リングスの黎明
「総合格闘技」
このスポーツを一躍日本中に知らしめたのは、PRIDEであることは確かであろう。
しかし、総合格闘技の源泉を、あなたはご存知だろうか。
今や伝説の一戦と語り継がれる高田延彦対ヒクソン・グレイシー戦から、遡ること七年余り。
1991年5月11日
格闘王と呼ばれた、前田日明が旗揚げした総合格闘技団体
ファイティング・ネットワーク・リングス
これこそが日本のスポーツに「総合格闘技」というジャンルを新たに生み出したのである。
リングスの発足に至るには、幾分時を遡る。
1991年1月。前田をはじめ、高田や藤原喜明、船木誠勝に田村潔司と今考えるととんでもない選手層を誇った旧UWFが解散。
その後、高田はUWFインターナショナル(以後Uインターとする)、藤原は藤原組をそれぞれ旗揚げ。後に藤原組から離脱した船木が鈴木実(後の鈴木みのる)とともにパンクラスを旗揚げさせる中、前田は日本人選手が自分のみ(その後長井満也が加入)という状況でリングスを旗揚げした。
前田にとって恵まれていたのが、旧UWF時代から親交を持つ、オランダのクリス・ドールマンから、そして、開局間もないWOWOWから、それぞれ全面協力を受けたことだった。
特に、後者の協力は、前田の持つネットワーク構想に大きかった。活動休止に至るまでに十ヶ国に支部をおき、それぞれの国での興行も行われた。そしてネットワークを構築したことにより外国人選手の招聘には困らなかった。
また、資金についても、Uインターや藤原組とは比較にならないくらいに潤沢であった。
しかし、発足当初は選手不足、特に日本人選手が明かな駒不足だった。旗揚げ直前にUインターから移籍した長井は力不足で、トップクラスの外国人とまともに渡り合えるのは前田ただ一人だった。
窮状の象徴が秋に開催予定の札幌大会を、負傷の影響で延期するという事態に陥ったのである。
そんなリングスに頼もしい味方が現れた。
空手の正道会館である。
人気選手の佐竹雅昭と角田信朗かプロ選手としてデビューしリングスを盛り上げた。
特に佐竹の活躍は目を見張るものがあり、多くの有力外国人をKOに葬ったのである。
正道会館はリングスで興行のノウハウを学び、それが後のK−1に繋がって行くのである。
余談だか、あのピーター・アーツの日本デビュー戦はこのリングスで飾っている(リングス・オランダの選手として出場)。