勝利の種別
昼過ぎに麓へ着いた俺とエティエンヌは、同日夜に軍議へ参加した。地元領主の館を借りて行われた会議には、前線の諸将も列席していると聞かされた。確かに軍服の生地や装飾は、最高指揮官級ではないものの、相当な上位に属するものだった。エティエンヌは上座で型通りの挨拶を述べた後、俺を促して立たせた。
「諸将、既に聞き及んでいると思うが。私は『神の料理人』アメール殿を得た。父に仕えたルネ・ブランシャール殿の、弟子にあたる人物だ」
エティエンヌは一同を見回した。だが反応は芳しくない。どこか呆れたような、冷ややかな空気さえ感じる。
「失礼ながらエティエンヌ殿下。殿下は自らの行いが、民にどのように認識されたか自覚しておられますかな」
将の一人が、あごひげを撫でながら言った。
「大きな成果を得るには、危険を冒す必要がある。『竜の巣に飛び込まねば竜鱗は得られない』と、古来から伝わる通りだ」
「殿下が戦士や狩人であれば、それもよろしいでしょうが。民の噂、聞き及んでおらぬとは言わせませんぞ」
「『料理人探しを口実に、霊山へ雲隠れした』『帰っては来ないだろう、神狼に食われるにせよ野垂れ死ぬにせよ』悪い噂は兵卒の士気にも関わります。軽挙妄動は厳にお慎みを」
口々にあがる、諫言を装った非難。エティエンヌの頬に朱が差す。
「だが私は『竜鱗』を得た、文字通り竜の住まう山で。神の料理人が、我々に王の力と権威をもたらすことは間違いない」
「常日頃お伝えしておりますように、それは殿下のなすべきことではございませぬ」
あごひげの将が、溜息と共にエティエンヌを見つめる。
「殿下の責務はただひとつ。『生きてそこに在ること』でございますよ。ヴァロワ王家直系唯一の生き残りとして、本陣で我らの旗頭となっていただくこと。それこそが殿下の唯一無二の役割でございます」
「ただ座っていれば、それでいいというのか」
エティエンヌの語気が荒い。明白に反語を意図した言葉を、諸将は薄く笑って受け止めた。
「そのとおりでございますよ」
「お解りいただけたなら幸いです」
「だが、私は『炎竜王』ヴィクトールの息子だ」
エティエンヌの言葉尻が、わずかに震えている。おそらく彼にとって、この反応は予想外だったのだろう。せっかく危険な霊山へ分け入って、王権の証を連れてきたというのに、返ってきたのが冷笑と非難ばかりでは、腹も立つのだろう。だからといって擁護する気も、俺にはまったくないのだが。
「知っての通り『神の料理人』の力、すなわち魔法を行使できるのは、正統の王権を持つ者だけだ。大いなる力の助けがあれば、戦局も我々の優位に傾くはず」
真っ赤な顔で、エティエンヌは一同を見回した。が、切れ長の青い目ににらまれても、諸将に動じた様子はない。
「魔法による示威、平時であれば有効でしょうな。ですが、事ここに至った今、戦略的な意味は小さいでしょう」
あごひげの将は机上の地図を指した。フレリエール王国の全土が描かれた布製の図に、白と黒の石が並んでいる。各々の石は都市や砦に乗っており、白が王家たるヴァロワ家の、黒が敵対する貴族連合の、それぞれ支配地域を示す。置かれた石は七割ほどが黒で、白は図面の右下あたりで押されている。あごひげの将は諭すように言った。
「殿下、戦術と戦略の区別はおつけください。魔法がいかに強力でも、扱えるのは殿下と神の料理人だけ。二人にしか使えぬ局所的な力は、戦術にしか役立ちませぬ。我々が考えるべきは戦略、すなわち大局の流れであって、ひとつやふたつの勝ち負けではございませぬ」
いたたまれない空気だった。ただひとりを除く場の全員が、同じ認識を確かに共有している。気付いていないひとりに向けられた、憐れみとも呆れともつかない視線が、傍で見ている俺にすら痛々しく感じられた。エティエンヌの色白の手が、固く握られて更に白い。
「まるで私が、大局を見ておらぬかのような物言いだが」
ようやく発された王子の声は、明らかに震えていた。
「我が軍が、王の権威を証する絶大な力を得たことは事実。その威力を敵味方双方に広く印象付ければ、人心に大きな影響があるだろう。それこそが私の狙い」
「局所的な力に頼るのは、賭けですぞ。我々に、分の悪い博打を打つ余裕はございませぬ」
生温い視線が上座に集まる。エティエンヌは鋭く一同を見回し、地図上の一点を指した。
「川の街リヴィエルトン。『大いなる橋』を擁する要衝にして、現在地からも近い拠点都市」
「我々がまず目指すべき戦略目標ですな。しかし敵もそれは予期しておるはず。簡単に崩せる水準の守備では――」
エティエンヌは、あごひげの将を強く睨みつけて言った。
「我々はここで勝利する。圧倒的な力の差を、完膚なきまでの優位を見せつけた上で」
「ずいぶんと強気なご様子。そこまで仰るからには、勝算があるのですかな?」
「魔法の力があれば十分に可能だ。そこを起点に、正統の王への畏怖が全土へと広がれば、流れは我々に味方するだろう。父がかつて魔法の力で、寡兵をもって軍船数百艘を焼き払い、大局の流れを引き寄せたように!」
動揺と当惑とを含んだ、ざわめきが上がる。エティエンヌは不意に俺を振り向いた。
「という次第です。頼みましたよ『神の料理人』殿……リヴィエルトンの堅守を打ち破る魔法の一皿、準備をお願いします。可能なかぎり華やかな、完全なる勝利を我らに」
いきなり何を言い出すんだ、この王子様は――喉まで出かけた素っ頓狂な声を、俺はかろうじて飲み込んだ。全部俺に丸投げかよ、冗談きついぜ、と軽口のひとつも叩きたかった。だが、エティエンヌの顔はあまりにも真剣だった。
会議はなおも続いた。が、議論は俺の耳を素通りしていく。
ものの頼み方も知らねえのかよ、この王子様は――心の中だけで舌打ちをしつつ、思考は過去に引きずられていく。思い出したくないのに、どうしても父親と比較してしまう。初めて会ったとき、ヴィクトールは最下層の貧民だった俺にさえ、丁重に膝を折ってくれた。
すべてのはじまりとなった言葉を、俺はいまでも鮮明に思い出せる。あの日、貧民街から連れてこられた俺は、王宮の一室で即位前のヴィクトール王子とふたりきりになった。豪奢な部屋の隅で、王子は、薄汚れたいち孤児の前に跪いて言ったのだ。
(私には玉座も王笏も、王太子の位もない。だからルネ……君が、私の王冠になるんだ)
俺のかさついた掌が、両手で包み込まれた。大きく温かい手だった。燃えるような目が、真正面から俺を見た。ほんの少し、おそろしいと感じた。だが、目を逸らすことができなかった。青く輝く瞳が、心の奥底までも射抜いて捕らえてくるような、そんな錯覚さえ覚えた。
いや、錯覚ではなかった。あの時自分は、心臓の奥底まで彼に捕らえられたのだ。強く握り締めてくる掌は、孤児院の先生たちよりも固く力強く、優しかった。許されるなら、いつまでもこうしていたいと思った。そして願いは叶い、俺はあいつと数十年を共に歩んだのだ。
エティエンヌに同じことをやれとは言わない。だがほんの少しでも、父親から礼儀なり人心の掴み方なりを受け継いでいれば、もう少しましな人間に育っただろうに。
口に出しはしない。言ったところで状況は変わらない。変わりようがない。頭と胸の内が、今はただ重かった。