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層流と滴

掲載日:2026/02/16

二階からけだるげな足音が降りてきた。少し疲れているのだろう。

……やはり……明日にしたほうがいいだろうか。ため息を見せつけて反応を探ろうと、眼球だけで啓太は左隣を伺った。

しかし、みのりは微笑みながら、首をちいさく横に振った。彼女から見ても、学校から帰ってきた波瑠にはいつもよりも活気がない。それでも今日、波瑠に伝えようと提案したのはみのりだった。啓太はしかたなく頷いた。

ダイニングの窓からは庭が見える。植木に雪がつもり始めている。間もなく吹雪くだろうと、今朝のニュースを思い出していた。


波瑠が扉をあけた。啓太がまた眼球を巡らせた。

「ったく……ようやく来た」

「……はーい」

「早く座りなさい」

ぶっきらぼうな口調をたしなめたくて、みのりは口を開いた。しかし、夫の表情を見たみのりは、仕方なく引っ込めた。

「…………っ!? チキン南蛮っ!?」

……よかった。もともと唐揚げの予定ではあったが、急いでタルタルソースを作ったのだ。波瑠の大好物だが、元を正せば、みのり自身の好物だった。


「コラ! ちゃんといただきますしてから」

少しだけ注意が遅れてしまった。波瑠はすでに1つの南蛮を箸で掴んでいた。ここでの待てはイヤだよね………。みのりは半ば謝るように両手を合わせる。

「はーいいっただきまーす!!」

両親が後に続いた。


「お前、ちゃんと手を合わせて――」

「――おいしい?」

「うん、おいひい!!」

お母さんが遮ったのをいいことに、波瑠はお父さんの小言を聞かないフリをした。今日はもうたくさんだった。口の中に集中したかった。サクサクとトロトロを楽しませてよ。


「よかったっ」

「そうだな……それでまぁ、食べながら――」

「波留、学校はどうだった?」

みのりは少しだけ夫を睨みつけた。まったく、段取りってものが――。少しひるんだ啓太に少々、胸のすく感じだ。


「ん? たのしかったよ?」

「ほんとうに〜?」

啓太は睨み返したが、妻はすでに波瑠の方を見ていた。

「うん!」

「じゃあ、今日体育とかあったの?」

「うん、そんなかんじ」

ほら、まるでなってない。啓太に言わせれば、波瑠がしらばっくれているのは明らかだった。

まったく。無遠慮に聞くからこうやって逃げられるじゃないか。社会人経験が乏しい。

どれ……。


「先生に怒られたのか?」

波瑠は返答の代わりに牛乳に手を伸ばす。ごくりごくり。牛乳の冷たい感じがくちびるから口の中へ、さらに奥へ、お腹に入った。

「おひげできてるよ?」

「え、ホントッ!?」

波瑠は少々大げさに驚いてみせた。それから後ろを振り返って窓を鏡代わりにしてみせた。

「ホントだ〜!」

「フフッ」

「波瑠ッ!」

ずっと……。お父さんの大きい声がキライだった。


驚いた拍子にお父さんと目が合いそうになって、それで、あわてて後ろの食器棚をみつめる。あの青い皿はきれいだなとか。そういう。

それから、お母さんを見た。お母さんは目を伏せていた。それから、机の下でお父さんを小突くような動きをしたように見えた。

「……べつに、なんでもない」

「波瑠……。別に怒るつもりとかじゃなくだな……」

「怒られるようなことしてない……」

みのりが口を挟んだ。

「ね、今日はいいんじゃない?」


みのりは夫のことを、無遠慮な人間だとは思っていない。不器用な人間なのだ。それは付き合ってはじめてのデートで気がついていた、一緒に暮せば愛嬌だとすら。それでも、うん。波瑠が生まれてからは少々目にあまりませんかね。あれ? 子はかすがい、じゃなかったっけ? 

「啓太も飲む?」

波瑠の牛乳を注いでから、問う。

「えっ? いや……」

結婚してから夕食中に牛乳を勧めたことは……記憶の限りでは存在しない。狙い通り、すこし面食らった顔だ。

波瑠はそれを見て、笑いを抑えるような、もにょりとした口をしている。そして、父親に見られる前に慌てて牛乳に手を伸ばした。


「そうだな……。ちょっともらうか」

カルシウムはイライラに効くという。小さい頃はあれだけ世界が晴れやかだったのも、実は牛乳を飲んでいたからかもしれない。

自分の妄言を笑い飛ばしながら、啓太は食器棚からマグカップを取り出した。去年、伊豆への家族旅行で買ったものだ。次いつ行けるんだろうな。ごまかし笑いのつもりが、皮肉に口角を歪めてしまう。

みのりの注いだ牛乳が層流をなす。一瞬だけ、牛乳パックとマグカップが、彫刻で繋がれたように見える。しかしすぐに、牛乳パックから滴がたれて、ぽちゃんと耳障りな音を立てた。あぁ、そういえば自分はカルシウム不足だったな。


「今日はな波瑠、大事な話があるんだ」

そうやって切り出した瞬間、腹の底で怒りが蘇った。どうして俺なんですか、と、部長に辞令を叩き返す……ことはできなかった。謹んでお受けしますと答えた俺の顔は、さぞ滑稽だったに違いない。あぁ、腹が立って仕方がない。


「……え?」

昼間の自分と全く同じ反応の波瑠を、みのりは愛おしく思った。


「そう」

短く付け足したお母さんは、それっきりくちびるに力を入れて黙ってしまった。


「そうだ」

言い切る。助けを求めるようにみのりの顔を見た波瑠から、視線を引き剥がす。



軽く言おう。軽く言おう。軽く言おう。

「波瑠、来年の四月な、引っ越すんだ」


え……。


お母さんの顔を見る。お父さんの顔を見る。冗談、だよね? どっちかが少しだけでも微笑んでくれていれば、冗談だって思える。

思えるのにさ。


……ねぇっ!


「波瑠……」

黙って! それか冗談だって言って。引っ越しなんて聞いてない。1年前に言われるならわかる。半年前でも……でも、もう2月だよ? ねぇ!


「……」

ごめんね、波瑠。波瑠の両目には少しずつ、じわじわと涙がせり上がっている。でも、ごめんね、波瑠、そうやって泣ける波瑠のこと、母さんは正直、羨ましい。手のひらに爪が食い込む感触がして、両手を開き、食卓の上に置いた。食べかけのチキン南蛮は早くも冷め始めている。


「急な話でごめんな……。父さんも先週、聞いたばかりなんだ」

お母さん、なんで何も言ってくれないの? お父さん変なこと言ってるよ? あのね、話す。ちゃんと話すから。今日ね、ひかりと、喧嘩しちゃったんだ。大丈夫、別に殴ったりはしてない。ちょっとした口論。だけど、ちょっと言い過ぎちゃって、ひかりがちょっと泣いちゃったから。ホント泣き虫でさ、ひかりのやつ……。大丈夫、ひかりと違うからさ。波瑠は泣き虫なんかじゃないし。ほんと、違うから。


「……」

みのりが、身を乗り出して、食卓の上の箱ティッシュを波瑠に差し出す。

「いらない!!」

耳障りな金切り声を出しながら押し返す。

行き場のない箱ティッシュが二人の手の間で揉まれて、チキン南蛮の上に落下した。落下して転がって、テーブルクロスの上にソースの汚いシミを広げていく。

「あぁ!」

どちらかが声あげる。俺は動けずにいる。


間。


「……あぁ、いいのいいの……」

みのりが無造作に箱ティッシュを拾い上げる。キッチンへ歩いていく。ガサリ。ゴミ箱へ放り投げる音が聞こえる。それから蛇口を細くひねって、台拭きを絞り出した。

波瑠は追いかけたいようだったが制止する。


「波瑠……。急な話でびっくりするのは分かる」

「……」

「波瑠……。父さんもな、大学に行くときは、その実家を出たわけだし、だな………」

「……」

「あー、違うな? 違うよな? ……すまん」

「……どこ?」

絞り出せたのは、これだけだった。多分、蚊みたいな声。

「ん?」

「どこ?」

「ん、あ…………、あぁ、どこ、つったんか……」


「そうだな……、それのが大事だな……」

スッって言って。お願い。なるべくタメたりしないで……。


「…………コロンビア」

は?


「アハハハ!!」

キッチンでお母さんが爆笑した。


「ねぇ、波瑠? 聞いた? コロンビアだって!」

まだ水気の残った台拭きをビタンとテーブルの上に叩きつける。

「ごちそうさまでいい?」

返事を待たずに牛乳をしまい始める。


「……うん」

「おかあさん、コロンビアってどこにあるか知らないかも」

「あぁ、南アメリカの……」

「知ってるに決まってるでしょ!?」

「ッおかあさん!?」

あーあ。もったいない。もったいない。チキン南蛮。頑張って作ったんだけどね。あんまり美味しくなかったみたい。

「ごめんネ」

「みのり」

「コーヒー作るんだっけ?」

「いや」

「コロンビア。あとなんかクイズ番組であったよね。なんだっけ両手上げてるポーズ」

ほんっとおかしい。

「ほら、波瑠。手伝って。これから引越し準備しなきゃなのにさ、テーブルクロスこんなにしちゃって」

「う、うん」

「すまなかった」

「あなたには関係ないでしょ? これ汚したの私なんだから」

「落ち着け」

「落ち着いてるでしょ??」

そうだよね?


……急に腰のあたりを抱きつかれた。

「お母さん、こわいよ!」

え? ウソ? ……なにが? 波瑠、どうしたの?

「……何が怖いの?」

「お母さん」

「なんで?」

「こわい……」

え……?


お母さんが膝から崩れ落ちた。

「……ごめんねッ………!」

お母さんが抱きしめ返してくれる。

あたたかくて、それで、震えている。涙声……。

「ごめんね……」


いつの間にか、波瑠とみのりが抱きあっている。お互いの後ろで重ねた手が、震えている。

声が震えている。しゃくりあげるように。


「……」

「あなたもおいで」「うん、おとうさんも」

「……」

「ほら、実はちょっと寒かったの。でも、波瑠とハグしたらね、ほら」

「……あ、あぁ……」


啓太は、はじめて、自分自身も震えていることに気がついた。


「コロンビアって雪降るのかな……」

「赤道近いし――」

「――あとでみんなで調べてみよっか」

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