわけだ……。」
職員の声は震えていた。
感動で。歓喜で。
「私は、王宮図書館の司書をしているアカイト=レオネイドという者だ。どうかその計画を詰める手伝いをこの老いぼれにもさせていただけないか。」
その時から僅か一年後、彼女は計画を決行へと移す。
子供たちに計画を話し、彼女を慕う子供たちは賛同した。市民たちに井戸の重要性を説き、それに彼らが手を貸す必要は無いことを説き、少数の市民からの理解を得て始まった、路地裏の子供たちによる工事。
その間にも子供たちのうちの幾人かは病に倒れ、事故で死に、時には妨害する市民や他の子供たちにより殺されもした。
少女自身、何度も死に掛けた。
しかし初めの一年で街中に井戸を造り、それから約5年の月日を掛けて道路と水路を同時に整備した。
彼女たちを応援する市民は何時しか増え、街の殆どとなり、路地裏の子供たちの生活は徐々に改善された。そしてついに、工事を完遂したとき、彼女たち路地裏の子供たちは街の中でインフラの整備という大事な役割を担う存在として認められたのだった。
そのころには路地裏の子供たちは皆彼女の手により文字が読め、簡単な傷病の手当を覚え、そして何より犯罪に手を染めなくなっていた。街になくてはならない働き手として認知させることに成功したのだ。
しかし、当の功労者の彼女は名誉のため養子に迎えようとする貴族を蹴散らし、路地裏に居続けようとした。そんな彼女を路地裏の子供たちはアカイトの前に叩き出し、そしてこう言い捨てたのである。
「もうこっちは充分だからそのじいさんの養子になって、そんで役人になって、前の俺達みたいな子を助けてよ。そんでさみしいから時々帰ってきてな!」
残念ながら計画をアカイトと立て始めてからすぐ、彼女に知恵をつけることを教えた彼はいなくなっており、そのあらゆる場面に立ち会えなかった。
別のところから歯がゆい思いをしながら見守り続けてていたのだ。
「僕が見込んだだけある……よくやったね、シュリエラ。」
後に第二王子という立場の彼と再会した少女は、無言で彼を殴り飛ばしたという。