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07 忍び寄る黒い影

「ひぃぃ!」


 夕闇迫る午後の厨房で、第一の悲鳴が上がる。声の主は椿佳。午後の修練を終えて厨房へ入り、夕食の支度中の出来事であった。


「まさか、こんな世界にもヤツが居たなんて」


 雑食の魔王、天性の忍者、たまにはアルファベット一文字で表されることもある恐怖の存在が、今椿佳と共に厨房に存在するたった二つの生命だった。誰にも助けは求められない。そのアルファベットで表わされる存在は、例外なく最強。椿佳が知るだけでもその名で呼ばれる存在は三つ。ただし内二つは架空の存在では有ったのだが。

 おろおろとしていた椿佳だが、このままでは夕食の支度ができない。人類の敵と戦うため、悲壮な決意を固めて敵が潜んだ物陰に向き直る。


「どうしよう、新聞紙! は無い!!」


 悲壮な決意に表情を固くする椿佳ではあったが、獲物も無く素手で奴に挑む勇気は無かった。しかし日本では定番とされる有効な武器は、この世界には無い。敵に対する有効な攻撃方法を考えて眉根を寄せるばかりだ。


(下手に刺激すると、ヤツは顔を狙って来る!!)


 それだけは何としても避けたかった。やや距離を取りつつ有効な手段を考える。と、椿佳の背が食器棚にぶつかった。有る意味では、椿佳は厨房の隅まで追いつめられた。物理的な攻撃を受けた訳ではない。精神的なプレッシャーだけで厨房の隅まで追いやられる、恐ろしい敵だった。


(こうなれば、イチかバチか!)


 椿佳は大皿に手をかける。これは最終手段。もうひとつの最強の得意技……遠距離からの狙撃、彼ならば二キロ先からターゲットの頭を打ち貫くだろう。椿佳は火を吹く事は出来ない、極限状態の椿佳には、もうそれしか方法が思いつかなかった。


「何やってるんだ、椿佳?」

「兄さん! ヤツが! ヤツが居るんです!!」


 修練を終え、水を飲むために厨房へやってきた俊雷が食器棚に背を預けて青い顔をしている椿佳に声をかけるが、椿佳の言葉を聞いて眉をしかめた。


「ヤツって何だ、ヤツって。女の子がそんな言葉を使うもんじゃない」

「そんなこと言ってる場合じゃ……」

「だから、何なんだ」

「やぁっ、そこぉぉぉ!」


 はっきり物を言わない椿佳に業を煮やし、近づいていくと椿佳は俊雷の服の裾を掴み悲鳴を上げた。物陰から奴が動いたのを見てしまったのだ。


「なんだ、ゴキブリか」

「ひゃ!(掴んだ! 手で掴んだ!!)」


 俊雷は、つかつかと歩いて行ったかと思うと、ひょいと事も無げにゴキブリを掴みんで窓から外へ放り出してしまう。素手でゴキブリを掴んだ事にショックを受けた椿佳だが、この時代の人間にとってはごく当たり前のことであり、逆にその程度の事に怯える椿佳の方が余程変っていた。


「あ、ありがとうございます」

「何だ、あんなものが怖かったのか? 変った奴だな」

「何か手伝おうか?」

「ううん!大丈夫だから、可及的速やかに手を洗って来てください」


 両手を突き出して手のひらを左右に振り、全身で拒絶を現した椿佳に気分を害した俊雷だが、その姿を見て何を思いついたのか、にやりと笑い両手を椿佳に向けてにじり寄る。


「ほほー、そんな事を言うのはこの口か!」

「いぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 俊雷はゴキブリを掴んだその右手を、今度は椿佳の頬を掴むために素早く繰り出すが、日頃の練習以上に椿佳の反応は早く肘を抑えて防御されてしまう。


「おっ、やるな?」

「ひっ、わっ、とっ!」


 予想以上の、二重の意味での良い反応に俊雷は左手も繰り出し、連続突きならぬ連続アイアンクローほっぺた版を見舞うが、今度は内側から手の甲で前腕部を抑えられて防御された。その後も右、左、右、左と攻撃を繰り返すが悉く防御する椿佳。


「はははー、こいつー」


 何やら楽しくなった俊雷は手首を旋回させることで椿佳の右腕を逆に抑え、左手の制空権を確保すると右手での猛攻を開始する。







 厨房に酒を取りに来た泰海は偶然二人のじゃれあいを目撃した。めまぐるしく立ち位置を変え、ずいぶん手加減されてはいるが俊雷の動きについて行っていた。


(ほほぅ、ここへ来て二年、椿佳も良い動きをするようになって来たな)


 椿佳としては、ゴキブリに触った手を回避するため常に無い反応を見せているだけだが、事情を知らない泰海は弟子の成長に目を細めるばかりで助け舟を出す様子は無い。


「椿佳ちゃーん、おすそ分け。あ、泰海老師、こんばんは」

「おお、明星か。どうしたんだ?」

「父が魚をたくさん釣って来たんですが、食べきれないので、お裾分けに来ました」

「いつも澄まないな。お父さんに宜しく言っといてくれ」


 お裾分けに訪問した雑貨屋の娘で椿佳の友人の明星は、必死の形相で攻防を続ける椿佳を眺めながら、泰海と平和な日常風景を作り出していた。


「椿佳ちゃんすごいですねー」

「うむ、目を見張る成長だな。今後が楽しみだ」


 じりじりと厨房の隅に追いやられつつある椿佳と追いつめる俊雷を二人は微笑ましげに眺めつつ、三匹の魚が乗ったざるを受け渡す。


(見てないで、助けて!)


 のほほんとした空気を作っている二人に、助けを求める視線を送る椿佳だったが、全く気付いてはもらえなかった。


「ほほー、よそ見とは大した自信だな、っと」


 俊雷は右手で椿佳の左腕を下げさせ、左手で椿佳の右腕を掴んで、下に降ろさせた左腕に肘の位置で重ねさせて押さえてしまう。さらに右足は向う脛で椿佳左足を抑え込む。半身になっていた椿佳は両手と両足を押さえられた上に背後の壁に縫い付けられ身動きが取れなくなってしまった。


「うむ、終わったようだな」

「やっぱり俊雷さんには敵いませんね」

「それはそうだ。修業期間も背丈も違う」


 泰海の言葉に、それはそうかと思い直す明星だが、ひとつ疑問を口にする。


「やっぱり、女の子じゃ強くなれませんか?」

「なんだ、明星も強くなりたいのか?」

「いえ、うちの姉さんは武勇伝は凄いけど、本当なのかなって思いまして」


 明星の姉の紅蘭は、言い寄る男を伸してしまったという類の武勇伝を幾つも持っているが、本当にそんな事が出来るのか不思議だったのだ。


「もちろん力では敵わんだろうが、やりようによっては不可能では無いぞ」

「本当ですか?」

「うむ、今の俊雷を見ただろう、あれは力で抑えつけた訳では無くて、椿佳の力をうまく利用して体勢を崩し、力が入らない体勢をつくっているのだ」


 見ると、椿佳の足は俊雷の足に浮かされて地を掴んでいない。あれでは力の入れようも無いだろう。

 俊雷は徐に右手を椿佳の顔に近づける。椿佳はゆっくりと迫りくる魔手から目が離せず、力無く首を左右に振る。


(やめて、マジでやめて)


 しかし非情にも俊雷の右手は止まることなく、椿佳の頬を親指と残る四指で両側から挟み込んだ。


「ひっ、うぅ」


 大粒の涙を浮かべた椿佳に、やばい、と俊雷は慌てて掴んでいた手を離し、椿佳を壁から解放する。しかし椿佳は動かず、時折ひっくと肩を上下させるばかりだった。


「ご、ごめん、悪かった」

「……」


 雲行きが怪しい二人の雰囲気に泰海が訳を聞くと、明星はゴキブリをそこまで怖がる椿佳の感覚は理解できないものの、嫌がる女の子を追いつめるなんて何事ですかと怒りだし、泰海は笑っていた。


「椿佳、さっきは良い動きをしていたぞ。いい修行になったと思って許してやれ」


 言うと、ぼろぼろと泣き続ける椿佳の口に飴玉を一つ放り込む。


(こんなので機嫌が治ると……あ、おいしい)


 眉をハの字にしてぼろぼろと涙をこぼす椿佳だったが、コロコロと二度飴玉を転がすと表情が緩み泰海を見上げる。泰海はぽんぽんと椿佳の頭に手を置くと、部屋に戻って行った。









「老師、兄さん、ごはんの準備ができましたよー」


 夕食の支度が整った事を告げると、程なく二人が集まってきた。椿佳は満面の笑みで俊雷に小さな皿を差し出した。


「兄さんには特別メニューを追加です」

「……」


 メニューとは何だ?と訝しんだ俊雷だが、椿佳が良く分からない言葉を発することはたまに有ることなので気に留めず、差し出された品を見ると小ぶりの焼き茄子。ただし両側面に三本ずつの短い串を突きさし、先頭部に長めの串が二本差されており、串はご丁寧に黒く焼き色を着けられていた。


「うん、ありがとう」


 言うと俊雷はひょいひょいと串を抜き、茄子を口に放り込んでしまう。精神的なダメージを与えられなかった事は残念だが、此処までは椿佳も予想済みで、俊雷の反応をにやりとして待つ。


「辛っ!」

「今日の特別訓練のお礼です、兄さん、ちゃんと食べてね?」


 茄子の中にはたっぷりと辛子が仕込まれていた。

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