深山の亡霊
一礼してダイニングルームに入っても、食卓に集う貴族たちは表向きの関心を見せなかった。視線だけが正直だった。わずかに眉をひそめる者、好奇の籠ったひと睨みを投げてくる者、それぞれがそれぞれの形で、料理の盆を持つ卑しい小僧――俺を値踏みしてくる。
背筋が冷えた。路地裏の刺々しさとは、まったく違う種類の敵意だった。
客人たちの前には、既に豪華な御馳走が並んでいた。白磁の大皿に乗った艶やかな肉、鮮やかに広がる赤黒いソース。添え物の緑葉も見目よく切り揃えられ、細工物のように綺麗だ。
俺の料理は、あまりにみすぼらしい。がんばって作ったけれど、紅色の肉は少し焦げ、切れ目も不揃いで、凝った付け合わせもない。こんな焼いただけの肉で――
「待ちかねたぞ。『神の料理人』ルネ・ブランシャールよ」
上座から呼ばれ、心臓が跳ねた。声の主――ヴィクトール新国王陛下の前に、皿はない。
圧し潰されそうな緊張の中、陛下はひとり微笑んでいた。厚めの唇の端を弓なりに引き上げ、青い目に宿る力強い眼光で、まっすぐに下座を見据えている。目だけは笑っていない。まっすぐな黄金の髪は後ろ頭でひとつにまとめられ、白く艶めくケープの下には、炎のような真紅のベストが覗く。身体の線は隠されているのに、筋骨のたくましさがひと目でわかる。
隣に立てば、俺の小さな身体はどうしようもなく貧相だ。どうして俺は、こんなところにいるのだろう。なぜ立ち入りを許されているのだろう。
「火蜥蜴の、ソテー……だ」
頭の中が、そこで真っ白になった。言うべきことは、たくさん準備していたのに。
言葉を出せないまま、手中の料理を卓上に置く。一礼する。いまや全身が震えている。冷汗が伝う背を、陛下の大きな手がそっと撫でてくれた。そして、口が開かれた。
「火蜥蜴。火のマナを豊富に含むとされる幻獣だ。聖なる獣を『神の料理人』が調理した……すなわちこれは神の皿。真なる王に、神々の力と信託とをもたらす聖餐である」
陛下はナイフとフォークを取り、俺が焼いた肉のひと切れを口に運んだ。そして、見せつけるようにじっくりと噛んだ。ゆっくりと飲み込み、数呼吸置いて、あらためて口を開く。
「正しき統治者に、神の一皿は勝利を約す」
掲げられた右手が、ほのかに赤く光る。
「我は諸兄に約束しよう。忠誠を誓う者には勝利と永遠の繁栄を。反逆せし者には敗北と屈辱を。万が一、真なる王に弓引く者があるならば――」
手首から先が、見る間に赤い火で包まれる。人の身を用いた松明のようにも見えた。
「――誰しもが、浄化の炎で灰と化すであろう」
貴族たちがどよめく。陛下は笑っていた。満面の、おそろしい恫喝の笑みだった。
「賢明なる諸兄が、王権の正統性をあるがまま認め受け容れることを願う。すなわち我、国王ヴィクトール・ド・ヴァロワこそ、神に認められしフレリエール王国の統治者であり――」
不意に、俺の肩へ手が置かれた。陛下の大きな左手は、少しばかり固く、そして温かい。
「――彼、『神の料理人』ルネ・ブランシャールこそが、それを証す者であると!」
貴族のひとりが起立した。二人目、三人目が続いた。ほどなく場の全員が、陛下と俺へ向けて最敬礼の姿勢をとった。陛下は右手の炎を消すと、ほんの少し身を屈めた。
「ルネよ。我が大切な『王冠』よ」
耳元で囁かれた。さっきまでの威厳が嘘のような、甘く優しい低音だった。肩の手が、首を伝い頬へと上る。長い指が顔を包み込み、俺の耳にしか届かないであろう小声が囁く。
「ありがとう」
息が止まった。自分の鼓動が、聞こえるほどに速い。身体が熱い。
必死で考えた。俺は何をすればいい。どうすればお役に立てる。貧民街でゴミと泥水にまみれていた俺を、こんなにも大切にしてくれる高貴な人のために。
思いをめぐらすほど、頭の中は真っ白になって――そこで、目が覚めた。
冷たい風が頬に当たる。夜風かと思えば、窓からは薄日が差している。もう朝らしい。すり切れた毛布にくるまったまま、俺は寝返りを打った。壁の丸太の隙間から、光がひと筋漏れている。あとで土を詰めねえとな――などと考えを巡らしてみても、見てしまった夢は脳裏に取り憑いたままだ。
「何十年前のこと、思い出してやがる」
丸くなったまま独りごちる。家の中を見回せば、丸太で組まれたあばら家に、動くものは他にない。古びた木の机、ひとつだけの丸椅子、壊れかけた煤だらけの竈、くたびれた調理道具と衣類。人ひとりが生きるための、最低限の備品しかここにはない。窓の外には、雪を頂く山々の稜線が見える。誰もいない、ただ「生きる」ことしかできない楽園。
「いつまでも、引きずってんじゃねえよ」
すべてを捨て去り、この地に逃げ込んで、もう十数年経つ。ヴィクトール・ド・ヴァロワはとうに死んだ。崩御したとの噂を何年も前に聞いた。ルネ・ブランシャールも「死んだ」。今ここにいるのは、名を棄てた亡霊だ。もう、あの地獄に囚われる必要などないはずなのに。
「忘れろ、俺」
脳裏にはいまだ、生々しい夢がこびりついている。優しい笑みも、耳をくすぐる囁きも、鮮やかに思い出せてしまう。頬を包む手の温かささえ、残っているように感じる。
「忘れろ!」
返る声はない。冷たい隙間風だけが顔を撫でていく。それでも頬の熱は引かない。起き上がる気にもなれず、ぼろぼろの毛布を抱いていると、不意に腹の虫が鳴った。
「空きっ腹だと、ろくなこと思い出さねえな……」
胃に物を入れれば、忌まわしい記憶も薄れるだろうか。それに、今日は麓へ買い出しに行く日だ。用意は早くしなければ。俺はゆっくりと身を起こした。