オアシス 3
坊主が姿を消した。
その可能性を考えなかった訳じゃない。このまま逃げてくれたなら、あの坊主――いや、あの娘の迎えるであろう悲惨な末路に、良心の痛みも少ないだろうと思った。
「くそっ!どこ行きやがった」
俺は元々、兵士だった。
今は亡き美しき国、エルセンティア。穏やかな気候はその国民をも穏やかにさせる、平和な国だった。
幸せな日々だった。だが、いつだって悲劇は訪れる。王族同士の諍いは内乱へと発展し、他国を巻き込んで国内で戦が始まった。国民の七割が被害に遭い、隙を突かれて他国に攻め落とされた。
その戦で、俺は生まれたばかりの子供と妻を失い、情けなくも国を捨てて放浪した。
金を稼ぐために傭兵や護衛をしていたが、言葉の訛りですぐにエルセンティアの人間だとバレた。
「おい坊主!何処に逃げやがった!」
俺もよく、こうやって叫ばれ、追いかけ回されたな。
「坊主っ!……坊……主」
叫び続けて、ふと思った。名前ぐらい、聞いておくべきだったかと。
情を持たぬよう、人買いは商品の名を聞かないし、会話もしない。けれど今回の買い付けは不作で、たった一人だけだったから会話をしてしまった。それが間違いだった。
子供は好きじゃない。すぐ泣き喚き、要求しかしてこないから。
……でも、我が子が生まれた日のことは今も覚えている。
「サナ……ありがとう。天使を産んでくれて」
今に思えば、俺も国の気候にやられて、頭が緩んでいたのかもしれない。
でも、確かにあの瞬間、俺は幸せだった。
自分の命よりも守りたい存在がこの手の中にあった。
泣き笑う妻の顔。赤くしわくちゃで、でも甘く愛しい我が子。
それが、俺の全てだった。
「あなた、私……あなたとこの子に会えて幸せよ」
誰が想像できただろうか。
60年、70年後の別れが、すぐ目の前だと。
わかっていたなら――俺は、あの日、二人と共に死にたかった。
なぜ国を守るために家を空けたのか。
当時は、それが家族のためにできることだと、国のためだと思っていた。
もしも国が残っていたなら、後悔も少なかったろう。
だが、誇りも、矜持も、愛も、そして優しさも、あの日に死んだ。
「……坊……主」
空には旅星が恐ろしいほど赤く輝いている。何処を指し示しているのだろうか。
俺は立ち尽くし、どこを目指しているのかも分からなくなる。今も、昔も、これからも、俺は駄目な人間のまま死ぬのだろうな。
「おじさん」
しばらくして背後から聞こえたその声に、俺がほっとしたのは――
損失の穴埋めをしなくていいと思ったからだろうか。
それとも、神にも、家族にも、国にも見放された俺を、この娘にだけは見放されなかったと思えたからだろうか。
「……居たのか」
「うん……」
「なんで逃げなかった」
「足が痛くて……うっ、うぅっ、あるっ歩けないっ」
まだ十歳のこの娘の身体は、細くてボロボロだった。元よりまともに食っていなかったのか、俺との道中で少し肉付きがよくなった気がする。
そんなことに気づいて、ほんの少しだけ心の痛みが和らいだ。
「レークイスに入ったら……また治療師のところに連れて行く」
この先の道は比較的楽だが、子供にとっては決して容易な旅路ではない。
少し労わっても、価値はこれ以上下がりはしないだろう。
「僕……奴隷になるのも、誰かに買われるのも、女になるのも嫌だ!」
誰だってそうだ。俺も経験したが、命として見られることのない存在となることに、恐れを抱かぬ者はいない。
けれど、経験したからこそ言えることがある。
「仕方ねぇだろ。生まれついたもんがどうにかなんのか? 生きているだけマシだろうが」
そう、生きてさえいればどうにかできる。
どんな扱いを受けても、生きたいと願い続ければ――いつか目の前に差し出された光が、自分にとっての好機だったと理解できる日がくる。
「男として生きる!」
「どうやってだ」
「……」
「女だろうが男だろうが、タダじゃ生きてはいけない」
「働くっ!」
「なら、そこに俺が売ってやる」
「売られたらっ! 僕は言うこと聞かなきゃいけないんだろ?」
「そんなの、普通の雇用関係にあっても一緒だ」
売り言葉に買い言葉。
やがて訪れる沈黙という名の現実。急に放り込まれたその現実に慄き、俺に縋りつく娘の涙の熱が、太腿にじんわりと広がる。
何度経験したかわからないが、どれだけ経ってもこの感覚にはうんざりする。
別に売られて死ぬわけじゃない。賢く立ち回れば、普通以上の生活だってできる。
飢え死にするか、逃亡者として殺されるか――どちらなら納得する?
「生きるか死ぬか……選べ」
「おじさん……僕、側にいちゃだめ?」
「邪魔だ」
「黙ってる! ご飯も自分でなんとかする! 我儘言わない!」
ふと、思い返す。そういえば――
こいつに、飯を与えていなかったな。
「……お前、昨日と今日。飯はどうした」
「……盗んで食べたよ」
そうだった。こいつは、無駄に賢い餓鬼だったな。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作はアルファポリスにも掲載中です。
そちらでは第一章までまとめて読めるようになっております。
「もう少し先が読みたい」
「続きが気になる」――という方がいらっしゃいましたら、ぜひ覗いてみてください。
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