美味佳肴の山
山小屋の戸を開けば、目の前は雪を頂いた天衝く山だ。霊山エスカルデはやはり綺麗だ。空は深い青色に澄み通り、山頂にかかる笠雲以外に白は浮いていない。緩やかな稜線を眺めていると、夢見の悪さ程度で苛立っていた己の性根が、あまりにちっぽけに思える。美しい山。豊かな森。澄んだ川。各々で穫れる天地の恵み。人に、他に何が必要だというのか。
用意してあった茸を、裏手の川へ持っていく。洗うために流れの穏やかな所へ屈み込むと、水鏡に若い男――俺自身の姿が映った。日に焼けた肌に締まった頬、茶色の目に癖の強い赤毛。小柄な身体を覆う、簡素な無地の麻服。実に見事な、若人の姿だった。
小屋に戻り、閉まりきらない戸を無理に閉めた。十数年前から住んでいるこの丸太小屋も、最近はあちこちガタがきている。冬が来る前に修繕が必要だ。人目を避けねばならない身に、ここ以外の居場所はないのだから。
ともあれ、早く腹を満たしたい。忘れたい相手の顔を、また思い出してしまう前に。
竈に薪をくべ火を入れた。くたびれたフライパンを火にかけ、オリーブ油と乾燥ニンニクを投げ込む。やがて欠片がちりちりと鳴きはじめ、熱せられたオリーブ油の匂いと共に、特有の刺激ある香気が漂ってきた。頃合だ。薄黄色に透き通った茸を投げ込めば、水気と油が合わさり激しい音が立った。一塊の湯気が湧く。食物が生きている、と感じる瞬間だ。
薪の火の上で、フライパンを数度あおる。舞った茸の焼き色を確かめ、塩と胡椒をひと振り。ひとかけ口に入れてみると、ちょうどよい歯ごたえに、茸特有の滋味が滲んだ。
「よし」
火から下ろし、端の欠けた皿へ山盛りにする。一仕事終えた溜息が出た。「黄玉茸のガーリックソテー」、朝食には少々重めだ。しかし今日は大仕事――麓への買い出しがある。行き帰りの分は食い溜めておかねば。
古びたフォークで、熱々の茸を口に運ぶ。ニンニクの匂いを含んだオリーブ油が、噛むたび染み出してくる。だが茸の側も負けていない。本来淡白なはずの風味が、しっかりと存在感を持って香り高い油を支えている。こりこりした肉厚の食感も絶品だ。いつものように、生命の力が身体に満ちてくる。一山の茸はあっという間になくなった。
洗い物を片付け、前日に準備した収穫物を背負い袋に詰めた。ようやくの実りの秋。山の恵みは、麓へ持ち込めばそれなりの対価を得られる。
あばら家を出て獣道を歩けば、前方から低い唸り声が聞こえた。木陰に、黒と茶の混じった毛皮が見える。山の幻獣、斑熊だ。狩って麓へ持ち込めば、皮にも内臓にも良い値が付くが、今は争う時ではない。
手をかざし、身に満ちる生命の力をそっと送った。力は「魔法」となり、黄色いかすかな燐光が舞う。唸り声が止んだ。黒と茶の背中が、葉擦れの音と共に遠ざかっていく。
俺はひとつ伸びをした。危険が満ちるこの山で、身を守るために鎮静の魔法は欠かせない。今朝は腹いっぱい食べた、手指から足先まで、魔法の源たる黄玉茸の生命力はまだまだみなぎっている。よほどの大群相手でもないかぎり、無用の争いは避けていけるはずだ。
獣道をさらに下ると、黒岩が眼前に現れた。山道で最大の難所だ。高さは俺の背丈の倍程度だが、近くに飛竜が巣を作っている。気付かず進めば子育て中の飛竜に襲われる。並の幻獣ならともかく、竜族に黄玉茸では不十分だ。面倒だが避けるしかない。霊山は至る所、この種の罠に満ちている。だからこそ俺は平穏に生きられるのだが。
目指す先、麓の食料雑貨店までは、まだまだ歩く必要があった。