海蛇は全てを丸呑みにする
世界は狭く、単純で、何より退屈だ。
「会長、本日の聖金貨の値動きです」
「……先月より5%上昇ってとこかな」
「5.35です」
「そう。ならレークを買い付けて」
「あとカルド……30%売りで」
「えっ、ですがカルドは安定してますし、売る必要が……」
空気の読めない者と、自分の愚かさを自覚できない者。私が嫌うのはこの二種だ。
こいつは20年も仕えているというのに、何もわかっていない。
「ユリス、君……明日からオルヘルに行きなさい」
「え、会長……わたし、何か」
予備国にもなれないあの地で、己の愚かさを見つめ直すと良い。
「私が売れと言えば売り、買えと言えば買うんだよ。反論できるほど……君は賢いのかい?」
あぁ、刺激が欲しい。
愚か者の反抗は苛立つだけだ。
あぁ、踏みつけ、いたぶっても……フリでも良い。抗ってくれる玩具が、どこかにいないかな。
……いや、いるね。
愛しい君は知らないんだろうね。
私の目が、耳が、手足が届かない場所などないのだと。
シェリフは卓の上の封書を手に取った。何度も読み返されたその紙は色褪せ、ところどころ破れかけている。そしてそれを懐にしまうと、こみ上げた笑いに、口元を手で覆った。
「ははっ……」
君がどこを棲家とするかは、見当がついている。
姿を隠せる木陰で、穏やかで安定した生活を望むなら、カッカドール。さらに、武人であり商人である君が選ぶなら、ここだろう。
「さて、私は出るよ……カッカドールを私の庭にしなくてはならないからね」
「か、会長! お、お待ちくだ――」
バタンッ。
閉じた扉の音は、始まりの音。
私が海という網で全てを攫い上げる合図のようだ。
「さて、今日はやる事が多いね。ヒルバル王に新たな港の開港に許可を貰って、値上げ交渉……上手くいけば総合商会に値上げの通達もしなきゃだ……本当、いい加減王制なんて無くなればいいのに」
国王などという飾りなんて、世界には要らないよ。
欲望に忠実で、現実を見極める冷静さのある者達で、国を動かせば良いんだ。
「だけど……誰も、私を止められないよ……」
平穏は知性を欠如させる。
知性なき者の思考は簡単に短絡的になり、気に入らない事があれば、すぐに戦だなんだと肉体労働で精算しようとするようになる。
反吐が出るよ。
だからかな。若さに似合わぬ力と知性を持ち合わせた彼に、惹かれるんだ。
「終わりは退屈だからね。恐怖と不安、疑心に支配されて……全て手放し戻ってくればいい……ふむ。彼と会ったら、どんな遊びをしようか」
シェリフはイグラドシアに構えた、リュクリュートス海運商会を出ると、整列して首を垂れる従者や役員に一瞥もくれずに馬車へと乗り込んだ。
***
「またアンタなの? いくら若く美しい見た目でもね、47の年寄りのおねだりは頂けないわよ! せめてもう少し若い使者を遣しなさいよ!」
全く。王の気質が民を作るのか、民に迎合して王がこうなるのか……。
「昨日ぶりですね、カティリーヤ陛下。夜会ではずいぶんと羽目を外されたとか」
シェリフは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、契約書をヒラリと揺らし、それを執事に手渡した。
「享楽の宴に商談を持ち込んで、勅令の大盤振る舞いにさせたアンタのせいでしょ!? ふざけないで!」
「ふざけてなどおりませんよ。商機は常に真面目です」
「国王を脅すなんて、アンタくらいのもんよ! 開港許可をよこさなければ、バルを叩き売る――なんて、それこそ反逆じゃない!」
「法には一切抵触しておりません。それに、バルの流通価値をご存知でしょう?」
「……聖王国との貨幣交換条約。あれが無ければ、とっくにバルなんて紙くず同然よ」
「だからこそ、条約に則って私は動いているのです。ヒルバルは聖貨幣を常用し、バルを補助通貨として扱う。それが条文の中身であり、陛下が署名された契約書そのものです」
「えぇ、知ってるわよ……聖貨幣を優先的に換金してもらうって取り決め……そのおかげで、ヒルバルは他国通貨が出入りしても破綻しない。でも、それって本来は自国の価値を高めるべき立場の王が取る手じゃないわ!」
「だからこそ、聖王国にとってヒルバルは“手を繋いでおくべき国”なんですよ。通貨の主権を削ってでも、商業国家としての実利を優先する……私たちの選んだ最善策です」
女王は執事から書類を受け取り、数行読み進めると、苛立たしげに舌打ちした。
「……馬鹿にしてんの? 港の使用料をバル金貨50枚に引き上げる? こんなの通告じゃなくて、脅迫よ!」
「脅迫ではありません、陛下。“改定”です。ヒルバルの港湾設備の整備費、航路維持費、警備体制――それらを全て我が商会が肩代わりする代償として、妥当な対価を提示したまでです」
「民が暴れるわよ……!」
「そうならぬよう、これを“陛下の改革”として世に知らせましょう。聖王国との通貨連携を強め、外貨を呼び込んだ──そう発信すれば、王の威信も高まります」
「……っ!」
カティリーヤはぐっと唇を噛み締めた。
「分かったわ。港は開けてやる……でも覚えておきなさい、シェリフ。秩序を舐めすぎると、いずれその海で溺れるわよ」
「ご忠告、感謝いたします。ですが――蛇は、海を恐れませんので」
シェリフは穏やかに微笑んだ。
***
今日は何もかもが円滑に進む。とても良い日だ。
「アマル」
「はーい! 旦那様っ!」
「贈り物を買いに行くよ」
アマルは元々、レークイスの虜囚だった。
しかし、檻の中の彼は目が潰されていたというのに、私を睨み上げているのが分かって……その姿は、あの子を思い出させてくれた。その礼として、私は彼を引き取り名を与え、魔術道具を目の代わりに埋め込んで育て上げた。
「どこに行くんですか?」
「……そうだね。ミッツラーにでも行こうか」
なぜあんな平民の商店通りなんかに行こうと思ったのか。
けれど今日は、なんとなく全てが上手くいく。そんな1日だ……この直感もまた、その一つなのだろう。
そして物語は、「微かに薫る腐臭」へと続く……
▶︎次話 影踏み
今回はちょっと濃い回でした。
聖王国とヒルバルのスワップ、お金を回す事ではなくお金が巡るルートを押さえるシェリフ。
なかなかにめんどくさい大人です。
次は、追いかけっこです!
また次回、お会いしましょ!




