魅惑の国 イシャバー2
ここはイシャバームというらしい。
水や木がたくさんあるせいか、砂漠よりずっと涼しい。けれど、砂漠を越えて辿り着いたこの地は、どこか〈さよなら〉が始まりそうな、嫌な気持ちがした。ここは家があった村とは違う甘い空気がする。多分そのせいで少し優しくなったおじさんに、僕を買って欲しいってお願いし続けようと決めた。
「おじさん、お菓子ありがと」
「……」
足がだいぶ良くなって歩けるようになったから、おじさんはこの中立国を通過するために、色々と手続きをしていた。門番の人が何度か僕を見たけど、何も言われず、無事に中に入れた。
大きな石でできたトンネルをくぐると、そこは外の賑やかなオアシス広場とは違って、静かな家並みが続いていた。家の中では物が売られていて、すれ違う人たちは皆上等な服を着ている。僕は、なんか――恥ずかしかった。
砂まみれの髪も、泥で黒くなった爪も、よれよれの服も、全部ぜんぶ。
だって、何日もお風呂に入ってない。足もずっと痛かったから、ちゃんと歩けなかったし。靴は擦り切れてて、どっちが右かも分からなくなるくらい、くたびれてる。
服だって、袖口がほつれてるし、泥だらけで、たぶんすっごく臭い。
「ママ!あの赤いスーリが欲しい!」
「まあ、可愛いわね。あなたに似合うわ」
強請れば何かがもらえる子を羨ましいとは思わない。きっとあの子には、神様がそういう運命をくれたのだろう。赤い靴……僕にはきっと似合わない。
「親父、これと……あれをくれ。なあ、モフェスはあるか?」
「ああ、あるぞ。入ってくか?」
「頼む」
「シャプナーは?」
「いや、大丈夫だ」
「全部で銀32だ」
おじさんが建物の一階にある店に入っていて、僕は慌てて後を追った。モフェス? シャプナー? よくわからないけど――
「おい。風呂に入るぞ」
「……僕、女だよ?」
「湯着がある」
モクモクと湯気が床の石の隙間から立ち昇っていて、おじさんは僕の体をタオルでこすった。痛いって言ったら、今度は泡立てた石鹸を手で優しく使ってくれた。
父さんみたいだ、と思った。
髪から落ちる泡が目に入って、僕は目を閉じた。これは夢じゃない。父さんじゃない。だけど、おじさんの手は、なぜか安心できる温かさだった。
「そこの湯に浸かってろ」
「ん」
おじさんの体には、たくさんの傷跡があった。
腕、肩、腰……白く瘤のように浮き上がるそれらは、きっともう痛くはないんだろう。でも、それを見て僕は思った。おじさんは、もしかしたら僕がこれから経験するかもしれない嫌なことを、もう経験してきたのかもしれないって。
「ふー……」
「おじさん」
「なんだ」
「僕、どこに売られるの?」
「まずはレークイスに行って、お前の証文を発行する」
「しょうもん……?」
「お前はレークイスが売る人間で、俺がそれを運んでいる卸業者だという証明証書だ」
「……」
「レークイスでお前を欲しがる業者がいれば、そこに売る。なければ特別区の商会で買い取ってもらう。俺の仕事はそこまでだ」
さっきまで暑さでぼんやりしていたのに、今はとても寒くなった。
……砂漠に戻りたい、そう思った。
「上がるぞ」
おじさんのお尻には、細く無数の線のような傷が走っていた。……打たれたのかな。僕もあんな風になるのかな。嫌だな。
「これを着ろ」
顔を上げると、そこには真っ白なシャツと、ふんわりしたズボン。それに――赤いスーリがあった。
「おじさん?」
「お前は大分汚いからな。せめて綺麗にしないと売れん」
「ひっ……ひどいこと言うなぁもうっ! おじさんだって臭かったよ?へへっ」
初めて誰かのお下がりじゃない服。兄さんの着潰した服を母さんが直したものじゃない、僕だけのための服。
ぎゅっと抱きしめたら、お花みたいな匂いがした。
「着てみろ」
「へへっ!」
おじさん、ありがとう。
もしかしたらもうすぐ〈さよなら〉しないといけないかもしれない。でも、僕はきっと、おじさんを忘れない。
「似合う?」
「その汚い服よりはな」
兄さんの匂いも、母さんの刺繍も、もう残っていない。
だから――もういいかな、と思った。
「これ、母さんが直してくれた服だったんだ」
「……」
「でも、もう着れないね。ボロボロだし、袖にあった刺繍も焼けてなくなっちゃった」
忘れたわけじゃない。
でも、想ってばかりじゃ前に進めないから。
ここに、置いていこう。
「持って行かなくていいのか」
「どうせ買われたら捨てられる。だったら……オアシスに埋めていくよ」
イシャバームの出口にも、オアシスがあるらしい。
オアシスは綺麗だったから…そこに埋めよう。
「……好きにしろ」
「おじさん、お腹空いた」
「はぁ……飯にするか」
※本作はアルファポリスにも第一章まで掲載中です。
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