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第6話 花を植える朝

 朝の温室は、柔らかな光に満ちていた。


 日が昇ったばかりのこの時間、ガラス越しに差し込む光は、すべてを淡い金色に染め上げる。昨日掃除をしたばかりの床や棚は埃一つなく、新たな始まりを待ち望むように静かに輝いていた。


 レアは黒薔薇の鉢を両手で抱え、温室の中央へと進んだ。その後ろをセリアが続く。彼女の手には、ミランダから預かった古い園芸用の道具が握られていた。


 「ここが、最適な場所」


 セリアは中央に準備された土の盛り上がりを指さした。昨日二人で整えた場所は、温室の中で最も日当たりが良く、かつガラス越しとはいえ風通しも考慮された位置にあった。


 レアはゆっくりと鉢を下ろした。漆黒の花びらが朝の光に照らされ、一瞬だけ紫がかって見える。


 「本当に美しい花」彼女は思わず呟いた。


 「ええ。呪いを宿す花とは思えないわ」セリアがスコップを手に取った。「でも、美しいものにこそ危険が潜むのかもしれない」


 二人は言葉少なに作業を始めた。セリアがスコップで穴を掘り、レアが慎重に鉢から黒薔薇を取り出す。根がしっかりと張っているのが感じられた。


 「大切に育てられてきたのね」セリアが根を見て言った。


 「リリア様が?」


 「ええ。彼女は最後まで、黒薔薇を憎んではいなかったのでしょう」


 レアはそっと黒薔薇を穴に移した。根が新しい土に触れたとき、かすかに花が揺れたような気がした。


 「土を」


 セリアが手渡した土を、レアが丁寧に根の周りに盛っていく。


 「不思議ね」セリアが作業を見つめながら言った。「この花のために、何世代もの人が犠牲になってきたなんて」


 「でも、リリア様によって、それは終わった」


 「そう。彼女の選択によって」


 土をしっかりと押し固め、水を与える。黒薔薇は新しい場所に植えられた。朝の光の中で、その花は以前より一層鮮やかに見えた。


 「これで、黒薔薇は私たちのもの」セリアが小さく微笑んだ。「いえ、私たちがその守り手になったのね」


 レアは黒薔薇に最後の水を注ぎながら、静かに頷いた。


 「さあ、次は部屋の秘密を探りましょう」セリアが立ち上がった。「リリアが残したものを」



 セリアの部屋——かつてのリリアの部屋に戻った二人は、改めて空間を見回した。


 「どこから探せばいいでしょう」レアが迷いの声を上げた。


 「まずは、昨日まで気づかなかったものから」セリアは周囲を見渡した。「私たちの目が変わったのだから、見えるものも変わるはず」


 レアは静かに頷き、部屋の隅から調べ始めた。以前、リリア様の侍女として働いていた時には、この部屋の隅々まで掃除をしていた。だが今、彼女の目線は違っていた。清潔さや整頓ではなく、隠された痕跡を探している。


 「ここは…」


 壁の一角に、不自然な出っ張りを見つけた。壁紙の下にわずかな膨らみがある。


 「何かしら?」セリアが近づいてきた。


 「はい。壁の中に何かがあるようです」


 セリアは壁紙に触れ、指で軽くたどった。「確かに。剥がしても良いかしら」


 「ミランダ様は探すように言われました」


 二人は顔を見合わせ、セリアがゆっくりと壁紙の端を剥がし始めた。下からは小さな木の扉が現れた。幅は三十センチほど、まるで小さな隠し収納のようだ。


 「開けましょう」


 セリアが扉を引くと、中からは埃ひとつない小さな空間が現れた。そこには三冊の本が並んでいた。


 黒い革表紙の本。リリアの日記だろうか。


 「これは…」レアが息を呑んだ。


 セリアは慎重に本を取り出した。表紙には何も書かれていない。


 「開けてみましょう」


 最初の本を開くと、それは日記ではなく、黒薔薇に関する研究ノートだった。リリアの筆跡で書かれた膨大な記録。黒薔薇の歴史、呪いの仕組み、契約の詳細が克明に記されていた。


 「彼女は徹底的に調べていたのね」セリアが感嘆の声を上げた。


 二冊目は、フィンリー家の系譜だった。通常の家系図とは異なり、黒薔薇の呪いがどのように受け継がれてきたかを追跡した記録。三代ごとに一人の娘が消えていく、その残酷な歴史。


 「私の名前も…」セリアが驚いた声を上げた。


 確かに、傍系の一族としてセリアの名前も記されていた。しかし、彼女の系統は呪いの直接的な影響を受けない位置にあった。


 「だから、あなたが守り手に選ばれたのですね」レアが理解した。「呪いを受けない立場にいながら、黒薔薇の血を引いている」


 三冊目を開いたとき、二人は言葉を失った。


 それはまさに物語だった。


 『黒薔薇の報復者』という題が付けられ、リリアという女性が主人公の物語。彼女が時間を遡り、自分を裏切った者たちへの復讐を果たす物語。


 「これは…リリア様が書いたフィクション?」レアは混乱した。


 「いいえ」セリアが真剣な表情で言った。「これは彼女の経験かもしれない」


 「どういうことですか?」


 「黒薔薇の力は時間にも影響するという記述が、一冊目にあったわ」セリアはページを素早くめくった。「場合によっては、"時を巻き戻す"ことも可能だと」


 レアは息を飲んだ。「では、リリア様は本当に…」


 「時間を遡ったのかもしれない。そして、その経験を"物語"として残した」


 二人は三冊目の本をさらに読み進めた。リリアという女性が、婚約破棄と不敬罪によって処刑された後、魔法の暴走によって時間を遡り、かつての日々をやり直す物語。


 「これがリリア様の真実なのでしょうか」レアが震える声で言った。


 「わからないわ」セリアは本を閉じた。「でも、彼女が私たちに伝えたかったのは確かね」


 三冊の本を並べ、二人はしばらく黙って考えた。


 「隠し扉の中には他には何も?」


 レアが手を伸ばして確認すると、奥に小さな紙片が一枚落ちていた。


 「これは?」


 取り出してみると、それは古い地図の切れ端だった。館の周辺を描いたもののようだが、通常の地図には載っていない場所が記されている。


 「"黒薔薇の源泉"」セリアが地図の書き込みを読んだ。「これは、黒薔薇が最初に見つかった場所?」


 「可能性があります」レアは地図をよく見た。「館から北へ二時間ほどの場所のようですね」


 「行ってみる価値はありそうね」


 セリアが言い終えるか否か、ノックの音が部屋に響いた。


 「どなた?」セリアが声をかけた。


 「ヘルマンでございます」


 セリアが扉を開けると、執事長が立っていた。


 「申し訳ありません。侯爵様がお二人にお会いしたいとのことです」


 「エルネスト侯爵が?」セリアは驚いた様子を隠せなかった。


 「はい。書斎にてお待ちです」


 レアとセリアは顔を見合わせた。エルネスト侯爵は普段めったに姿を見せない人物だ。特に、セリアのような傍系の親戚に会うことは稀だった。


 「参りましょう」セリアが決意の表情を浮かべた。


 二人は発見した本と地図を隠し扉に戻し、壁紙を元の位置に整えた。そして、ヘルマンに導かれて侯爵の書斎へと向かった。



 館の西棟にある侯爵の書斎は、厳かな雰囲気に包まれていた。


 重厚な木の扉を開けると、部屋の中央に据えられた大きな机の後ろに、エルネスト・フィンリー侯爵の姿があった。六十代半ばだろうか、白髪交じりの髪と厳格な顔つきの男性。眼光は鋭いままだが、その肩には年齢を感じさせる疲れが見えた。


 「来たか」侯爵の声は低く響いた。「セリア、そして…レアか」


 「お呼びでしょうか、伯父様」セリアが丁寧に一礼した。


 「ああ」侯爵は二人に椅子を勧めた。「座りなさい」


 二人が座ると、侯爵はしばらく黙って彼らを観察していた。その視線は冷静だが、どこか悲しみを含んでいるようにも見えた。


 「昨日、お前たちは修道院に行ったようだな」


 その言葉に、レアは息を飲んだ。


 「はい」セリアが落ち着いて答えた。「黒薔薇の真実を知るために」


 「そして、リリアと会った」


 「ご存知だったのですね」セリアが静かに言った。


 「ああ。すべてを」侯爵はため息をついた。「リリアの選択、黒薔薇の呪い、そして今、お前たちが継承者となったことも」


 「侯爵様は…」レアが恐る恐る口を開いた。「リリア様のことを、ずっと覚えていらしたのですか?」


 「忘れることなどできるはずがない」侯爵の声が沈んだ。「彼女は私の娘だ。ミランダの妹であり、この館の正当な後継者の一人だった」


 「でも、彼女の記録は消されていました」


 「それが契約の条件だった」侯爵は机の上に手を置いた。「彼女が消えることで、呪いの連鎖を断ち切る。だが、その代償として、彼女の存在はこの世界から消されなければならない」


 「父上としては、辛い選択だったでしょう」セリアが静かに言った。


 「辛かった」侯爵は顔を上げた。「だが、それは彼女自身が選んだ道。私がとめることはできなかった」


 レアは侯爵の表情に、これまで見たことのない感情を見た。強い後悔と、深い愛情が入り混じったような複雑な感情。


 「私が呼んだのは、お前たちに話があるからだ」侯爵は姿勢を正した。「お前たちは黒薔薇の継承者となった。それは、重い責任を伴う」


 「どのような責任でしょうか」セリアが尋ねた。


 「黒薔薇の力は完全に消えたわけではない」侯爵は真剣な表情で言った。「呪いは解かれたが、その力は依然として存在する。悪用する者の手に渡れば、新たな災いとなりかねない」


 「黒薔薇は安全な場所に植えました」レアが答えた。「温室に」


 「それは良かった」侯爵は頷いた。「だが、黒薔薇の秘密を狙う者は少なくない。その力を欲する者たちだ」


 「誰が?」


 「かつて、リリアの婚約者だった男」


 その言葉に、レアは驚いて顔を上げた。リリア様に婚約者がいたとは聞いたことがなかった。


 「クラウス・フォン・バルトという男だ」侯爵の声に冷たさが混じった。「隣国の有力貴族。数年前、リリアと婚約したが、破棄された。彼は黒薔薇の力に興味を持っていた」


 「それで、リリア様を?」


 「いや、彼女が消えたのはそれとは関係ない」侯爵は首を振った。「だが、彼は今でも黒薔薇の力を求めている。そして、噂を聞きつけて動き始めたようだ」


 「噂?」


 「黒薔薇の呪いが解かれたという噂だ」


 レアとセリアは顔を見合わせた。


 「私たちは注意すべきということですね」セリアが理解を示した。


 「ああ。そして、これを持っておくといい」


 侯爵は机の引き出しから小さな箱を取り出した。開けると、中には二つの銀の指輪があった。どちらも細工が施されており、中央には小さな黒い石がはめ込まれていた。


 「黒薔薇の守り手の証」侯爵は二人に指輪を差し出した。「代々伝わるものだ。これを身につければ、黒薔薇の力から身を守ることができる」


 二人は恐る恐る指輪を受け取った。


 「もう一つ」侯爵はさらに別の物を取り出した。「これを」


 それは小さな鍵だった。古く見えるが、磨き上げられて輝いている。


 「これは?」


 「黒薔薇の間の鍵だ」侯爵は静かに言った。「館の最も古い部分にある隠された部屋。そこには、黒薔薇に関するすべての記録が保管されている」


 「そんな部屋があったのですか」レアは驚いた。


 「ああ。代々の当主だけが知る秘密の一つだ。今、お前たちに託す」


 セリアが鍵を受け取った。「ありがとうございます」


 「くれぐれも気をつけるように」侯爵は最後に言った。「黒薔薇の力は、使い方によっては祝福にも呪いにもなる。リリアは呪いを断ち切ったが、新たな呪いが生まれる可能性もある」


 「私たちが守ります」レアは強い決意を込めて言った。「リリア様の意志を継いで」


 「頼むぞ」侯爵は疲れた微笑みを浮かべた。「彼女の最後の選択が無駄にならないように」


 書斎を後にした二人は、しばらく黙って歩いた。


 「黒薔薇の間」セリアがつぶやいた。「行ってみましょう」


 「はい」レアは銀の指輪を見つめた。「リリア様の物語を、もっと知るために」


 二人は新たな決意とともに、館の古い区画へと向かった。彼らが継承したのは、単なる秘密ではない。何世代にもわたって続いてきた物語であり、これからも続いていく物語の一部なのだ。


 黒薔薇の守り手として、その物語を紡ぎ直す役目を、彼らは受け入れたのだった。

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