山本覚醒寸前
リングスネットワークが誕生してから4年。支部、選手層が、各国厚みを増す中で、発起人の前田の傘下・リングスジャパンは慢性的な選手不足を解消出来ずにいたがそれ以上に「前田に次ぐ存在」が確立されずにいた。
前田不在の前年のリングスで健闘しつづけた長井は、肝心のトーナメントに出場できずノーランカーのまま。
成瀬はリングスで一、二を争う小柄の為にパワー不足に苦しんだ。
なかなか現れなかった第二の前田日明。この年、その殻を打ち破りつつあったのが山本だった。この年の3月。横浜アリーナで、ロシアのナニエフ・オレッグで勝ちを収めると、そこから4連勝。7月の大阪でコピィロフに黒星は喫したが、翌8月のウィリー・ピータースとのランキング戦に勝利しランキング入り(8位)し、トーナメントのシード権を得る。
10月の福岡でのトーナメントでは、グルジアのグロム・ザザに逆転勝ちを収めて、3回戦のドールマン戦と相成った。
試合は山本の猛ラッシュで始まった。2回戦で先輩の長井がドールマンからダウンを奪っていたのを参考にしたのか、掌底ワンツーでペースを握ろうとする。
しかしドールマンもさるもの。右手を盾のように伸ばして自分の安全圏を確保すると同時に、じわじわと山本にプレッシャーをかける。
ただドールマンとしては速く試合を片付けたかった。49歳という年齢は老獪なテクニックを擁する半面、若い山本に付き合い続けるスタミナはない。
試合は5分が分かれ目と言われた。
そして7分。その時がくる。
コーナーに押し込まれた山本が放った膝蹴りを掴んだドールマンは、そのままリング中央に連れていき、引き倒してアキレス腱を取る。
だが倒された山本は逆にドールマンの足をとり、ヒールホールドを仕掛ける。
数秒の我慢比べの末…
喚きながらマットを叩いたのは……
………ドールマンだった。
その時、有明が揺れた……
歓喜にわく山本サイド。セコンドのオランダ勢が呆然とするドールマンサイド。
リングスに新たなる歴史が刻まれた瞬間だった。
ただ、これには「ドールマンはわざと負けた」という疑惑がある。
後にドールマンは、アントニオ猪木関連の著書のインタビューでこう答えている。
「あの時50近かった。対して山本は伸び盛りだったし、いいキャラクターを持っていた。実力は勝てていたが、俺が勝ったら悪いと思った。だからレッグロックで負けることにしたんだ」
ただ、どういう結果にしろ、ドールマンに勝ったという事実には変わりない。
初の前田戦、翌年のヒクソン戦を経てリングスのエースとなる山本にとって、その第一歩だったことは間違いない。