閑話休題 懐かしさと新しき物
アルベルトの母国、エルセンティアは約15年前、内戦に乗じたレークイスの奇襲により滅んだ。
北のレークイスと中央の大国ガザン、その狭間に位置するサザンガードとエルセンティアは、前者がレークイス、後者がガザンと友好関係を結んでいた。
誰もが不可能だと思っていた魔法兵器による長距離攻撃が実現され、ガザンはあっけなく崩壊。敵味方の区別もなく暴走したレークイスに、エルセンティアは横腹を刺される形で滅びた。
今やその名も文化も歴史の中に消え、かつての面影を記憶する者はほとんどいない。
たまにアルベルトは思う。
全て奪われた。けれど、たった一つ。残った物があったな、と。
広げる事は出来ても誰にも奪う事の出来ない物が、彼の中に残っている。
それは愛した妻が作っていた懐かしき故郷の味である。
「で、こっからはどーすんの?」
オアシスの外れに設けられた調理場にアルベルトとユリアーナは立っていた。
器用に狩猟ナイフで野菜の皮を剥いたり刻んだりしているアルベルトは、隣に立つユリアーナを見下ろし顎で荷物を指した。
「荷物なー。了解ー」
小さな手鍋にはルーグル肉の脂身と、加熱すると食欲を増進させる香りと、香ばしい味わいを齎すガリラの実。そして臭みを取り、塩気を加えるテッテというハーブや、甘味ととろみを付けるカンズーという果実の肉厚な皮が炒められていた。
次第に、溶けた脂にガリラの香りがフワリと漂い始めた。そして次にテッテやカンズー、他にも野菜やルーグル肉独特の香りが辺りに広がってゆく。
「ユリアーナ、中から黒い筒を出せ」
「んーっ!いー匂いっ!甘くて、すっぱい感じもあってー、お肉の匂いっ!あ~唾でるっ!じわーって!」
「ユリアーナ…筒を」
「あっ、うんっ!はいっ!」
手の平程の黒い琺瑯で出来た筒。その蓋をゆっくりと開けるアルベルト。
密閉度の高いその蓋を開けるにはコツが必要であった。
じわじわ開ける。それだけなのだが、背後から見ていたユリアーナにはアルベルトが困難している様に見えていた。
「アルおじさんっ!駄目だよっこう、こうだよーっ!」
「馬鹿野朗っ!おいっ!やめっ!!」
スパンッ
中身全てが舞い上がり、色とりどりの粉が鍋の辺りに散乱した。
黒い筒の中身はミックススパイスだった。
サナが生前、軍の野営料理は味気無かろうと調合してくれた物だった。
良い事があった日、孤独に耐えれそうに無い日。
ほんの少しだけ摘んで口にする。
それだけで心が少し癒されていた。
後生大事にチビチビそれを使っていたアルベルト。
最後の1缶だった。
咄嗟の怒りに、罵倒しそうになった——その時。
「っ‼︎」
フワリと香りが鼻をくすぐる。
——懐かしい。
正真正銘、サナが作っていたエルセンティアの郷土料理、『トゥーガ』の香りだった。
アルベルトは妻の残したレシピ通りに、何度もこの料理を作ってきた。しかしいつまで経っても、あの味には辿り着けなかった。
密封された容器に入っていたとはいえ、10年の歳月は風味を奪っていたのだろう。分量通りに作っても、どこかが違っていた。
——だが。
幸か不幸か、この瞬間にだけ、懐かしい我が家の匂いが漂った。
——スパイスの量が足りて無かったのか…。
「わーっ!アルおじさんごめんっ!」
縋り付くユリアーナの顔は青ざめていたが、アルベルトはその体を片手で抱き寄せ鍋に近付けた。
そしてスンッと香りを2人で嗅いだ。
「アルおじさん…」
「お前のおかげだ…良い匂いだろ」
もう2度とサナのスパイスは手に入らない。
だが、味を知ったユリアーナと共にいつか作れたら良い、
そうアルベルトは思った。
▶︎次話 巡礼者の夜に染まる2人




