層流と滴
二階からけだるげな足音が降りてきた。少し疲れているのだろう。
……やはり……明日にしたほうがいいだろうか。ため息を見せつけて反応を探ろうと、眼球だけで啓太は左隣を伺った。
しかし、みのりは微笑みながら、首をちいさく横に振った。彼女から見ても、学校から帰ってきた波瑠にはいつもよりも活気がない。それでも今日、波瑠に伝えようと提案したのはみのりだった。啓太はしかたなく頷いた。
ダイニングの窓からは庭が見える。植木に雪がつもり始めている。間もなく吹雪くだろうと、今朝のニュースを思い出していた。
波瑠が扉をあけた。啓太がまた眼球を巡らせた。
「ったく……ようやく来た」
「……はーい」
「早く座りなさい」
ぶっきらぼうな口調をたしなめたくて、みのりは口を開いた。しかし、夫の表情を見たみのりは、仕方なく引っ込めた。
「…………っ!? チキン南蛮っ!?」
……よかった。もともと唐揚げの予定ではあったが、急いでタルタルソースを作ったのだ。波瑠の大好物だが、元を正せば、みのり自身の好物だった。
「コラ! ちゃんといただきますしてから」
少しだけ注意が遅れてしまった。波瑠はすでに1つの南蛮を箸で掴んでいた。ここでの待てはイヤだよね………。みのりは半ば謝るように両手を合わせる。
「はーいいっただきまーす!!」
両親が後に続いた。
「お前、ちゃんと手を合わせて――」
「――おいしい?」
「うん、おいひい!!」
お母さんが遮ったのをいいことに、波瑠はお父さんの小言を聞かないフリをした。今日はもうたくさんだった。口の中に集中したかった。サクサクとトロトロを楽しませてよ。
「よかったっ」
「そうだな……それでまぁ、食べながら――」
「波留、学校はどうだった?」
みのりは少しだけ夫を睨みつけた。まったく、段取りってものが――。少しひるんだ啓太に少々、胸のすく感じだ。
「ん? たのしかったよ?」
「ほんとうに〜?」
啓太は睨み返したが、妻はすでに波瑠の方を見ていた。
「うん!」
「じゃあ、今日体育とかあったの?」
「うん、そんなかんじ」
ほら、まるでなってない。啓太に言わせれば、波瑠がしらばっくれているのは明らかだった。
まったく。無遠慮に聞くからこうやって逃げられるじゃないか。社会人経験が乏しい。
どれ……。
「先生に怒られたのか?」
波瑠は返答の代わりに牛乳に手を伸ばす。ごくりごくり。牛乳の冷たい感じがくちびるから口の中へ、さらに奥へ、お腹に入った。
「おひげできてるよ?」
「え、ホントッ!?」
波瑠は少々大げさに驚いてみせた。それから後ろを振り返って窓を鏡代わりにしてみせた。
「ホントだ〜!」
「フフッ」
「波瑠ッ!」
ずっと……。お父さんの大きい声がキライだった。
驚いた拍子にお父さんと目が合いそうになって、それで、あわてて後ろの食器棚をみつめる。あの青い皿はきれいだなとか。そういう。
それから、お母さんを見た。お母さんは目を伏せていた。それから、机の下でお父さんを小突くような動きをしたように見えた。
「……べつに、なんでもない」
「波瑠……。別に怒るつもりとかじゃなくだな……」
「怒られるようなことしてない……」
みのりが口を挟んだ。
「ね、今日はいいんじゃない?」
みのりは夫のことを、無遠慮な人間だとは思っていない。不器用な人間なのだ。それは付き合ってはじめてのデートで気がついていた、一緒に暮せば愛嬌だとすら。それでも、うん。波瑠が生まれてからは少々目にあまりませんかね。あれ? 子はかすがい、じゃなかったっけ?
「啓太も飲む?」
波瑠の牛乳を注いでから、問う。
「えっ? いや……」
結婚してから夕食中に牛乳を勧めたことは……記憶の限りでは存在しない。狙い通り、すこし面食らった顔だ。
波瑠はそれを見て、笑いを抑えるような、もにょりとした口をしている。そして、父親に見られる前に慌てて牛乳に手を伸ばした。
「そうだな……。ちょっともらうか」
カルシウムはイライラに効くという。小さい頃はあれだけ世界が晴れやかだったのも、実は牛乳を飲んでいたからかもしれない。
自分の妄言を笑い飛ばしながら、啓太は食器棚からマグカップを取り出した。去年、伊豆への家族旅行で買ったものだ。次いつ行けるんだろうな。ごまかし笑いのつもりが、皮肉に口角を歪めてしまう。
みのりの注いだ牛乳が層流をなす。一瞬だけ、牛乳パックとマグカップが、彫刻で繋がれたように見える。しかしすぐに、牛乳パックから滴がたれて、ぽちゃんと耳障りな音を立てた。あぁ、そういえば自分はカルシウム不足だったな。
「今日はな波瑠、大事な話があるんだ」
そうやって切り出した瞬間、腹の底で怒りが蘇った。どうして俺なんですか、と、部長に辞令を叩き返す……ことはできなかった。謹んでお受けしますと答えた俺の顔は、さぞ滑稽だったに違いない。あぁ、腹が立って仕方がない。
「……え?」
昼間の自分と全く同じ反応の波瑠を、みのりは愛おしく思った。
「そう」
短く付け足したお母さんは、それっきりくちびるに力を入れて黙ってしまった。
「そうだ」
言い切る。助けを求めるようにみのりの顔を見た波瑠から、視線を引き剥がす。
軽く言おう。軽く言おう。軽く言おう。
「波瑠、来年の四月な、引っ越すんだ」
え……。
お母さんの顔を見る。お父さんの顔を見る。冗談、だよね? どっちかが少しだけでも微笑んでくれていれば、冗談だって思える。
思えるのにさ。
……ねぇっ!
「波瑠……」
黙って! それか冗談だって言って。引っ越しなんて聞いてない。1年前に言われるならわかる。半年前でも……でも、もう2月だよ? ねぇ!
「……」
ごめんね、波瑠。波瑠の両目には少しずつ、じわじわと涙がせり上がっている。でも、ごめんね、波瑠、そうやって泣ける波瑠のこと、母さんは正直、羨ましい。手のひらに爪が食い込む感触がして、両手を開き、食卓の上に置いた。食べかけのチキン南蛮は早くも冷め始めている。
「急な話でごめんな……。父さんも先週、聞いたばかりなんだ」
お母さん、なんで何も言ってくれないの? お父さん変なこと言ってるよ? あのね、話す。ちゃんと話すから。今日ね、ひかりと、喧嘩しちゃったんだ。大丈夫、別に殴ったりはしてない。ちょっとした口論。だけど、ちょっと言い過ぎちゃって、ひかりがちょっと泣いちゃったから。ホント泣き虫でさ、ひかりのやつ……。大丈夫、ひかりと違うからさ。波瑠は泣き虫なんかじゃないし。ほんと、違うから。
「……」
みのりが、身を乗り出して、食卓の上の箱ティッシュを波瑠に差し出す。
「いらない!!」
耳障りな金切り声を出しながら押し返す。
行き場のない箱ティッシュが二人の手の間で揉まれて、チキン南蛮の上に落下した。落下して転がって、テーブルクロスの上にソースの汚いシミを広げていく。
「あぁ!」
どちらかが声あげる。俺は動けずにいる。
間。
「……あぁ、いいのいいの……」
みのりが無造作に箱ティッシュを拾い上げる。キッチンへ歩いていく。ガサリ。ゴミ箱へ放り投げる音が聞こえる。それから蛇口を細くひねって、台拭きを絞り出した。
波瑠は追いかけたいようだったが制止する。
「波瑠……。急な話でびっくりするのは分かる」
「……」
「波瑠……。父さんもな、大学に行くときは、その実家を出たわけだし、だな………」
「……」
「あー、違うな? 違うよな? ……すまん」
「……どこ?」
絞り出せたのは、これだけだった。多分、蚊みたいな声。
「ん?」
「どこ?」
「ん、あ…………、あぁ、どこ、つったんか……」
「そうだな……、それのが大事だな……」
スッって言って。お願い。なるべくタメたりしないで……。
「…………コロンビア」
は?
「アハハハ!!」
キッチンでお母さんが爆笑した。
「ねぇ、波瑠? 聞いた? コロンビアだって!」
まだ水気の残った台拭きをビタンとテーブルの上に叩きつける。
「ごちそうさまでいい?」
返事を待たずに牛乳をしまい始める。
「……うん」
「おかあさん、コロンビアってどこにあるか知らないかも」
「あぁ、南アメリカの……」
「知ってるに決まってるでしょ!?」
「ッおかあさん!?」
あーあ。もったいない。もったいない。チキン南蛮。頑張って作ったんだけどね。あんまり美味しくなかったみたい。
「ごめんネ」
「みのり」
「コーヒー作るんだっけ?」
「いや」
「コロンビア。あとなんかクイズ番組であったよね。なんだっけ両手上げてるポーズ」
ほんっとおかしい。
「ほら、波瑠。手伝って。これから引越し準備しなきゃなのにさ、テーブルクロスこんなにしちゃって」
「う、うん」
「すまなかった」
「あなたには関係ないでしょ? これ汚したの私なんだから」
「落ち着け」
「落ち着いてるでしょ??」
そうだよね?
……急に腰のあたりを抱きつかれた。
「お母さん、こわいよ!」
え? ウソ? ……なにが? 波瑠、どうしたの?
「……何が怖いの?」
「お母さん」
「なんで?」
「こわい……」
え……?
お母さんが膝から崩れ落ちた。
「……ごめんねッ………!」
お母さんが抱きしめ返してくれる。
あたたかくて、それで、震えている。涙声……。
「ごめんね……」
いつの間にか、波瑠とみのりが抱きあっている。お互いの後ろで重ねた手が、震えている。
声が震えている。しゃくりあげるように。
「……」
「あなたもおいで」「うん、おとうさんも」
「……」
「ほら、実はちょっと寒かったの。でも、波瑠とハグしたらね、ほら」
「……あ、あぁ……」
啓太は、はじめて、自分自身も震えていることに気がついた。
「コロンビアって雪降るのかな……」
「赤道近いし――」
「――あとでみんなで調べてみよっか」




