未来が羽化する片鱗
ユリアーナ売却の為の証文証書には、バッチリと「旧ロレント王国アマラッタ村ユリアーナ」と記載されており、アルベルトは溜息を一つ溢すと、それを懐に入れた。
「……以前、お前の村では拐かしに遭わない為に、女児が男の振りをしていたと言ったな」
「あ、うん。言ったよ?」
「今度は逆だ」
「んんっ? 逆??」
アルベルトは眉間に手を当てて何かを考えていたが、意を決したのか、腰に手を当てていた左手をユリアーナの肩に置いた。
「人買いに買われない為に、男児には女児の名を付ける家もあった……という事に……する」
ぐっと寄せられたアルベルトの顔に、ユリアーナはヒクヒクと口元を痙攣させ、何を言っているんだろう? とでも言いたげな顔をしていた。
「え、えぇぇ……無理やりすぎじゃないのか? アルおじさん……」
「女と分かれば余計な詮索をされる! アルシャバーシャ様程の方が、女の奴隷を買うなどありえん事だからなっ!」
「まぁ良いけどさぁ……大丈夫なのかよ……」
「ふっ……分からん」
「……アルおじさん……はぁ」
それから、これからの事を考えつつ、ユリアーナはもう少し水を浴びようと、池の中央まで行くと、バシャバシャと泳ぎ始めた。
彼女に恐怖や不安はあるものの、まるでそれは大人相手に大嘘を吐き、欺いて逃げる冒険譚の様で、サザンガードとレークイスへ向かう事が楽しみになっていた。
「……俺達だけになったか」
多くの旅人達は、朝日と同時にサザンガードに入る為に、フリオリを発っていた。
急ぎはしないと、アルベルトはユリアーナにゆっくり水浴びをする事を許し、自身は道具の手入れをする。
研磨する音、磨く音、金属を叩く音だけがそこにあった。
静かな夜は深くなる。
冷たい風が緩く吹いて、アルベルトの意識を世界に戻した。
「……そろそろ荷を纏めるか」
ナイフの刃を月にかざし、アルベルトはその研ぎ具合を確かめる。
その刃の中に、さっきまで水に浸かっていたユリアーナの姿が映った。
水をはじく、染めたばかりの黒い髪と、月明かりに淡く浮かび上がる肌。
その輪郭に、ふと目が止まった。
小さな胸のふくらみ——
そうだ、女なんだ……こいつは。
ふとアルベルトは、そんな当たり前のことを改めて思い出して、何とも言えない感情に溜息をついた。
これから、あいつの身体はもっと変わっていく。
そうなった時、俺は何を用意すべきだろうか。
汚れを落とした顔立ちは整っていて——
アルベルトはそこに、水と戯れるユリアーナの将来の姿を重ね見た。
どんな女になるのか。
どんな男と、どんな家庭を築くのか。
「まずは淑やかさを身につけさせるべきか?……くくっ」
将来などというものを考えなくなっていた彼の人生にもまた、何かが変わる片鱗が——確かに、見えていた。
「アルおじさん」
黒髪を布で巻いて、フードを被ったユリアーナはどう見ても悪ガキで、アルベルトは「ふむ」と言うと、徐に木炭のペン先を指に擦り付け、ユリアーナの頬にすっと滑らせた。
「⁉︎」
「すぐ取れる。小綺麗過ぎると疑われるからな」
炭の付いたユリアーナは、頬や眼窩が窪んでいるように見えるのに、目だけは力強く不満を滲ませている。
まるで飢えた野良猫だと、アルベルトは満足気だった。
「それよりっ! 僕はアルおじさんをそのまま呼んでいいのか?」
「クソ野朗、そう口汚く罵れ」
「は?」
アルベルトに対して、ユリアーナは元々忌避感はなかった。それどころか多少懐いてもいた。
なのに罵れと言われ、アルベルトと呼べと言われたり、クソ野朗と罵れと言われたり……どうしたらいいか混乱した。
「いいか、お前は売られるんだ。人生が奪われ、故郷も失った……暴れて、暴れて、俺を憎いと叫ぶんだ……自身は誰の物でも無いと……叫ぶんだ」
掴まれた肩から伝わるアルベルトの熱は優しくて、ユリアーナは首を振る。
「……出来ないよ……だって……アルおじさんが僕を買ってくれて嬉しかったから……アルおじさんに嘘でもクソ野朗なんて言いたくない」
俯き、アルベルトのマントの裾を掴むユリアーナ。
寄る辺の無かった彼女にとって、アルベルトは願って叶った側にいても良い人間だった。
「これから先……共に在る為に……頑張れないか? お前の言葉を本心だと俺は思わない。演技だと言っただろ」
「それでも……嫌なんだよ……」
頑ななユリアーナは嫌だと言い続け、アルベルトは天を仰いでユリアーナを抱き寄せた。
「俺とお前で……俺達を踏み付ける奴等を騙すんだぞ? きっと面白い筈だ……それに……俺もお前と生きていきたいからな」
その言葉に、ユリアーナは顔を上げた。
そして、憮然としているのにどこか照れ臭そうなアルベルトに、ユリアーナは頷き、抱きしめ返した。
▶︎次話 演技の始まり




