過去を切り捨てる
私が私だと意識したのは、この子が師匠に心を開いた、あの砂漠の夜だった。
子供の意識というものは、まるで霞のように——
ふわふわと取り留めもなく浮かび、光を見つけると一直線にそこへ向かっていく。
アルベルト・ダッカート。
そう彼は名乗った。
漆黒の闇の中で生きているようなその人は、暗闇のなかから飢えたユリアーナに、少しずつ、おどおどと、震える手で——まるで砂粒のように小さな光を、ひとつ、またひとつと差し出してくれた。
怖がるな、恐れるな、俺が守ってやる。
そういう感情が、光が集まるたびに、どんどん濃く、強くなっていった。
私の夫は、社内でも有能な男だった。
20代で次長に、30代で役員に。
誰もが羨むようなエリートで、愛され、信頼も厚かった。
私は新卒で入社し、彼は直属の上司。
右も左も分からなかった私は、彼の言葉や視線のすべてに呑まれてしまった。
気づいた時には、もう遅かったのだと思う。
「茜はバイヤーに向いてるんじゃないか?」
その一言で、私は転属を目指した。
死に物狂いで仕事にしがみつき、努力を重ねて……
でも、それが彼の策略だったと知るのは、もっと後のこと。
彼は、私が営業職に向いていると分かっていながら、わざと別部署に飛ばした。
成果を出し始めていた私が、目障りだったのだろう。
皮肉にも、私はバイヤーとして成功を収めてしまった。
世界を飛び回り、自分が選んだ商品がブームを起こすようになり——
その結果すら、彼の癇に障ったのかもしれない。
「結婚しよう」
そう言った彼は、高身長で甘いマスク。
社内の王子様と称されるほどの人だった。
完璧な見た目は、その内に潜む影を完全に隠していた。
違和感は、確かにあった。
けれど、それは“恋”という幻想に呑まれて、見えなくなってしまっていた。
私は26歳で結婚した。
28歳までは仕事を続けていたけれど、社内表彰を受けたあたりから、空気が変わり始めた。
私のすべては、彼の所有物になった。
甘い言葉。
溺愛のような振る舞い。
そして、裏切り。
「妊娠したの!」
心の底から、嬉しかった。
大好きな人との子供。
親を知らずに育った私にとって、それは初めて手に入れた“家族”だった。
「は?……いや、無理でしょ」
頭の中が真っ白になった。
どうして、そんな言葉が返ってくるのか、理解が追いつかなかった。
「俺は、お前が俺以外を構うのが嫌なんだよ。茜、分かってよ」
理解など、できるはずもなかった。
私は妻で、母親ではないのに。
だけど……私は、もうおかしくなっていた。
泣きながら縋る彼の姿に、愛された錯覚がどんどん強くなっていった。
「お願い……あなたを、この子と一緒に愛したいの。皆で幸せになりたいの」
何度も、何度も話し合った。
でも私は結局、悪魔の罠に堕ちた。
「俺の我儘はちゃんと聞いて。そして、俺を優先できなきゃ許さないよ?」
それを“甘え”だと思い込んだ私は、抗うことをやめてしまった。
そうして16年もの間、終わらない地獄を生きることになる。
助けを求めても、誰も信じてくれなかった。
「あんな素敵な旦那様が? まさか」
誰もが、そう笑っていた。
社会的地位と完璧な立ち居振る舞いが、彼を守る“鉄の鎧”になっていた。
私は次第に無力になり、それが娘を守る唯一の方法だと信じてしまった。
「茜、お前ほんとつまらない女だな……ストレス発散以外に存在価値あんの?」
その瞬間、彼は私に飽きてしまったのだろう。
……でも、もう遅かった。
娘は、血の中で動かなくなっていた。
「あ……あぁ……あぁぁ……あぁぁぁぁぁぁぁっ! あーーっ! あーーーっ! あーーーー!」
それは、叫びというよりも獣の咆哮に近かったかもしれない。
腹の底から絞り出すように漏れた声は、もはや言葉ですらなかった。
いや、言葉など、とっくに失っていた。
すべての澱を吐き出して、私は空っぽになった。
もっと痛みがあれば、何かが戻ってくる気がした。
だから私は包丁を手に取り、夫を刺し、そして自分を貫いた。
終わらせたかった。
すべてを。
……そのはずだったのに。
私が目覚めたのは、「ユリアーナ」という名の少女としてだった。
私の記憶はユリアーナの夢となり、ユリアーナの世界は私の癒しになっていった。
そして私は、アルベルトという存在に導かれるように惹かれていった。
彼の言葉は削ぎ落とされていて、まやかしのない視線だった。
時折向けられる、あたたかいまなざし。
私は、悟った。
夫の“愛”なんて、幻想だったのだと。
本当の優しさは、こんなにも静かで、やわらかくて、あたたかい。
……それなのに。
私はまた、同じ過ちを繰り返そうとしていた。
同じような男を知っていたのに。
夢で、ちゃんと私の心を聞かせていれば、教えられたのに!
シェリフという男がどんな人間かは知らない。
でも、同じ匂いがした。
狡猾で、残忍で、単純。
単純だからこそ、周囲は毒だと分かっていながらも懐に入れてしまう。
自分が飲み込まなければ大丈夫だと……そう思い込んで。
それこそが、間違いなのに!
「ユリアーナッ! 待てっ!」
駄目、待ってはいけない。
きっとシェリフという男は、師匠と交渉などしない。
言葉巧みに誘導し、また絡み取ってしまう。
そんなこと、ユリアーナのためにも許せるはずがない!
娘にはできなかった。守ってやれなかった後悔を、今なら晴らせる気がする。
伊達に仕事していたわけじゃない。
癖の強い取引先なんて山ほどいた。
海外の交渉相手とのやり取りで身に付いたのは……
裏を掻く相手には正攻法で正面突破。それが一番だという確信。
夫のような狡猾な男は、望み通りに動かすしかない。
だからこそ、裏を読み、策を弄するアルベルトと、シェリフの相性はきっと悪い。
「どこに行けば師匠に会えますかっ!」
「……アカネ?」
あっという間に、騎乗した二人に囲まれた。
二人は訝しげに私を見下ろしていたけれど、トーレスさんは私に気がついたようで、手を差し出してくれた。
「乗れ!」
「はいっ! あ、あのっ!」
「何だ」
「このままじゃ、また師匠はシェリフに絡め取られちゃう……! 本当は簡単だったんです。ユリアーナとただ幸せに暮らせば、それだけでシェリフから離れられたのに!」
「ちょいちょい、待て待て! トーレスッ! ユリちゃんが壊れたぞっ!」
「言ったでしょうがっ! ユリアーナは前世の記憶があるんです……そして今、この子はその前世——アカネだ!」
「ホアンリーさん、少しだけ、今日だけです! お願いしますっ! 師匠を助けるために、二人のいる場所に連れて行ってくださいっ!」
訳が分からないと言いつつも、二人は私を師匠の元へ送ってくれると言った。
潮の香りが、生ぬるい風とともに届いた頃——
私は、橋の上で抱き合っているような、二つの黒い影を見つけた。
「なんだ、上手くやったんだな」
ホアンリーが、馬の首を撫でながらそう言った、その時だった。
一つの影がズルズルと、もう一つの影に沿って崩れ落ちた。
「師匠っ‼︎」
小さな体で、どうしてこんな力が出るのだろうか。
体の内から湧き上がる熱が、脚を前へと突き動かす。
急げ! 間に合わせるんだ!
もう二度と、失わない。
娘の二の舞にはさせない!
その気持ちだけで、茜は橋へと走った。
次話▶︎ きっと、貴方は勝てない




