08 はじめてのおつかい
青葉目に染む初夏の夕刻、いつもの修練を終えた三人は、椿佳の用意した料理を囲み話していた。
「椿佳は近頃拳法も料理も腕を上げたな」
「えへへ」
褒めて伸ばす師匠と兄弟子に、そうとは知りつつも褒められて嬉しい椿佳はにやけた顔で照れ笑いをしていた。散々な異世界初日を経験したが泰海の下に来て六年、師匠と兄弟子、周囲の環境に恵まれた椿佳は真っすぐ育っていた。
日本での年齢を加算すると二十二歳となり、真っすぐ育つというのも語弊が有るが、言わぬが花である。
「そうだ俊雷、剛山の所へ届け物をしてくれんか?」
「いつもの漬物ですか?」
「うむ。春に届けてもらった酒の礼だ」
「良徳さん、お酒は揺れて大変たって言ってたねー」
剛山とは泰海の弟弟子で、影手拳に様々な武術を取り入れ足技を主として使う武影脚という門派を開いた人物である。その剛山と泰海は、剛山が独立して一門を開いてからも付き合いを続けており、互いに年に一、二度は弟子を使いに贈り物を交わす間柄だ。良徳は剛山の弟子である。
泰海と俊雷が椿佳を拾ったのも、この師弟が剛山に会うべく王都・陽に赴いた帰り道であったのだ。その折は俊雷がまだ十二で一人行かせるには心もとない事もあり二人連れであったが、俊雷が十五の年からは俊雷が一人で行くこともあった。
「椿佳ももう十四だ。今年は椿佳も連れて行け」
「えっ、私も?」
「剛山老師は椿佳がお気に入りですからね」
「旅かー、わくわくします!」
女の身ということで、何かあっては大変と今まで椿佳を連れていく事は無かったのだが、近頃の上達ぶりを見てそろそろ外を見ても良い頃と椿佳を使いに遣る事を決めていた。
現代の感覚では幾分過保護に過ぎないかと思わなくもないが、大きな街からいざ知らず、野を行けば官兵の眼は届かず、盗賊の跋扈する場所に女の身で旅をすることは大変危険な世界である。さらには旅となると、現代日本のように公衆トイレやコンビニが有るわけでもなく、花摘みにも気を使う。
秋国は巨大な大陸の東に有る。大陸の西半分は異民族の国家群が治めており、交流は殆ど無い。大陸の南東部はかつて凌という大国であったが、現在では主要三カ国とその属国に分かたれ、秋国に暮らす人々と近しい人種の民族が治めている。秋国の領地はその凌文化圏の東南部に位置し、凌文化圏の三分の一弱を占める主要国家の一つである。三分の一とはいえ、端から端まで歩くのに一カ月以上必要な程の広さである。
そのような広大な国土で治安を維持する事は難しく、泰海の心配も当然であった。
「そうだな。椿佳を気に入って色々仕込んでたな、今年はこちらから出向いてたっぷり教えを請うて来い」
「はい!剛山老師の足技はかっこ良いですからね」
「何だ、椿佳は武影脚の方が良いのか?」
「えっ、そうじゃ無いけですど、影手拳にはあんまり蹴りが無いから、やっぱり両方使えた方が良いかなって思って……」
泰海の言葉に軽口で応えた椿佳だったが、泰海の返しが孫娘に冷たくされた老爺のような雰囲気で答えに困ってしまう。普段は厳格な師匠であるが時折おどけた調子を見せる泰海を椿佳は本当の祖父のように慕い、全幅の信頼を寄せていた。
泰海は昨年、訓練中に腰を痛めてから急に老け込んでいた。その後の修練でしっかり以前の動きを取り戻す程に回復していたのだが、六十を間近に控え、腰の調子が悪い泰海は今回の陽行きを見合わせおり、一抹の寂しさが表れたのだろうか。
「老師、拗ねないでください」
「ははは、冗談だ」
「では、一人一甕背負って、陽まで遠駆けで行ってこい」
困った椿佳に俊雷が助け舟を出し、冗談だと笑った泰海は指示を出す。これも立派な修行なのだ。
椿佳達の暮らす泰寛村から陽まで、一般の足で七日の距離である。俊雷と椿佳はその行程を甕を背負って四日で駆ける予定だ。これは馬で移動するような日程なのだが、日頃から特殊な遠距離走の訓練をしている二人ならば可能である。実のところ、俊雷だけであれば二日で十分なのだが、椿佳に合わせた日程を組んでいる。
出発は漬物が馴染む二日後と決まった。
そして出発日の早朝、これからの行程を前に入念に体の筋を伸ばしている二人を、夜が明けて活動を開始した雀たちと共に見送る。出発までの二日間で、道中胡乱な輩と遭遇しても対処できるようにみっちり椿佳を鍛え、宿題まで出した泰海は尚も心配顔である。急に色々と教えたところで付け焼刃ではあるのだが、そこは親心である。
「二人とも、気をつけてな」
「はい、それでは行ってきます」
「老師、私達がいないからってお酒は程々にしてくださいね」
「わかっとるわい」
師匠としての威厳を保つように表情を引き締めて言う泰海は、走り出した二人の背に思い出したとばかりに大声で言う。
「帰りは酒を一人一甕背負って、遠駆けだぞー」
(帰りは液体! 揺れて走りにくそう)
さらなる宿題と泰海の実益を兼ねた指令に、早くもげんなりする椿佳だった。