表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/77

オアシス 3

坊主が姿を消した。

その可能性を考えなかった訳じゃない。このまま逃げてくれたなら、あの坊主――いや、あの娘の迎えるであろう悲惨な末路に、良心の痛みも少ないだろうと思った。


「くそっ!どこ行きやがった」


 俺は元々、兵士だった。

今は亡き美しき国、エルセンティア。穏やかな気候はその国民をも穏やかにさせる、平和な国だった。

幸せな日々だった。だが、いつだって悲劇は訪れる。王族同士の諍いは内乱へと発展し、他国を巻き込んで国内で戦が始まった。国民の七割が被害に遭い、隙を突かれて他国に攻め落とされた。


 その戦で、俺は生まれたばかりの子供と妻を失い、情けなくも国を捨てて放浪した。

金を稼ぐために傭兵や護衛をしていたが、言葉の訛りですぐにエルセンティアの人間だとバレた。


「おい坊主!何処に逃げやがった!」


 俺もよく、こうやって叫ばれ、追いかけ回されたな。


「坊主っ!……坊……主」


 叫び続けて、ふと思った。名前ぐらい、聞いておくべきだったかと。

情を持たぬよう、人買いは商品の名を聞かないし、会話もしない。けれど今回の買い付けは不作で、たった一人だけだったから会話をしてしまった。それが間違いだった。


 子供は好きじゃない。すぐ泣き喚き、要求しかしてこないから。

……でも、我が子が生まれた日のことは今も覚えている。


「サナ……ありがとう。天使を産んでくれて」


 今に思えば、俺も国の気候にやられて、頭が緩んでいたのかもしれない。

でも、確かにあの瞬間、俺は幸せだった。

自分の命よりも守りたい存在がこの手の中にあった。


 泣き笑う妻の顔。赤くしわくちゃで、でも甘く愛しい我が子。

それが、俺の全てだった。


「あなた、私……あなたとこの子に会えて幸せよ」


 誰が想像できただろうか。

60年、70年後の別れが、すぐ目の前だと。

わかっていたなら――俺は、あの日、二人と共に死にたかった。

なぜ国を守るために家を空けたのか。


 当時は、それが家族のためにできることだと、国のためだと思っていた。

もしも国が残っていたなら、後悔も少なかったろう。

だが、誇りも、矜持も、愛も、そして優しさも、あの日に死んだ。


「……坊……主」


 空には旅星が恐ろしいほど赤く輝いている。何処を指し示しているのだろうか。

俺は立ち尽くし、どこを目指しているのかも分からなくなる。今も、昔も、これからも、俺は駄目な人間のまま死ぬのだろうな。


「おじさん」


 しばらくして背後から聞こえたその声に、俺がほっとしたのは――

損失の穴埋めをしなくていいと思ったからだろうか。

それとも、神にも、家族にも、国にも見放された俺を、この娘にだけは見放されなかったと思えたからだろうか。


「……居たのか」


「うん……」


「なんで逃げなかった」


「足が痛くて……うっ、うぅっ、あるっ歩けないっ」


 まだ十歳のこの娘の身体は、細くてボロボロだった。元よりまともに食っていなかったのか、俺との道中で少し肉付きがよくなった気がする。

そんなことに気づいて、ほんの少しだけ心の痛みが和らいだ。


「レークイスに入ったら……また治療師のところに連れて行く」


 この先の道は比較的楽だが、子供にとっては決して容易な旅路ではない。

少し労わっても、価値はこれ以上下がりはしないだろう。


「僕……奴隷になるのも、誰かに買われるのも、女になるのも嫌だ!」


 誰だってそうだ。俺も経験したが、命として見られることのない存在となることに、恐れを抱かぬ者はいない。

けれど、経験したからこそ言えることがある。


「仕方ねぇだろ。生まれついたもんがどうにかなんのか? 生きているだけマシだろうが」


 そう、生きてさえいればどうにかできる。

どんな扱いを受けても、生きたいと願い続ければ――いつか目の前に差し出された光が、自分にとっての好機だったと理解できる日がくる。


「男として生きる!」


「どうやってだ」


「……」


「女だろうが男だろうが、タダじゃ生きてはいけない」


「働くっ!」


「なら、そこに俺が売ってやる」


「売られたらっ! 僕は言うこと聞かなきゃいけないんだろ?」


「そんなの、普通の雇用関係にあっても一緒だ」


 売り言葉に買い言葉。

やがて訪れる沈黙という名の現実。急に放り込まれたその現実に慄き、俺に縋りつく娘の涙の熱が、太腿にじんわりと広がる。


 何度経験したかわからないが、どれだけ経ってもこの感覚にはうんざりする。

別に売られて死ぬわけじゃない。賢く立ち回れば、普通以上の生活だってできる。

飢え死にするか、逃亡者として殺されるか――どちらなら納得する?


「生きるか死ぬか……選べ」


「おじさん……僕、側にいちゃだめ?」


「邪魔だ」


「黙ってる! ご飯も自分でなんとかする! 我儘言わない!」


 ふと、思い返す。そういえば――

こいつに、飯を与えていなかったな。


「……お前、昨日と今日。飯はどうした」


「……盗んで食べたよ」


 そうだった。こいつは、無駄に賢い餓鬼だったな。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


本作はアルファポリスにも掲載中です。

そちらでは第一章までまとめて読めるようになっております。


「もう少し先が読みたい」

「続きが気になる」――という方がいらっしゃいましたら、ぜひ覗いてみてください。


感想やご意見など、いただけるととても励みになります!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ