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第7話 扉の向こう側

 夕暮れ時の館は、沈黙の重みを増していた。


 レアとセリアは、侯爵から受け取った古い鍵を手に、館の最も古い区画へと足を運んでいた。西棟と北棟の間にある、ほとんど使われなくなった廊下。壁には色あせた肖像画が掛けられ、床は長い年月を経て自然に凹んでいる。


 「黒薔薇の間」セリアが小さく呟いた。「この館に住んでいても、聞いたことがなかったわ」


 「わたしも」レアは周囲を見回した。「侯爵様でさえ秘密にしていた場所なのでしょう」


 二人は廊下の突き当たりまで進んだ。そこには何もない。ただの壁があるだけだった。


 「鍵穴がない」


 「隠されているのでしょう」


 レアは壁を注意深く調べ始めた。装飾の間や、わずかな凹みを探る。セリアも壁を軽く叩き、音の変化を確かめていく。


 「ここ」セリアが壁の一部に手を当てた。「音が違う」


 レアも近づき、その部分を調べた。確かに他とは違う反響がある。押してみると、わずかに動いた気がした。


 「何か仕掛けがあるのかもしれません」


 二人で壁を慎重に調べるうち、レアの指が装飾の一部に引っかかった。軽く回すと、カチリという小さな音がして、その部分が少し飛び出した。


 「見つけました」


 飛び出した装飾の裏側に、小さな鍵穴が現れた。


 「試してみましょう」


 セリアがポケットから鍵を取り出し、穴に差し込んだ。完璧にはまり、すっと回る感触があった。


 カチャリという大きな音とともに、壁の一部がゆっくりと内側に開いていった。


 「開いた…」


 その向こうには、狭い階段が下へと続いていた。薄暗く、冷たい空気が漂ってくる。


 「下にあるのですね」レアが小声で言った。


 「行きましょう」


 セリアが先に立ち、レアがランプを持って後に続いた。階段は緩やかに螺旋を描き、館の地下へと降りていく。石造りの壁は湿っているが、不思議と埃は少ない。時折手入れされているようだった。


 数十段の階段を降り切ったところで、二人は広い部屋の入口に立っていた。


 「黒薔薇の間…」


 ランプの光が届く限りでは、それは地下室というより小さな図書館のようだった。壁際に本棚が並び、中央には大きなテーブルと椅子がある。一方の壁には暖炉までしつらえられていた。


 セリアが部屋に入ると、壁に据え付けられたろうそく立てに火を灯した。次々と光が広がり、部屋全体が明るさを取り戻していく。


 「まるで、誰かが来るのを待っていたみたい」


 確かに、部屋は古びているものの、整然と片付けられていた。テーブルの上には罫線の引かれた紙と筆記用具が用意されている。本棚の本も埃っぽさはあるが、順序よく並べられていた。


 「見てください」レアは本棚に近づいた。「これは…黒薔薇に関する記録です」


 棚には『黒薔薇の由来』『契約の作法』『時を越える力』など、黒薔薇に関する古い書物が並んでいた。一部は数百年前のものと思われる皮表紙の本。


 「フィンリー家の記録」セリアが別の棚を指さした。「代々の当主の日記や手記もある」


 二人は畏敬の念を抱きながら、部屋の中を歩き回った。


 「これだけの知識があれば」セリアが言った。「リリアが何を見つけ、どうして自分の消失を選んだのか、もっと理解できるかもしれない」


 「はい」レアは頷いた。「でも、どこから手をつければ…」


 その瞬間、レアの目が暖炉の上に掛けられた肖像画に留まった。


 「あれは…」


 近づいてみると、それは黒いドレスを着た若い女性の肖像画だった。背後に黒薔薇が描かれている。


 「リリア様…?」


 「いいえ」セリアも近づいてきた。「服装が古すぎる。百年以上前の人物よ」


 肖像画の下には小さな銘板があった。『エリザベス・フィンリー 第七代黒薔薇の守り手』


 「"守り手"」レアは言葉を反芻した。「私たちと同じ役割を持っていた人」


 「そうね」セリアは肖像画をじっと見つめた。「彼女も、黒薔薇の秘密を守るために選ばれたのでしょう」


 肖像画のエリザベスは、凛とした表情で前を見据えていた。リリアと似た雰囲気を持ちながらも、どこか違う強さを宿している。


 「ここはまるで…祠のようですね」レアが静かに言った。


 「ええ。黒薔薇を祀る場所」


 二人はテーブルのところに戻った。中央には大きな書物が開かれた状態で置かれていた。それは『黒薔薇の契約書』と題されていた。


 「これは…」


 ページを開くと、複雑な文字と図形で書かれた契約の内容が記されていた。フィンリー家と黒薔薇の精霊との間で交わされた古い約束。力と繁栄を得る代わりに三代ごとに一人の娘を捧げるという契約。


 そして、最後のページには新しい筆跡があった。


 『この契約は今、終わりを告げる。私、リリア・フィンリー・エドワーズは、自らの意志で黒薔薇に存在を捧げ、その代償として呪いの連鎖を断ち切る。以後、フィンリー家に生まれる娘たちは二度と犠牲とならぬよう』


 「エドワーズ?」レアは不思議そうに顔を上げた。「リリア様の姓は、確かフィンリーでしたよね?」


 「複合姓かもしれないわ」セリアは契約書に見入っていた。「でも、それより大事なのは…この署名の日付」


 確かに、署名の日付はリリアが消える一週間前のものだった。


 「彼女は計画的に…」


 「ええ。誰にも告げず、ひとりで決断したのでしょう」


 レアの胸が締め付けられる思いだった。リリア様はこの部屋で、一人きりで自分の運命を決めていたのだ。


 「大きな勇気が必要だったはず」


 「でも、彼女には何か理由があったのでしょう」セリアが言った。「ただ自己犠牲だけではない」


 セリアはテーブルの上の別の書類に目を通し始めた。それは黒薔薇の性質についての研究メモだった。


 「見て」セリアが指さした。「黒薔薇の力は三つある」


 そこには次のように記されていた。


 『黒薔薇の三つの力』

 『第一の力は「記憶の操作」。存在を消したり、特定の記憶だけを残すことができる』

 『第二の力は「時間の操作」。特定の条件下で、時を戻したり止めたりする力』

 『第三の力は「運命の転換」。定められた運命を、別の方向へ変える力』


 「リリア様は、この力を使ったのですね」レアが言った。「だから、私だけに記憶を残し、そして…」


 「そして、時を戻して別の運命を選んだのかもしれない」セリアが続けた。「三冊目の本に書かれていた物語が、それを示しているわ」


 二人はさらに調べ続けた。暖炉の火が心地よい暖かさを部屋に広げ、外の世界から隔絶された安全な空間の中で、彼らは黒薔薇の秘密に少しずつ近づいていった。


 そのとき、テーブルの端に置かれた古い箱が、レアの注意を引いた。


 「これは何でしょう」


 彼女が箱を開けると、中には一本の黒い羽根ペンと、小さな瓶が入っていた。瓶には黒い液体が入っている。


 「インクかしら?」


 「いいえ」レアは瓶をそっと持ち上げた。「これは…血のようです」


 瓶の横には小さなノートがあった。開くと、そこには使い方が記されていた。


 『黒薔薇のインク。黒薔薇の血と守り手の血を混ぜ合わせたもの。これで書かれた文字は、守り手だけが読むことができる』


 「だから、あの本の文字が私たちには違って見えたのね」セリアが理解を示した。


 「はい。リリア様の本をあなたが読め、私には読めなかった。そして、レアへの手紙は私には読めて、あなたには読めなかった」


 「どちらも守り手だから読めたけれど、それぞれに向けられた言葉だったのね」


 セリアは羽根ペンを手に取り、その感触を確かめた。


 「私たちも、このインクで書くべきかもしれないわ」


 「何を?」


 「私たちの物語を」セリアは静かに言った。「リリアが残した物語を受け継ぎ、私たちなりの言葉で紡ぎなおす」


 「そうですね」レアは頷いた。「リリア様の犠牲が無駄にならないように」


 二人はしばらく黙り込んだ。部屋の静けさが、彼らの思いを包み込む。


 「他にも、探してみましょう」


 彼らは部屋の隅々まで調べ始めた。たくさんの書物、記録、古い道具。何世代にもわたる黒薔薇の守り手たちが残した痕跡。そして、リリア自身が残した最後のメッセージ。


 壁の一角に嵌め込まれた小さな引き出しの中から、レアは一枚の写真を見つけた。


 それはリリアとミランダが並んで立つ姿。二人とも晴れやかな笑顔を浮かべている。そして二人の間に立っている男性——おそらく父親のエルネスト侯爵。その背後には、どこか別の場所の風景が広がっていた。


 「ここはどこでしょう」レアが写真を示した。


 セリアが覗き込む。「海沿いの町のようね。休暇か何かで訪れた場所かしら」


 写真の裏には日付と場所が記されていた。『ブルークリフにて 家族旅行』


 「ブルークリフ…」セリアが考え込んだ。「聞いたことがある。ここから北へ行った海岸沿いの町よ」


 「行ったことがありますか?」


 「いいえ」セリアは首を振った。「でも、この写真…不思議と温かい雰囲気がある」


 確かに、写真に映る三人は心から楽しそうだった。リリアの笑顔は、レアが知っているものとは少し違う、純粋な喜びに満ちていた。


 「リリア様の別の一面を見たようです」レアは写真を大切そうに持った。「彼女も普通の娘として、家族と過ごす時間があったのですね」


 「ええ。彼女が守ろうとしたのは、そういう日常の幸せだったのかもしれない」


 レアは写真を元の場所に戻そうとしたが、ふと思い直して自分のポケットに入れた。この写真は、リリア様の記憶の一部として大切にしたいと思った。


 調査を続けるうち、二人はますます多くの発見をした。黒薔薇の歴史、フィンリー家の秘密、そして何より、リリアが自分の決断を下すまでの思考過程が記された日記の断片。


 「彼女は悩んでいた」セリアがある日記のページを指さした。「自分が消えることで本当に呪いが解けるのか、それとも別の道があるのか」


 「でも、最終的には自分で決めたのですね」


 「ええ。誰にも相談せず、自分の責任で」


 夜が更けていくにつれ、二人は疲れを感じ始めていた。何時間もこの部屋で過ごし、膨大な情報を吸収してきた。


 「そろそろ戻りましょう」セリアが提案した。「また来ることができますから」


 「はい」


 だが、部屋を出る前に、レアは暖炉の前で立ち止まった。エリザベス・フィンリーの肖像画を見上げる。


 「私たちも、いつか肖像画に描かれるのでしょうか」


 「まだその資格はないわ」セリアは笑った。「これから、黒薔薇の守り手としての務めを果たして、初めて」


 「そうですね」レアも微笑んだ。「これからが始まりなのですね」


 二人は部屋に灯されたろうそくを消し、残った暖炉の火だけが柔らかな光を放つ中、階段を上っていった。扉を閉め、鍵をかける。


 「また来ましょう」セリアが言った。「まだ知らないことがたくさんある」


 「はい。リリア様の物語を完全に理解するために」


 廊下を戻る二人の後ろで、黒薔薇の間の扉はゆっくりと壁の一部に戻り、再び姿を消した。だが今や、その秘密は彼らのものとなっていた。



 翌朝、レアは早くから起き出して温室に向かった。


 朝露が草の上に輝き、温室のガラスには朝日が反射している。扉を開け、中に入ると、心地よい湿り気と土の匂いが彼女を迎えた。


 「おはよう」


 レアは黒薔薇に語りかけた。中央に植えられた花は一夜で見違えるほど元気になっていた。葉はより緑濃く、花はより漆黒に輝いている。


 「よく育っていますね」


 彼女は水差しを手に取り、丁寧に水をやった。黒薔薇の秘密を知った今、この花がただの植物ではないことを実感していた。


 「レア」


 背後から声がして振り返ると、セリアが立っていた。彼女も早起きしたようだ。


 「おはようございます」


 「早いのね」セリアは黒薔薇に近づいた。「元気そうね」


 「はい。驚くほど」


 「昨夜のこと、考えていたの」セリアが言った。「私たちが見つけた情報、特にリリアが『エドワーズ』という名前を使っていたこと」


 「気になりますね」


 「ええ。それに、写真のブルークリフという場所」セリアは窓の外を見た。「行ってみる価値があるかもしれない」


 「本当に?」


 「そう。リリアが自ら選んだ道の理由を知るには、彼女の過去をもっと知る必要がある」セリアが真剣な表情で言った。「それに…」


 「それに?」


 「あの婚約者の件も気になるわ。クラウス・フォン・バルト」


 レアも思い出した。侯爵が警告していた男の名前。


 「彼が黒薔薇を狙っているのなら、私たちは用心すべきですね」


 「ええ。でも、ただ待つだけではなく、先手を打ちたいの」セリアの目が決意に満ちていた。「彼の素性を調べ、どんな人物か知っておく必要がある」


 「確かに」


 二人は温室の中で、黒薔薇を見守りながら今後の計画を話し合った。


 「一週間後」セリアが提案した。「ブルークリフに行きましょう。リリアと家族が過ごした場所を見てみたい」


 「はい。私も」


 「それまでに、黒薔薇の間で見つけた情報を整理しましょう」


 「クラウスについても調べたほうがいいですね」


 「ええ。図書館や黒薔薇の間の記録から、何か見つかるかもしれない」


 話し合いを終え、二人は館へと戻った。朝日が完全に昇り、新しい一日が始まっていた。


 しかし、館に戻る途中、レアは不意に後ろ髪を引かれるような感覚に襲われた。振り返ると、温室のガラス越しに黒薔薇が見えた。


 一瞬、花が彼女を見つめているような錯覚を覚えた。


 「どうしたの?」セリアが気づいた。


 「いいえ…」レアは首を振った。「気のせいです」


 だが、それは単なる気のせいではなかったかもしれない。黒薔薇には意識があるのだろうか。彼らの行動を見守っているのだろうか。


 そんな疑問を心に秘めながら、レアは館へと足を進めた。これから始まる探究の旅に、静かな決意を抱きながら。

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