第8話 名前の糸
朝の図書室は静かだった。
レアは古い文書を丁寧にめくりながら、時折メモを取っていた。彼女の横では、セリアも同様に記録に目を通している。二人とも昨夜はほとんど眠れず、早朝から館の図書室に籠もっていた。
「何か見つかりましたか?」レアが顔を上げて尋ねた。
「まだ」セリアは首を振った。「クラウス・フォン・バルトについての情報はほとんどない。あるとしても、こういった公式の記録からは抹消されているようね」
「意図的に、ですか?」
「そう思えるわ」セリアは一冊の本を閉じた。「リリアの婚約者だったと侯爵は言っていたけれど、婚約の記録さえ残っていない」
レアは自分の前に広げた古文書を見直した。フィンリー家の公式行事の記録だが、リリア様の名前は出てこない。これもまた、彼女の存在が消された証拠だろう。
「エドワーズ…」レアは呟いた。「この名前についても何も見つかりません」
「黒薔薇の間に戻るべきかもしれないわ」セリアが提案した。「あそこなら、消されていない記録があるはず」
「そうですね」
二人が図書室を後にしようとしたとき、扉が開き、ミランダが入ってきた。
「ここにいたのね」彼女は二人を見て微笑んだ。「何を調べているの?」
「クラウス・フォン・バルトについて」セリアが答えた。「それと、リリアがエドワーズという名前を使っていた理由も」
ミランダの表情がわずかに曇った。「クラウスの件は父から聞いたのね」
「はい。でも、彼についての情報がほとんど見つかりません」
「当然よ」ミランダは二人に近づいた。「彼の記録は、リリアが消えた後、同時に抹消されたの」
「なぜですか?」レアが不思議そうに尋ねた。
「彼もまた、黒薔薇の力に関わっていたから」ミランダはため息をついた。「エドワーズの件と合わせて、私室で話しましょう。ここは安全ではないわ」
三人は静かに図書室を後にし、ミランダの私室へと向かった。
*
ミランダの部屋は、館の中でも特別な雰囲気を持っていた。広くはないが、選びぬかれた家具と調度品が上品に配置され、壁には風景画が飾られている。窓からは庭と、遠くに温室が見えた。
「座って」ミランダが二人に椅子を勧めた。
三人が腰を下ろすと、ミランダはすぐに本題に入った。
「エドワーズは、母方の姓よ」
「お母様の?」セリアが尋ねた。
「ええ。母はエレノア・エドワーズ。父と結婚する前の姓ね」ミランダは窓の外を見やった。「母は十年前に亡くなったわ」
「存じませんでした」レアは驚いた。館で働いていながら、侯爵夫人については聞いたことがなかった。
「記録からは消されているの」ミランダの声は静かだった。「母もまた、黒薔薇の力に深く関わっていたから」
「どのように?」
「母は本来、黒薔薇に選ばれた犠牲者だったの」ミランダが言った。「三代目の娘として、消えるべき運命にあった」
二人は息を呑んだ。
「でも、母は消えなかった」ミランダは続けた。「代わりに、自分の半分の命を差し出すという契約を結んだの。完全に消えるのではなく、寿命を半分に縮める代わりに、存在を保った」
「それで、十年前に…」
「ええ。母は若くして亡くなった。普通なら生きられたはずの年月を、契約の代償として支払ったの」
「だから、リリア様はエドワーズの名を」レアが理解した。「母上の選択を尊重して」
「そう。リリアは母の娘であることを誇りに思っていた」ミランダは小さく微笑んだ。「特に、母の勇気ある選択を」
「でも、結局リリア様自身が…」
「ええ。母の選択は呪いを遅らせただけ。次の世代で、またどこかの娘が選ばれることになった」ミランダの表情が暗くなった。「それがリリアだった」
「彼女は母上の道ではなく、完全に消える道を選んだのですね」
「そうよ。でも、母とは違う理由で」
「それは?」セリアが身を乗り出した。
「クラウス・フォン・バルトの存在よ」
ミランダは立ち上がり、小さな箪笥から古い写真を取り出した。それは若い男性と女性が並んで立つ姿を写したものだった。女性はリリアに違いない。
「これが、クラウス?」
「ええ」ミランダは写真を二人に渡した。「二年前、リリアと婚約した男よ」
写真の男性は整った顔立ちをしていた。背が高く、金髪で、どこか冷たい印象を与える目をしている。リリアの隣に立っているが、二人の間には微妙な距離があるように見えた。
「彼は隣国の実力者で、黒薔薇の力に関心を持っていた」ミランダが説明した。「リリアとの婚約も、その力に近づくための手段だったのよ」
「ひどい」レアは思わず呟いた。
「最初、リリアはそれに気づかなかった。でも、ある時、クラウスの真の目的を知り、婚約を破棄したの」
「それで彼は怒ったのですか?」
「怒りを表すような男ではないわ」ミランダの声に警戒心が混じった。「彼は冷静に、別の方法を探した。そして、それがリリアを追い詰めた」
「どのように?」
「クラウスは私たちの遠縁にあたる一族の娘を操り、リリアの地位を脅かした」ミランダは顔を曇らせた。「彼女に婚約者を奪われ、不敬罪で訴えられたリリアは…」
「殺されたのですか?」レアが恐る恐る尋ねた。
「処刑された」ミランダはきっぱりと言った。「それが、彼女の最初の最期」
「最初の?」セリアが眉を寄せた。
「ええ」ミランダは黙ってしばらく考え込んだ後、続けた。「リリアの物語は一度だけではないの。彼女は黒薔薇の力、特に"時間の操作"の力を使って、過去に戻った」
「三冊目の本の物語…」レアが呟いた。
「そう。あれは創作ではなく、彼女の実体験なの」ミランダが頷いた。「時を戻り、再びやり直すことで、彼女は復讐を遂げた。そして最終的に、黒薔薇との新たな契約を結び、自ら消える道を選んだ」
三人は沈黙に包まれた。窓から差し込む日光が部屋を明るく照らしているのに、空気は重く感じられた。
「なぜ、自ら消えることを選んだのですか?」レアがようやく口を開いた。「復讐を遂げたなら…」
「それがリリアよ」ミランダは微笑んだ。「彼女は復讐を遂げた後、その先に何を見たのかしら。おそらく、復讐だけでは何も解決しないことに気づいたのでしょう」
「呪いを断ち切るために」セリアが言った。
「ええ。そして、クラウスから黒薔薇の力を永遠に遠ざけるために」
ミランダは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「クラウスはまだ諦めていないわ。彼は黒薔薇の力を求めて、今も動いている」
「侯爵様も警告されていました」レアが言った。
「父は心配しているのね」ミランダは苦笑した。「彼にとって、リリアの犠牲は重すぎる。二度と同じことが起きないよう、必死なのよ」
「私たちが黒薔薇を守り、クラウスから遠ざけなければ」セリアが決意を込めた声で言った。
「ええ」ミランダは二人を見つめた。「だからこそ、あなたたちは継承者に選ばれた。レアはリリアの記憶を、セリアは黒薔薇の血を引く者として」
「クラウスはどこにいるのですか?」レアが尋ねた。
「隣国のローゼンヴァルト公国に」ミランダは地図がある本棚を指さした。「国境から二日の旅程よ」
「彼は館に来る可能性は?」
「直接は来ないでしょう」ミランダは首を振った。「彼の手先が忍び込む可能性のほうが高い」
「警戒すべきですね」
「ええ。それと…」ミランダは少し躊躇った後、続けた。「ブルークリフに行くつもりだと聞いたわ」
「はい」セリアが答えた。「写真を見つけたので」
「そう」ミランダの表情が柔らかくなった。「あそこは、私たち家族の大切な場所だった。特に母にとって」
「お母様にとって?」
「母の故郷よ。エドワーズ家の本拠地がブルークリフにあるの」
「まだ、エドワーズ家の方々は?」
「いいえ」ミランダは首を振った。「母が最後の直系だった。今は遠縁の親戚が屋敷を管理しているだけ」
「でも、彼らならリリア様の母上について何か知っているかもしれませんね」レアが言った。
「そうね。それに、リリアが最後に訪れたのもブルークリフだった」
「最後に?」
「消える前の一週間、彼女はひとりでブルークリフに行ったの」ミランダの目が遠くを見つめた。「何を探していたのか、誰にも言わなかったけれど」
レアとセリアは顔を見合わせた。これはさらに重要な手がかりだった。
「行くべきですね」セリアが言った。
「ええ。でも気をつけて」ミランダが真剣な表情になった。「クラウスの手先が、あなたたちを追っている可能性もある」
「準備を万全にします」レアが答えた。
「そうね」ミランダは少し考えた後、立ち上がった。「これを持っていきなさい」
彼女は小さな宝石箱から、銀の小さなブローチを取り出した。黒薔薇の形をしたそれは、精巧な細工が施されている。
「母のブローチよ」ミランダはセリアに手渡した。「エドワーズ家の人間ならこれを見れば、あなたたちを信頼するはず」
「ありがとうございます」セリアは丁寧にブローチを受け取った。
「それと」ミランダはレアの方を向いた。「あなたにはこれを」
彼女が差し出したのは、小さな鍵だった。
「ブルークリフのエドワーズ邸の書庫の鍵よ」
「私に?」レアは驚いた。
「ええ。あなたはリリアの記憶の継承者。彼女が残した記録を守るのにふさわしい」
レアは恐る恐る鍵を受け取った。小さいながらも、ずっしりとした重みがある。
「では、明日にでも出発しましょう」セリアが言った。「準備が整い次第」
「ええ。馬車と護衛は手配しておくわ」ミランダが申し出た。「父には私から話しておく」
三人は立ち上がり、これからの計画を詰めていった。
*
昼下がり、レアは温室を訪れていた。
黒薔薇はさらに生き生きと育ち、蔓は少し伸び、新しい蕾までつけ始めていた。
「こんなに早く育つなんて」レアは驚きながら、水を注いだ。
黒薔薇は通常の花とは違う。その成長は早く、そして明らかに意志があるかのようだった。
「ブルークリフに行くことになりました」レアは花に語りかけた。「リリア様の母上の故郷に。あなたのことは大丈夫でしょうか」
もちろん、花から返事はなかった。だが、微かに花びらが震えたような気がした。
「帰ってきたら、また世話をします」
レアが水やりを終え、温室を出ようとしたとき、不意に首筋に冷たい感触があった。振り返るが、そこには誰もいない。
「気のせい…?」
だが、それは気のせいではないように感じられた。まるで誰かが彼女を見ていたかのように。
温室を出て館に戻る道すがら、レアは自分のポケットの中の鍵と、リリアの写真を確かめた。これからの旅が、新たな発見をもたらすことを願いながら。
館に戻ると、セリアが玄関ホールで彼女を待っていた。
「荷物をまとめ始めたわ」セリアが言った。「明日の午前中に出発できそう」
「はい。私も準備を」
二人が階段を上がりかけたとき、ヘルマンが近づいてきた。
「レア、お客様だ」
「私に?」レアは驚いた。彼女に会いに来る人などいないはずだった。
「ええ。村からの使いとのこと。応接間で待っておられる」
レアはセリアと顔を見合わせ、応接間へと向かった。
部屋に入ると、若い男性が立っていた。村の郵便配達人だ。
「レア様」彼は丁寧に頭を下げた。「これをお届けにあがりました」
彼が差し出したのは、小さな包みだった。差出人の名前はない。
「差出人は?」
「わかりません」配達人は首を振った。「村の郵便局に置かれていたものです。レア様宛てと明記されていました」
「ありがとう」
配達人が去った後、レアは恐る恐る包みを開けた。中には古い鍵束と、一枚の紙切れが入っていた。
紙に書かれていたのは、たった一行。
『彼女の魂を救うために』
「これは…」
セリアも近づいて紙を見た。「誰からでしょう」
「わかりません」レアは鍵束を手にした。「でも、この筆跡…どこかで見たような」
「黒薔薇の間で見た文書に似ているわ」セリアが指摘した。
「そうですね。でも少し違う」
鍵束には五つの鍵がついていた。それぞれに小さなタグが付けられ、番号が振られている。
「何の鍵でしょう」
「わからないわ」セリアは首を振った。「でも、ブルークリフで何か分かるかもしれない」
「そうですね。持っていきましょう」
レアは鍵束をポケットに入れた。差出人は不明だが、これがリリア様に関係していることは間違いなさそうだった。
「準備を急ぎましょう」セリアが言った。「明日の旅には、これまで以上に備えが必要かもしれない」
レアは静かに頷いた。これから始まる旅は、彼女たちをさらに深い謎へと導くことだろう。リリア様の過去、母親のこと、そして黒薔薇の秘密。
すべての糸は、ブルークリフという小さな海辺の町へとつながっていた。