最低な人生
僕の記憶にある一番古いものは、どこか知らない世界で殴られていることだった。
夢かと思うこともあったけど、兄さんが怒った時や、村の大人が大声を出した時――その記憶は突然、鮮明によみがえる。
そこはきれいで、とても高価そうな家具に洋服、村長の家にしかないような用を足すための部屋に、水浴びをする部屋まであった。
けれど、まるで村のならず者を閉じ込める小屋の周囲に漂うような陰湿な空気がその部屋には満ちていた。
そして僕には、子供がいて、その子の親らしい男と三人で暮らしていた。けど……僕はその世界では、いつも泣いていた。
震える手で、小さくて茶色い野菜を丁寧に洗い、焼いて皮を剥き、湯がく。
別の鍋では、肉や色とりどりの野菜を茶色い液体で煮ていた。さらに葉っぱに何か液体を加えて、白っぽい粒で和えている。
料理……なのだろうけど、僕の母さんはこんなに沢山の料理を一度の食事に作ったことはなかったし、いくつもの食器を使ったりもしない。
僕の前世の記憶なのか、それとも誰かの話を聞いたのを記憶と勘違いしているだけなのか、分からない。
けれど、なぜかその記憶が、忘れられなかった。
「バイヤーとして一流だったかもだけどさ、妻として、母親としては三流な」
意味なんて分からない。
でも、それが馬鹿にしている言葉だってことは、分かった。
「何だよ? 殴りたいのかよ……やってみろよ!」
悔しくて握った拳の手首を、捻り上げられる。その痛みは、まるで今の僕自身が経験しているかのようで――
殴られて頬の骨がバキリと音を立てた瞬間の記憶まで、耳の奥に残っている気がして気分が悪くなる。
【人を傷つけてはいけない。傷ついていい人間なんていないのだから】
誰かが僕にそう言った。
でも、僕じゃない僕は、殴られて泣いていた。
――じゃあ、僕は、傷ついてもいい人間なんだろうか?
記憶の中には、沢山の“良い言葉”がある。だけど、そのどれにも僕は当てはまらない。
なのに、なぜ忘れられないんだろう?
【誰しもが弱い人間なんだ。初めから強い人間なんて存在しない】
……そうだろうか?
いつだったか、母さんに言ったことがある。けど、母さんは笑って言った。
『そんなの間違ってるわよ』
村長は代々村長の家系で、もっと偉い貴族様なんて、生まれながらにして貴族様なんだから――人間の強さは“どんな親から生まれたか”で決まっているんだって。
だったら、殴られてばかりの僕は……どれだけ価値の無い親から生まれたんだろう?
「ママ……痛い? ねぇ、おじいちゃんの家に行こうよ……こんな家で暮らす必要なんてないよ!」
僕より年上の、綺麗な女の子が肩を抱いてくる。
僕よりも背が高くて大人びて見える彼女が、僕の娘? そんなはずはない。
でも、なぜか「娘だ」と思ってしまう。
もしも、あれが僕の前世だとしたら――あんな最低な人生、もう絶対に繰り返さない。
僕は父さんや母さんみたいな大人になるんだ。いつか娘ができたら、絶対に「愛してるよ」と言ってやるんだ。
「おい、立ち止まるな……おい……くそっ、暑さで意識が飛んだか?」
――バシャッ!
冷たい水が頭からかけられて、僕はハッと我に返った。
おじさんが水袋を持って、僕を見下ろしていた。
「おじさん……僕、殴られてないよな?」
「……」
「僕、最低な人間じゃないよな?」
「何を言っているのか分からん」
「……僕の名前……何だっけ」
おじさんが苦虫を噛み潰したような顔をして、それが何故だかおかしくて、僕は思わず笑った。
「お前の名など知るわけないだろ」
「そう言えば、聞かれてもなかったな」
「知る必要などない。お前は売り物だからな」
――過去も現在も。
僕の人生は、最低のままだ。
※本作はアルファポリスにて第一章まで掲載中です。
本ページではより多くの読者に届けたく、連載形式で公開しています。
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