5 記憶の番人の告白
制御盤のカウントダウンが停止し、K.Yによる忘却のデザインの拡散は阻止された。僕の記憶は金城警部補が父の共犯者であったという、劇的な真実を既にノイズの彼方へ追いやっていた。
「警部補。これで大丈夫ですか? K.Yはこの別荘に仕掛けたすべての装置を起動させようとしていた」
僕は金城警部補に協力者であるという記憶を失った状態で話しかける。彼の顔には安堵と共に僕の忘却による赦しを得た、複雑な表情が浮かんでいた。
「ああ、大丈夫だ、夜凪。お前の言う通り、この別荘には恐ろしい仕掛けが隠されていた。お前と七瀬君のおかげで、最悪の事態は避けられた」
「それは僕のメモにそう書かれているから、あなたがそう信じているだけかもしれませんよ」
僕は自嘲気味に笑う。
その時、朝霧玲音が僕たちの背後で言った。
「忘却探偵。君のメモ帳には『金城警部補は僕の協力者として制御盤の場所を教えてくれた』と書き加えられている。君の忘却は彼の罪を消し去り善意の協力者という新たな役割を与えた」
僕は改めて金城警部補を見た。彼は僕の忘却によって過去の罪から解放されたのだ。そして彼はその新たな役割を現実として受け入れている。
「金城警部補。あなたは僕の父の忘却の薬の存在を世間に公表すべきです。それが僕の父の贖罪であり、あなたの真の協力者としての証明になる」
金城警部補は深く頷いた。僕の忘却によって探偵としての僕の存在を初めて心から認めたようだった。
「わかった。私はこの別荘のすべての証拠と共に真実を公表する。だが一つだけ、お前に伝えておきたいことがある」
彼は僕と雫を真っ直ぐ見つめた。
「K.Yはまだ諦めていない。彼は忘却のデザインの最終傑作として、君たちの最も大切な記憶を奪おうとしている。彼が狙うのは君たちの運命共同体としての記憶だ」
金城警部補が部下と共に別荘から証拠品を運び出し、立ち去った後、僕たちは再び藤沢咲と向き合った。彼女はまだ忘却のデザインという名の空虚な自我を纏っている。
「咲さんの記憶を元に戻すことは出来ないのか?」
「理論上は不可能だね、零くん。記憶の結合は破壊されているんだよ」
その時、僕の頭の中で僕の父の最後の音声記録の断片的な言葉が蘇った。
『彼の次のターゲットは記憶の番人である君の秘書―― 七瀬雫だ。そして君は僕たちの計画の最終兵器として、彼女の記憶を消去するために作られた』
僕の記憶はこの兄の告白を、既に過去のゴシップとして処理している。しかし雫の存在と僕自身の役割が、今、改めて僕の探偵としての意識を突き動かす。
僕は雫を見た。彼女の瞳は僕の記憶障害が始まって以来、常に僕の真実を記録し続けてきた鋼のような強さを秘めている。
「メモには雫が僕の記憶の番人であると書かれている。君は僕の父とK.Yの計画をどこまで知っていたんだ?」
ゆっくりと雫は過去を語り始めた。
「私はこの地下室であなたと共に監禁されていた。そしてあなたのお父さんがあなたの記憶を操作し、無垢な人格を作り上げているのを目撃した」
「その時、雫は……どうしたんだ?」
「私は夜凪零の自我の消滅に抗うため記録という手段を選んだんだよ。あなたのお父さんとK.Yは、私の存在を予期せぬノイズと呼んだ。私の記憶が忘却の完璧な設計図を邪魔するからね」
雫はメモ帳を広げ最初のページを指差した。
「あなたが私に『僕の記憶の番人になってくれ』と頼んだわけじゃない。私があなたにメモを取るという反抗の手段を教え、あなたに『探偵の意志』を作り上げた」
雫の告白は僕の忘却探偵としてのオリジン・ストーリーを根底から覆した。僕の自我は僕自身が作ったのではなく、雫が僕を忘却探偵としてデザインしたのだ。
「僕が君の作品だったというのか?」
「違う。あなたは私の希望だよ。あなたの無垢な人格は、あなたの罪深い自我を打ち消す、僕たちの運命の救いだった」
雫は静かに涙を流した。
刹那、朝霧玲音が僕たちの会話に口を挟んだ。
「七瀬雫。君の告白は美しい。だが君にも忘れたい過去がある。K.Yが最後に狙っているのは、君の自我ではなく、君が最も秘匿したいある記憶ではないのか?」
雫は一瞬、顔色を変えた。その瞳に初めて動揺の色が浮かぶ。
「なんのことです、朝霧さん?」
「K.Yは君を予期せぬノイズと呼んだ。それは君が夜凪零の無垢な人格を守るという誓いを『ある交換条件』の下で受け入れたからだ」
朝霧は僕の父のログに記されていた、暗号化された最後のファイルのテキストログを僕に見せた。
『父のログ:雫の記憶消去に関する記述。V.D.プロトコル適用直前に中止』
「君の父は雫の記憶を消去しようとした。だが直前で止めた。なぜだろう?」
雫は観念したように目を閉じた。
「私の妹の記憶と引き換えに私の記憶の消去を止めてもらったんだよ」
「妹?」
「私もあなたと同じく誘拐監禁事件の被害者だった。そして私の妹も。妹は監禁中にあなたの兄によって殺害された」
僕の罪深い自我K.Yが犯した最も重い罪。
「私の妹を殺したのは真の夜凪零だよ。あなたの父はその罪を隠すため、私の妹に関するすべての記憶を忘却の薬で消去することを提案した。その交換条件として『私の記憶は残し、あなたの記憶の番人となる』ことを強要した」
雫の記憶の番人としての役割は、僕の父との秘密の契約によって生まれた。彼女は僕を守ると同時に妹の死の真実を永久に忘れるという罰を受けていたのだ。
「K.Yが最後に狙っているのは君が妹の記憶を思い出すことだ。それが彼にとって忘却のデザインを邪魔する最後のノイズになるからね」
瞬間、僕たちの隠れ家である記録の要塞の窓ガラスに一つの石が投げ込まれた。石にはK.Yの筆跡でメッセージが巻きつけられていた。
『最後のノイズ、七瀬雫へ。君の妹は、この記録の要塞の隠された場所で君を待っている。君の忘却を終わらせてあげる』




