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6 記憶の番人の終焉

 K.Yからのメッセージは、僕たちの記録の要塞の窓を破り、雫の最も深いトラウマを呼び起こした。


【K.Yからのメッセージ:雫の妹はこの記録の要塞の隠された場所で待っている。君の忘却を終わらせてあげる】


 雫の記憶の番人としての役割は僕の父との秘密の契約、すなわち妹の死の記憶の忘却と引き換えに成立していた。K.Yはその契約を破り雫に妹の記憶を強制的に思い出させようとしている。


「雫、K.Yは君の妹をどこに隠した? この洋館にそんな場所があるのか?」


 雫はそのメッセージを見て全身を震わせた。


「妹は……妹は、あの時、あなたの兄に殺された。遺体はこの隠れ家にはないはず。K.Yは私を誘き出すためにこのメッセージを使った」


「いや、違う、雫」


 朝霧玲音が鋭い目つきで洋館の構造図を見つめた。


「K.Yは記憶の番人である君の記憶を消すため、君の最も忘れたい過去を物理的な装置として利用しようとしている」


 朝霧は洋館の図面の記録の要塞の部屋の真下に、未使用の地下室の存在が記されていることを示した。


「この部屋の真下にはまだ誰も開けていない地下室がある。K.Yはそこに君の妹の記憶を呼び覚ます装置、あるいは妹の死の真実を隠した」


 そしてK.Yは僕の忘却そのものを、雫の記憶消去のトリガーにしようとしている。


「K.Yは僕が妹の記憶の真実を知ることで、僕の無垢な自我が崩壊し、僕の忘却が雫の記憶を消去する装置として作動するよう仕向けた」


 僕の忘却探偵という存在はK.Yの計画において、雫の記憶を消すための最終兵器として設計されていたんだ。


 僕たちはK.Yのメッセージが示す隠された場所、すなわち洋館の地下室へと降りる方法を探した。


「雫。この洋館は僕が次の事件に備えて用意した場所なんだよな。この地下室への入り口を君は知っているはずだ」


 雫は静かに記録の要塞の部屋の隅に置かれた古い地球儀を指差した。


「この地球儀はあなたが忘却の螺旋というテーマを理解するために用意したもの。そしてその中心に地下室への入り口が隠されているみたい」


 僕は地球儀の北極点を回した。カチッという音と共に部屋の床の一部が静かに開いた。そこには地下へと続く新しい金属製の階段が続いていた。


 地下室はサーバー室と同じく、コンクリート剥き出しの空間だった。その中央に一台の小型の装置が置かれている。それは鏡花のアトリエで見た忘却の薬を噴霧するための装置に酷似していた。


 装置の横には一枚の写真がスポットライトに照らされて置かれている。


 写真に写っていたのは、幼い頃の雫と、彼女にそっくりな幼い少女。雫の妹だ。


 僕の記憶は少女の顔を初見として処理するが、雫は、写真を見て全身の力が抜けたように床に崩れ落ちた。


「妹」


 その時、装置から微かな霧が噴霧され始めた。それは忘却の薬ではない。


「これは……記憶を強制的に呼び起こすための刺激薬だ!」


 朝霧が叫んだ。


 K.Yは雫に妹の死の記憶を強制的に思い出させ、その記憶の崩壊を、僕の忘却のトリガーにしようとしている。


 雫の頭の中で、妹の死の瞬間の記憶が、強烈な光のように蘇り始めた。


「思い出した……私が妹を……」


 雫の瞳に激しい恐怖と罪悪感の色が浮かんだ。妹を殺したのがK.Yではないという、最も忘れたい真実を思い出した。


「なにがあったんだ! K.Yが雫の妹を殺したんじゃないのか?」


 僕はメモ帳を握り締め雫に問いかけた。

 雫は床に這いつくばりながら震える声で告白した。


「妹があの地下室で、脱走しようとして、私を庇って、誤って命を絶ってしまった。私のせいだ! 私があの時、止められなかったから……」


 K.Yは僕の父と協力し、妹の死の真実をK.Yの罪にすり替えた。そして雫に妹の記憶を忘れるという罰を与え、僕の記憶の番人としての役割を強要したのだ。


 僕の頭の中で雫の罪の記憶と、僕の忘却の自我が激しく共鳴し始めた。


 脳内で僕の無垢な人格を維持するシステムが、危険なノイズとして雫の罪の記憶を認識し、僕自身の忘却を雫の記憶消去のコマンドとしてK.Yに送ろうとする。


「夜凪零。君の自我は運命に従う。君の忘却が彼女の記憶を消去する」


 K.Yの声が地下室のスピーカーから響き渡った。僕の忘却が雫を殺すという究極の矛盾に直面する。


「僕は……僕は忘却探偵だ! 僕の忘却は僕自身の意志で使う!」


 僕はペンを握り締め自我が消滅する危険を冒して、メモ帳に最後の真実の抵抗を書きつけた。


【雫は妹の死の罪を背負った。K.Yの真の目的は雫の記憶消去。僕は雫を守る。僕の忘却は消去装置ではない】


 僕はそのメモを雫に突きつける。


「雫! 君の罪を僕がすべて記録した。君はもう忘れる必要はない。君の記憶は僕が継ぐ!」


 雫はそのメモを受け取り、涙を流しながら僕のペンを取った。彼女は僕のメモ帳に震える文字で最期の記録を書き始めた。


【零くん。あなたは私に探偵の意志を与えてくれた。私の最期の記憶はあなたが私の運命を救ったという真実。さようなら、私の忘却探偵】


 直後、雫はペン先を手首に強く突き立てた。


 ブシュッ!


 雫が僕の手に書きつけたのは血文字による、K.Yの忘却の薬を停止させる緊急の解除コードだった。


「零くん! このコードを装置に! 私のことは、もう、忘れて!」


 雫の自我は妹の罪の記憶と、僕の父との契約の板挟みになり崩壊を選んだ。彼女は忘却探偵の記憶の番人という役割を、命と引き換えに僕に返却したのだ。


 僕は雫の血文字のコードを震える指で装置に入力した。装置は停止し地下室のシステムが沈黙した。


 瞬間、僕の記憶は雫の死という、最も劇的なトラウマによって、究極のリセットを迎え再びゼロに戻った。


 僕は冷たい地下室で目を覚ました。頭の中は静寂に包まれている。


 目の前には白いタキシードの男、そして、僕の隣には血まみれの少女が倒れている。


 僕は反射的に手に握られたリングノートを開いた。


【僕の名前は夜凪零。職業は忘却探偵。僕は今、このメモに書かれた真実をすべて忘れている】


 そして最終ページに書かれた血文字のメッセージ。


【零くん。あなたは私の運命を救った】


 僕はそのメッセージの意味を全く理解できない。ただ目の前の少女が僕にとって「最も大切ななにか」であったという、感情の残骸だけが僕の胸に残っていた。


「あなたは……誰ですか?」


 僕は朝霧に尋ねた。

 朝霧は静かに僕のメモ帳を閉じた。


「君は君の運命のすべてを記憶の番人と共に終結させた。彼女は君の忘却を、探偵の証明に変えた。君はもう忘却探偵ではないかもしれない」


「僕は……僕は誰なんですか?」


「君は記録の探偵だ。そして君の物語は君の忘却という名の螺旋を越え、他人の記憶を背負う新たな旅へと続く」


 僕の記憶の果てに、雫の意志だけが、探偵の証明として、僕のメモ帳に永遠に記録され続けた。

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