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第9話 旅立ちの朝

 夜明け前の館は静謐に包まれていた。


 レアは最後の荷物を鞄に詰めながら、窓の外を見やった。まだ薄暗い庭には霧が立ち込め、遠くに建つ温室はぼんやりとした輪郭を保っているだけだった。


 「ちゃんと育つといいけれど」


 彼女は黒薔薇のことを考えていた。不思議な花は日に日に成長を続けているが、彼女とセリアがブルークリフに旅立つ間、誰が世話をするのだろう。


 「レア、準備はいい?」


 セリアの声に振り返ると、彼女は既に旅装束を整え、小さな鞄を持っていた。昨日より少し緊張した面持ちだ。


 「はい、もう少しで」


 「馬車が正門に到着したわ。ヘルマンが知らせに来てくれたの」


 「すぐに参ります」


 レアは急いで残りの荷物をまとめた。服に加え、リリア様の写真、エドワーズ邸の鍵、そして昨日届いた謎の鍵束。すべて慎重にポケットの奥に収めた。


 二人が階段を降りると、ミランダが玄関ホールで待っていた。


 「気をつけて」彼女は二人の手を握った。「何か見つかったら、すぐに連絡を」


 「はい。ありがとうございます」レアは恭しく頭を下げた。


 「これを持って行きなさい」


 ミランダは小さな紙袋を差し出した。中には黒い種が数粒入っていた。


 「黒薔薇の種よ」彼女は説明した。「緊急時には、これが役に立つかもしれない」


 「どのように?」セリアが不思議そうに尋ねた。


 「それは、使う人次第」ミランダは微笑んだ。「でも、最後の手段と考えて」


 レアは恐る恐る種を受け取り、他の大切な品と一緒に収めた。


 ヘルマンも現れ、二人に食料と地図の入った袋を手渡した。


 「ブルークリフまでは一日と半分の道のりです」彼は説明した。「途中、シルヴァーレイクの宿で一泊することになるでしょう」


 「護衛は?」セリアが尋ねた。


 「二人、馬車に同行します」ヘルマンは答えた。「しかし、目立たないように平服です」


 「ありがとう」


 二人は館の玄関を出た。朝霧の中、黒い馬車が待っていた。二人の男性が馬の側に立ち、彼らを見守っている。確かに平服だが、腰には剣を下げていた。


 「行きましょう」セリアが前に進み出た。


 レアは一度だけ振り返り、館を見上げた。かつてリリア様が暮らしていた場所。そして今は、彼女とセリアが黒薔薇の継承者として、その秘密を守る責任を負った場所。


 「行きます」


 二人は馬車に乗り込み、御者が手綱を鳴らす音とともに、車輪が動き始めた。



 朝日が完全に昇り、霧が晴れていくにつれて、馬車は田園地帯を進んでいった。


 窓から見える景色は、緑豊かな畑と、遠くに連なる丘陵地帯。時折、農家や小さな村を通り過ぎる。平和な風景だ。


 「本を持ってきました」レアは鞄から、黒薔薇の間で見つけた三冊の本のうちの一冊を取り出した。


 「どれ?」


 「リリア様が書いた物語です」


 セリアは興味深げに身を乗り出した。「もう一度読んでみましょう」


 二人は小さな声で交互に朗読を始めた。それはリリアが書いた『黒薔薇の報復者』、彼女自身の経験に基づく物語だった。


 処刑された公爵令嬢が時間を遡り、裏切った者たちへの復讐を果たす物語。リリアは婚約者である王子から裏切られ、妹によって不敬罪で訴えられ、家族からも見捨てられた。時間を遡った彼女は、もう誰も信じず、冷静な復讐を遂げる。


 「これが本当にリリア様の経験だったなんて」レアは声を震わせた。「あまりにも残酷です」


 「クラウスもこの中に出てくるのかしら」セリアがページをめくった。


 確かに、物語の中に「隣国の貴族」として登場する人物がいた。名前は明記されていないが、リリアを裏切った王子に近づき、彼を操った人物として描かれている。


 「これがクラウスね」セリアは眉を寄せた。「物語では直接名前を出していないけれど、明らかに彼のこと」


 「リリア様が時を戻したとき、彼の企みも見抜いたのですね」


 「ええ。そして、それに対抗した」


 二人は物語をさらに読み進めた。復讐を遂げたリリアだが、最後の数ページは謎めいていた。復讐の後、彼女は「新たな道」を選ぶと書かれているだけで、詳細は記されていない。


 「これが、黒薔薇との契約を選んだ時のことかしら」セリアが言った。


 「そうでしょうね」レアは頷いた。「復讐を遂げた後、彼女は呪いを断ち切るために自ら消える道を選んだ」


 「でも、本当にそれだけが理由だったのかしら」


 「どういうことですか?」


 「こんなに緻密に計画を立て、復讐を遂げた人が、単に呪いを断ち切るためだけに自分を消すだろうか」セリアは窓の外を見やった。「何か、もっと大きな目的があったように思える」


 レアもそれには考えさせられた。確かに、リリア様はただ犠牲になるタイプの人ではなかった。彼女の選択の裏には、もっと深い意図があるのかもしれない。


 「ブルークリフで何か分かるといいですね」


 「ええ。彼女が最後に訪れた場所だもの」


 馬車は道をさらに北上し、やがて森林地帯に入っていった。風景が徐々に変わり、開けた田園から深い森へと変わっていく。


 午後になると、馬車は小さな川沿いの道を進んでいた。川の流れる音が心地よく、時折木漏れ日が車内に差し込む。


 「シルヴァーレイクはもうすぐです」


 御者の声が聞こえ、程なくして湖が見えてきた。銀色に輝く湖面が太陽の光を反射し、その周りには小さな村が広がっていた。


 「ここで一泊ですね」レアが言った。


 「ええ。明日の午後にはブルークリフに着くはず」


 馬車は村の中心部にある宿の前で止まった。「銀の月」という名の小さな宿だが、清潔そうな外観をしていた。


 二人が降りると、護衛の男性たちも馬から降り、周囲を警戒するように見回している。


 「中へどうぞ」一人が扉を開けた。


 宿の中は暖かく、暖炉の火が心地よい光を放っていた。数人の客が食事をしているが、村人らしき素朴な顔ぶれだ。


 宿の主人が近づいてきた。「いらっしゃいませ。お部屋は?」


 「二部屋、お願いします」セリアが答えた。


 主人は二人を二階へと案内した。隣り合った清潔な小部屋で、窓からは湖が見えた。


 「食事は下で。いつでもご用意します」


 主人が去った後、レアは窓から外を眺めた。夕暮れ時の湖は、名前の通り銀色に輝いている。


 「美しい場所ですね」


 「ええ」セリアも窓に近づいた。「でも、緊張の糸を緩めるわけにはいかないわ」


 「クラウスの手先が?」


 「可能性はあるでしょう」セリアは周囲を見回した。「どこにでも潜んでいるかもしれない」


 「警戒します」


 二人は部屋を整え、荷物を解いた。しばらくして、一人の護衛が彼らを食事に招いた。


 階下の食堂は、村人たちでにぎわっていた。地元の農民や漁師らしき人々が、一日の仕事を終えて酒を酌み交わしている。


 二人と護衛たちは隅のテーブルに座り、宿の主人が運んできた温かい肉のシチューと焼きたてのパンに舌鼓を打った。


 「変わった客が来てるな」


 近くのテーブルから聞こえてきた言葉に、レアは耳を澄ました。


 「ああ、今朝方だ」別の声が答える。「黒い服を着た男が三人。よそ者だった」


 「どこへ行った?」


 「北の道を行ったよ。ブルークリフ方面だ」


 レアとセリアは顔を見合わせた。黒い服の男たち。ブルークリフ方面へ。偶然だろうか。


 食事を終えると、二人は急いで自分たちの部屋に戻った。


 「聞こえました?」レアが小声で言った。


 「ええ」セリアの表情は引き締まっていた。「黒い服の男たち。クラウスの手先かもしれない」


 「彼らは先に到着することになります」


 「警戒を強めなければ」セリアは窓から外を見た。「でも、計画を変える必要はないわ。私たちには、彼らにはない武器がある」


 「武器?」


 「ええ」セリアは銀の指輪を見せた。「黒薔薇の守り手の証。それから、ミランダからもらったブローチと種」


 レアも頷いた。「それに、エドワーズ邸の鍵もあります」


 「そう。私たちは彼らより一歩先を行ける」


 それでも、二人の心には不安が広がっていた。クラウスの手先が既にブルークリフに向かっているなら、彼らは何を探しているのだろう。そして、それはリリアの秘密に関わることなのか。


 「明日は早く出発しましょう」セリアが提案した。「夜明けとともに」


 「はい。一刻も早くブルークリフに着きたいですね」


 二人は明日の計画を話し合い、早めに休むことにした。


 レアが自分の部屋に戻り、ベッドに横になったとき、不意に胸のポケットから微かな熱を感じた。


 恐る恐る手を入れると、黒薔薇の種が温かくなっていた。


 「なぜ…」


 種を手のひらに広げると、それはかすかに脈打っているように見えた。まるで生きているかのように。


 「リリア様」レアは呟いた。「私たちを見守っているのですか」


 返事はなかったが、種は温かいままだった。それが何を意味するのか分からないまま、レアは再び種をポケットにしまい、目を閉じた。


 明日、ブルークリフでどんな真実が待っているのか。そして、クラウスの手先と思われる男たちは何を探しているのか。


 不安と期待が入り混じる中、レアはようやく眠りについた。



 夜明け前、レアは奇妙な夢で目を覚ました。


 夢の中では、黒い服を着た女性が海辺に立っていた。振り返る彼女の顔は、リリア様のようでもあり、見知らぬ女性のようでもあった。彼女は何かを指さし、レアに近づくよう合図していた。


 「行かなくては」


 目覚めた瞬間、レアの口からその言葉が漏れた。


 急いで身支度を整え、セリアの部屋をノックする。彼女も既に起きていた。


 「変な夢を見たの?」セリアが尋ねた。


 「はい」レアは驚いた。「なぜ分かるのですか?」


 「私も」セリアは小さく頷いた。「海辺に立つ女性の夢」


 二人とも同じ夢を見ていたのだ。これは偶然ではないだろう。


 「急ぎましょう」


 荷物をまとめ、階下へ降りると、護衛たちも既に準備を整えていた。


 「早いですね」一人が言った。


 「急ぎたいのです」セリアが答えた。


 宿の主人も早くから起きていて、彼らに軽い朝食と旅の弁当を用意してくれた。


 「ブルークリフへ?」主人が尋ねた。「気をつけて。最近、よそ者が多いからね」


 「ありがとう」


 日の出とともに、彼らは宿を後にした。朝霧の立ち込める湖を背に、馬車は北の道を進み始めた。


 「今日の午後には着くはず」護衛の一人が言った。


 「できるだけ急いでください」セリアが頼んだ。


 馬車はいつもより速いペースで走り始めた。道は次第に丘陵地帯へと上り、風景が変わっていく。


 レアは窓から外を見つめながら、夢のことを考えていた。海辺に立つ女性。彼女は何を伝えようとしていたのだろう。


 「見て」セリアが突然声を上げた。


 遠くの丘の上に、黒い点が三つ見えた。馬に乗った人影だ。


 「あの人たちが…」


 「かもしれない」セリアは眉を寄せた。「彼らも急いでいるわ」


 護衛の一人が窓から覗き込んだ。「問題があれば、お知らせください」


 「ありがとう」


 しばらくすると、黒い点は視界から消えた。先に行ったのか、別の道を取ったのか分からない。


 「警戒を続けましょう」


 レアは再びポケットの中の種に触れた。今朝は温かくなかったが、確かに昨夜はかすかな熱を放っていた。黒薔薇の力は、彼らを守ろうとしているのだろうか。


 午後になると、風景がさらに変わった。丘陵地帯を抜け、徐々に海の香りが漂い始める。空には海鳥が舞い、風にも塩気が混じっていた。


 「もうすぐね」セリアが言った。


 そして、丘を一つ越えたところで、彼らはようやく海を目にした。


 「美しい…」


 青く広がる海原と、白い砂浜。そして浜辺に沿って広がる小さな町。それがブルークリフだった。


 「リリア様が最後に来た場所」


 レアの胸が高鳴った。この町に、彼女たちが求める答えがあるのだろうか。


 馬車は坂道を下り、町へと入っていった。


 風が強く、家々には鮮やかな色の旗が翻っていた。漁師たちが網を手入れし、市場では魚や野菜が売られている。活気ある海辺の町だ。


 「まずはエドワーズ邸を探しましょう」セリアが言った。


 馬車は町の中心部を通り、北側の小高い丘に向かった。そこに建つ古い屋敷が、エドワーズ家の本拠地だという。


 しかし、丘を上りきった時、彼らが目にしたのは予想外の光景だった。


 エドワーズ邸の前には、黒い馬車が停まっていた。そして門の前には、黒い服を着た男たちの姿があった。


 「来ていたのね」セリアの声が低くなった。


 「どうしましょう」


 「そのまま近づきましょう」セリアは決意を込めた声で言った。「隠れる必要はないわ。私たちには正当な理由がある」


 レアは緊張しながらも頷いた。


 馬車が邸宅に近づくにつれ、黒服の男たちも彼らに気づいたようだ。三人の男たちは立ち止まり、馬車を見つめていた。


 「レア」セリアが小声で言った。「何があっても、私から離れないで」


 「はい」


 馬車が邸宅の前で止まると、護衛たちが先に降り、周囲を警戒した。そして、レアとセリアも降りた。


 黒服の男たちは、彼らを見て何か言葉を交わしている。


 「エドワーズ邸に用があるのは、私たちだけではないようね」セリアが静かに言った。


 彼女の指先には、ミランダから預かったブローチが握られていた。黒薔薇の形をした銀のブローチ。エドワーズ家の証だ。


 レアも鍵束を握りしめた。これからどんなことが起こるのか分からないが、彼女はセリアと共に進む決意をしていた。


 黒薔薇の継承者として、リリア様の真実を知るために。

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