02 恩人、王泰海
「んー」
「どこだ、ここ。部屋じゃない」
目が覚めた彩花は、実に暢気な唸り声とともに上体を起こす。
自分の部屋では無い、見慣れない場所に戸惑いながら記憶の糸を手繰ると、盗賊と思しき集団から命からがら逃げてきた事を思い出す。
夢じゃなかったんだ、そう思いながら寝台から抜け出すと、全身の筋肉痛と、転んで負った傷の痛みに可愛らしい眉をしかめる。
「痛い」
「体、ちっちゃくなってる?」
現代風でも和風でも無いその部屋に有っても、自分の視線がいやに低い。
着せられている衣服は裾や袖が大分余っている。
「そうか、そうだ。何故か椿佳ちゃんになってたんだ」
「鏡…、は無いか。昔っぽいもんね」
盗賊団、父親の服装、街灯も電線も無い道を走って逃げたことを思い出す。
しかし、街灯の無い事が盗賊団から逃げおおせた要因の一つであることに、彩花は気付いていない。
(認めたくはないけど、これは、不思議の国のアリス的展開?)
(なんで体まで変わってる? 入れ替わり? 前世の記憶を追体験? それともマジで体が縮んだ?)
一連の不可解な現象を説明できず、ああでもない、こうでもないと頭をひねる。
(うさぎなんか追っかけてないよ、私? 兵隊とか女王とか怖いよ? てか帰りたい…)
この現象を引き起こした原因も、全く見当つかないが、現実味溢れる視界と、今なお脳に伝わり続ける体の痛みに、これは夢ではなく現実であることを否応なく突きつけられ、何ともファンタジーな事件に巻き込まれたもんだね、と受け止めた。
待てよ、ファンタジーか? SFか? はたまたオカルト?
うーん、そもそも、それらの境界ってなんだろう、と腕組みしつつ右手の人差し指をあごの下に当て、視線を上に向けて考えていたのだが、少々思考が脱線し始めたことに気付き、頭を振る。
(よし! ウジウジしててもしょうがない、なんかクリア条件があるはず。それをこなすだけだ!)
胸の前で拳を握り、ガッツポーズで気合を入れる。
(でも、魔王を倒せ、とかだったらどうしよう、私には無理だ)
しかし次の瞬間、ガッツポーズは力なく垂れ下がってしまった。
何にせよ、日本に帰還するまでは椿佳として生きていくしかない、変な言動を取ればどうなるか分かったものではない、私は椿佳だと自分に言い聞かせ、再び気合を入れる。
「目が覚めたか?」
物音に気付いたのか、初老を過ぎ、そろそろ老境に差し掛かろうかという男が、扉を開き入室してきた。
頭髪の半分は白髪で顔にも皺が目立つが、ピンとした姿勢には老いを感じさせない。
眉根を寄せ、胸の前に両手を寄せ小さくガッツポーズをしている椿佳と目が合うと、男は優しげに目を細めた。
椿佳は男に向き直り、腕組みを解いてから、はいと頷き返し、男に疑問をぶつける。
「あの、ここは?」
「ここは泰寛村、わしの家だよ」
「わしの名は王泰海、ここには弟子の俊雷と住んでいる」
「陽の都からの帰り道、行き倒れていたお前を拾ったのだ」
やはりこの体は椿佳だ、知らない単語なのに知っている。これは椿佳の知識だろう。
この国の名は「秋」、首都の名が「陽」である。
王泰海といえば、桃花村の様な寒村にも伝え聞こえる拳法の達人であった。どうりで矍鑠とした…、いや、老人というにはまだ早いか、でも昔っぽいから、このくらいの年齢は十分老人か、とぼんやり考えていた。
「お主、何処から来た? 名は何という?」
「桃花村です。私は椿佳、です」
椿佳はあわてて答え、私は椿佳、子供らしい受け答えをしないと、と再び自分に言い聞かせる。
またしても眉根を寄せ、胸に両手を寄せ、拳を作っている。
椿佳は無意識だが、どうやら癖の様だ。
「やはり、桃花村の娘か。辛かったろうが、大した傷が無くて良かった」
助かって良かったと言う泰海に、椿佳は村がどうなったのかを尋ねると、泰海の表情が陰った。
「うむ、残念だが桃花村はもう。この先、頼る宛てはあるのか?」
椿佳は無言で頭を横に振る。
「そうか、家は男二人で、家事が追いつかんでな、家の事をやってもらう代わりに、ここに住まんか?」
「いいの? でも、迷惑なんじゃ…」
行く宛ての無い椿佳は泰海の言葉に安堵するも、このままやっかいになって良いものかと遠慮していた。
「子供がそんなことを気にするな、それに桃花村には知り合いも居った。義鷹という男だ」
「義鷹、お父さんを知ってるの?」
突然出てきた父の名に驚き、目を白黒させる。
「そうか、お前は義鷹の娘か、わしは若いころ陽の都に道場を構えておってな、義鷹は門下生だったのだ」
「そうでしたか。お父さんが拳法をしていたなんて、知らなかった」
「義鷹はわしの若いころの門下生で優秀な男であったが、怪我をして志半ばで都を去ったのだが、折を見ては挨拶に来たもんだ。ここ数年は会っておらなんたが、残念なことだ」
椿佳の父は行商を生業としており、長く家を空けることが多かった。
泰海とはその時に会っていたのだろうか。
それにしても、泰海のような有名人と知り合いなら、娘に自慢話のひとつもしていいだろうに、椿佳は父の口からそのような話は聞いたことがなかった。
「うむ、疲れておろうから、今日はゆっくり休みなさい」
「後で弟子の俊雷もお前にも紹介しよう」
ありがとう、そう言って椿佳は、泰海の優しい言葉に、知らず涙がこぼれた。