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第5話 帰郷の影

 館への帰り道は、明け方の霧に包まれていた。


 一晩中馬車で走り続け、レアの体は疲労で重く、まぶたが幾度となく閉じかけた。それでも彼女の腕の中には、黒い革表紙の本がしっかりと抱かれていた。リリア様の最後の言葉を記した、大切な遺産。


 隣では、セリアも深い沈黙に包まれていた。黒薔薇の鉢植えを膝の上に置き、時折その漆黒の花びらに触れるように指を伸ばしては、途中で引っ込める。


 「無事に戻れるでしょうか」レアが窓の外に広がる薄明かりを見つめながら呟いた。


 「心配ないわ」セリアの声は落ち着いていた。「ヘルマンもミランダもすでに館に戻っているはず。私たちの帰りを待っている」


 馬車は揺れながら、森の道を抜け、やがて舗装された道へと出た。薄暗い空に、館の尖塔が見え始めていた。


 「リリア様は本当に消えてしまったのでしょうか」レアは思わず口にした。「あの修道院で見たのは…幻ではなかった」


 「幻ではないわ」セリアは静かに答えた。「あれは確かにリリアだった。でも、彼女自身が言ったように、彼女の存在は薄れつつある」


 二人は再び沈黙に戻った。言葉では表現できない何かが、二人の間に存在していた。共に経験した出来事が、彼らの関係を変えたように感じられる。


 「私たちは」レアが慎重に言葉を選んだ。「これから何をすればいいのでしょうか。黒薔薇の継承者として」


 セリアは黒薔薇の鉢を見つめた。「まずは、この薔薇を守ること。そして…」彼女はレアを見た。「リリアの物語を、私たちの言葉で紡ぎなおすこと」


 「紡ぎなおす…」


 「ええ。誰にも読まれなかった物語を、私たちが読み、そして書き直す」


 その瞬間、レアの胸に温かいものが広がった。これが継承者の役目なのだと、彼女は理解した。過去を消し去るのではなく、新たな形で未来へと繋げること。


 館の門が見えてきた。朝もやの中に浮かび上がる石造りの壁。レアの心の中で、不安と決意が交錯した。


 「ここからが、本当の始まり」セリアが微笑んだ。



 館の裏門に到着すると、ヘルマンが一人で待っていた。


 馬車から降りた二人を見て、彼は深く頷いた。


 「無事でなによりです」その声には、これまでにない柔らかさがあった。


 「お心配をおかけしました」レアが恭しく答えた。


 ヘルマンの目は、セリアの膝の上に抱えられた黒薔薇の鉢に留まった。「そして、それを持ち帰ったのですね」


 「はい」セリアが鉢植えを軽く持ち上げた。「任せられました。黒薔薇の守り手として」


 「そうですか」ヘルマンは口元にかすかな笑みを浮かべた。「リリア様が選んだのなら、間違いはないでしょう」


 リリア様の名を口にした瞬間、レアは驚きを隠せなかった。ヘルマンはもう彼女の存在を隠そうとしていない。


 「館の中へ」ヘルマンが二人を促した。「ミランダ様があなた方を待っています」


 使用人の通路を通り、二人は館の中へと入った。朝の光がまだ届かない廊下は静かで、他の使用人たちはまだ起きていないようだった。


 ミランダの私室へと案内された。そこは館の東棟にあり、昨日発見した隠し書庫からそう遠くない場所だった。


 扉を開けると、ミランダが窓辺に立っていた。振り返った彼女の顔には、安堵の色が浮かんでいた。


 「よく戻ってきたわね」彼女はセリアに近づき、頬に軽くキスをした。「心配したのよ」


 「私たちは大丈夫です」セリアが答えた。「そして、リリアの遺志を受け継いできました」


 「それで十分よ」ミランダの視線がレアにも向けられた。「二人とも座って。話すことがたくさんあるわ」


 四人は小さなテーブルを囲んだ。窓から差し込む朝日が、部屋を淡い金色に染めていく。


 「まず、謝らなければならないわ」ミランダがレアに向かって言った。「あなたの記憶を尊重せず、リリアの存在を隠していたこと」


 「お気になさらないでください」レアは静かに答えた。「リリア様の選択を守るためだったのですね」


 「そう。彼女が消えることを選んだのは、黒薔薇の呪いから家を救うため。誰かが彼女の記憶を持ち続けることで、呪いが完全に解けないと思っていたの」


 「でも、それは違った」セリアが続けた。「むしろ、記憶が残ることこそが彼女の望みだった」


 「そうよ」ミランダはテーブルの上に手を置いた。「黒薔薇の血は強い。何世代にもわたって、この家に流れ続けてきた。その代償として、三代ごとに一人の娘が呪いに捧げられてきた」


 「でも、リリア様がその連鎖を断ち切った」レアが言った。


 「ええ。自ら進んで消えることを選び、代わりに呪いそのものを消滅させるという契約を結んだのよ」


 「彼女は…本当に消えてしまうのですか?」レアは恐る恐る尋ねた。


 ミランダの目が悲しみを帯びた。「時間の問題ね。昨日、あなたたちが見たのが最後かもしれない」


 「でも、彼女の物語は残る」セリアが黒い革表紙の本に手を置いた。「私たちの記憶に、そしてこの本に」


 「それが、継承者たちの役目」ヘルマンが静かに言った。「黒薔薇と契約を見守り、リリア様の犠牲を無駄にしないこと」


 「では、私たちは…」


 「あなたたちは自由よ」ミランダが言った。「レア、あなたはもはや侍女としての役目だけでなく、もっと重要な任務を持っている。セリア、あなたもただの親戚ではなく、黒薔薇の守り手」


 二人は顔を見合わせた。


 「私たちは何をすればいいのでしょうか」レアが尋ねた。


 「まず、黒薔薇を安全な場所に植える必要がある」ヘルマンが言った。「館の裏庭に、ひっそりとした場所がある。古い温室だ。そこなら、呪いが復活することなく、花を守れる」


 「それから」ミランダが続けた。「リリアの部屋を、あなたたち二人の書庫として使ってほしい」


 「リリア様の部屋を?」レアは驚いた。


 「ええ。今はセリアが使っているわね」ミランダはセリアに向かって微笑んだ。「そこには、リリアの残した多くの物が隠されている。あなたたちなら、それらを見つけ出せるはず」


 「それらを使って、彼女の物語を紡ぎなおすのね」セリアが理解を示した。


 「そして」ヘルマンが最後に言った。「何よりも大切なのは、この秘密を守ること。黒薔薇の呪いは終わったかもしれないが、その力が他の者の手に渡れば、新たな悲劇を生むかもしれない」


 四人は沈黙のうちに、互いの決意を確かめ合った。


 朝日がさらに強くなり、テーブルの上に置かれた黒薔薇の花が、漆黒から深い紫へと色を変えるように見えた。


 「さあ、まずは休息を」ミランダが二人に言った。「長い旅だったでしょう。これからの日々のために、体力を回復させてください」


 レアとセリアは立ち上がり、部屋を後にした。



 セリアの部屋——かつてのリリアの部屋に戻ると、レアは疲れを感じながらも、不思議な高揚感を覚えていた。


 「あなたも休んで」セリアがレアに言った。「もう侍女としてではなく、継承者の一人として」


 「ありがとうございます。でも…」


 「でも?」


 「まだ整理できないことがあります」レアは正直に告白した。「リリア様が消えることを選んだ理由、黒薔薇の契約、そして私たちが選ばれた理由」


 セリアは黒薔薇の鉢を窓辺に置き、部屋の中央に戻ってきた。「私にも、わからないことがたくさんあるわ」


 「二人で理解していくのでしょうね」


 「ええ」セリアは微笑んだ。「それが継承者の務め」


 レアはふと、部屋を見回した。昨日まで普通に見えていた空間が、今は違って見える。どこかに、リリア様の痕跡が隠されているのかもしれない。


 「この部屋には、リリア様の残したものがあるはずだとミランダ様は言っていました」


 「探してみましょう」セリアの目が輝いた。「でも、まずは休息を。明日からが本当の始まりよ」


 レアが部屋を出ようとしたとき、ふと窓辺の黒薔薇に目が留まった。漆黒の花びらが、朝日を受けて微かに揺れている。


 「リリア様…」心の中で呟いた。「私たちが、あなたの物語を継承します」


 扉を閉めたレアは、今日初めて、自分の部屋への階段を上がらなかった。代わりに、館の裏庭へと向かった。


 ヘルマンの言っていた古い温室を見るために。


 裏庭は朝の光に包まれ、露が草の上に輝いていた。人気のない庭の奥、低い石壁に囲まれた一角に、ガラスと鉄骨でできた小さな温室があった。長い間使われた形跡はなく、ガラスの一部には蔦が絡みつき、内部は薄暗く見える。


 近づくと、扉は固く閉ざされていたが、鍵はかかっていなかった。中に入ると、埃と古い土の匂いが鼻をつく。棚には古い植木鉢が並び、床には落ち葉が散っていた。


 だが、奇妙なことに、温室の中央には既に土が盛られた場所があった。まるで、誰かが黒薔薇のために準備していたかのように。


 「ここが…黒薔薇の新しい場所」


 レアは温室の中を歩き回った。小さいながらも、不思議と居心地の良い空間。朝日がガラス越しに差し込み、温室内を優しく暖めている。


 「整えなければ」彼女は決意した。


 時間を忘れるほど、レアは温室の掃除に没頭した。埃を拭き、落ち葉を集め、古い植木鉢を整理する。黒薔薇のための最高の場所にするために。


 作業の途中、ふと振り返ると、温室の入口にセリアが立っていた。


 「見つけたわね」彼女は微笑んだ。


 「はい。黒薔薇のために、準備しています」


 「手伝うわ」セリアは袖をまくり上げた。「継承者として、これも私たちの仕事よ」


 二人は言葉少なに作業を続けた。温室が少しずつ生気を取り戻していく様子は、まるで物語が紡ぎ直されていくようだった。


 「明日、黒薔薇をここに植えましょう」作業を終えたセリアが言った。「今日は休息が必要よ」


 レアは頷いた。疲れていたが、心は晴れやかだった。


 館に戻る途中、二人は東棟の窓から見える景色に足を止めた。朝日に照らされた庭と、その先に広がる森。そして、はるか遠くに見える丘陵地帯。


 「リリア様は今、どこにいるのでしょうか」レアがつぶやいた。


 「どこにでも」セリアは空を見上げた。「そして、どこにもいない」


 その言葉に、レアは静かに頷いた。


 消えるということは、存在しなくなるということではない。記憶の中に、物語の中に、そして彼ら継承者の中に、リリア様は確かに生き続けている。


 「明日から、私たちの物語が始まる」セリアが言った。


 「はい」レアは自分の中に新たな決意が湧き上がるのを感じた。「黒薔薇の継承者として」


 二人が館の中に戻ろうとしたとき、レアはふと立ち止まり、振り返った。


 一瞬だけ、廊下の端に黒い影が見えたような気がした。けれど、よく見ると何もない。


 「どうしたの?」セリアが尋ねた。


 「いいえ…」レアは首を振った。「気のせいです」


 だが、彼女の心の奥では、リリア様の存在がまだ完全には消えていないことを、どこかで感じていた。物語はまだ終わっていない。本当の意味での継承は、これからなのだ。


 館の中に吸い込まれるように入っていく二人の背中を、朝日が優しく照らしていた。

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