戦場の狼、来たる
91年12月。
今日の総合格闘技の歴史において、その繁栄を約束する男が、崩壊寸前のソ連から来日した。
その男、名をガムザトキノフ・マゴメットハン…
またの名を「ヴォルク・ハン」
千変万化、否、億変兆化の関節技でリングを色鮮やかに染め上げた、コマンドサンボのエキスパート。
彼の来日により、従来のプロレスと大差のないサブミッションのバリエーションが桁違いに増えた。
クロスヒールホールドをはじめ、次々と新しい関節技を持ち込むハンは、瞬くまにリングスを席巻した。
ハンの来日には、世界アマチュアサンボ連盟会長(後にリングス審議委員長)の堀米奉文氏らの尽力があった。
当時のロシアは、ソ連の崩壊間もない頃で混乱期にあったために、なかなかビザの発給に至らなかった。
やっとこさ発給したら、今度は日本が「旧ソ連の元軍人」ということでなかなか入国を認めなかった。
仮にハンの来日が実現しなかったらどうなっていたか……考えるだけで堀米氏の東奔西走ぶりには頭が上がらない。
明くる92年。リングス・ロシア、リングス・グルジア、リングス・ブルガリアと着実にネットワークを拡大。それに対し新たな強豪達が日本にやってきた。
その筆頭が、ロシアのアンドレィ・コピィロフである。
当時旋風を巻き起こしていたハンに対し、旧ソ連サンボ大会での直接対決は3勝1敗と勝ち越し、残した戦績はハンを凌ぐといわれた。
その前評判通り、リングスでの地位を築きつつあったハンを撃破。前田とも死闘を繰り広げたのである。
一方、ハンも92年あたりから本領を発揮しはじめる。
まず5月の広島大会で前田を破り、8月の横浜アリーナでは、人気絶頂のフライと激闘の末逆転勝ち。その試合はメインの前田対コピィロフを上回り盛り上がりだった。
またリングス・ジャパンにおいても明るい話題が。
6月、有明コロシアムで開催された興行で、成瀬昌由と山本宣久の、生え抜きの若手がデビューを飾った。
この頃からジャパン勢もようやく新戦力が台頭してきたのである。
そして、10月。ついにリングスは初のトーナメントを開催する。
その名は「メガバトルトーナメント’92」