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第1話 紋章なき影

 雪は静かに積もり続けていた。


 レアの指先が窓ガラスに触れる。冷たい。外の世界と内側の温度差が、あまりにも明確だった。


 思えば終わりは唐突だった。あの日、リリア様は書斎で書き物をしていた。静かに、静かに筆を走らせていた。「誰も私の物語を読まないでしょうね」と微笑んだその翌日、彼女の姿はどこにもなかった。


 館の中から彼女の存在が消えただけではない。誰もが彼女を忘れたかのように振る舞い始めたのだ。


 窓の向こうでは、新しい住人の到着を告げる馬車が雪原を走っていた。今日から、この部屋には新しい主人が住むことになる。エルネスト侯爵の姪、セリアという娘だ。


「これでいいのでしょうか」


 誰に問いかけるでもなく、レアは独り言を口にした。その言葉は部屋の空気に溶け込み、跡形もなく消えていった。


 彼女はリリア様の部屋に立っていた。かつての主人の痕跡は徹底的に取り除かれ、新しい住人を迎える準備が整えられている。けれど、レアの記憶だけは誰にも奪えない。


「失礼、レアさん」


 振り返ると、ドアの外に館の執事ヘルマンが立っていた。厳格な表情で、腕時計を確認している。


「セリア様がまもなく到着します。出迎えの準備を」


「はい」


 従順に頭を下げながら、レアは窓辺を離れる。リリア様を思い出すのは後にしよう。今は、新しい主人を迎える侍女として完璧に振る舞わなければならない。


 *


 雪は降り止んでいた。


 馬車が館の玄関前に停まる。レアを含めた使用人たちは整列して、新たな主人の到着を迎えた。


 馬車から降りたのは、十六ほどの少女だった。薄い青のドレスに身を包み、美しい金髪を緩やかにまとめている。顔立ちは整っていたが、どこか影のような存在感も漂わせていた。


「セリア・エルネスト様、ようこそお越しくださいました」


 ヘルマンが深々と頭を下げる。他の使用人たちもそれにならった。


「ありがとう」


 その声は、意外と芯があった。


「すぐに休息を取られますか。それとも、まずは館内をご案内いたしましょうか」


「部屋に案内してください。長旅で疲れましたので」


「かしこまりました。レア、セリア様をお部屋へ」


 指名されたレアは一歩前に出た。


「こちらへ、セリア様」


 彼女は丁寧に頭を下げ、館の中へと案内を始めた。


 階段を上り、廊下を進む間、セリアの視線はレアの背中に刺さったまま動かなかった。まるで何かを確かめるように。


「あなたは前からこの館にいるの?」


 突然の問いに、レアは足を止めた。


「はい。この館で生まれ育ちました」


「そう」


 セリアは周囲を見回した。


「この館は大きいのね。誰が住んでいるの?」


「エルネスト侯爵様、そしてご令嬢のミランダ様です。侯爵様はほとんど都におられますが」


 セリアは何かを考えるように少し黙り、それから微笑んだ。


「他にはいないの?」


 その問いに、レアの心臓が一拍分、鳴りを潜めた。


「いいえ。他には…」


 言葉が途切れる。リリア様の名を口にするべきか。しかし、彼女を知る者はもういない。それどころか、彼女が存在したという事実すら、誰も認めようとしない。


「他には、特別な方はいらっしゃいません」


 セリアは長く彼女を見つめたが、やがて頷いた。


「そう。分かったわ」


 レアはようやく歩き出し、階段の最上階へと案内を続けた。かつてリリア様が住んでいた部屋の前で立ち止まる。


「こちらがお部屋です」


 ドアを開けると、整えられた室内が広がっていた。大きな窓からは雪景色が見え、暖炉には火が入れられている。


 セリアはゆっくりと室内を歩き回り、あらゆるものに触れていった。カーテン、寝台のシーツ、机の表面。まるで何かを探るようだった。


「この部屋、前には誰が使っていたの?」


 その質問で、レアの指先が微かに震えた。


「特に…どなたも」


 嘘だった。ここはリリア様の部屋だった。毎朝窓を開け、彼女が暖かな日差しを浴びるのを見守った場所。夜には書き物をする彼女のために灯りを調整した部屋。


「嘘ね」


 セリアの言葉は冷たかった。レアの視線が驚きとともに上がる。


「この部屋には、まだ誰かの気配が残っているわ」


 彼女は窓辺に立ち、外を見た。その背中は小柄ながらも、どこか強さを秘めていた。


「でも、いいの。秘密があっていい。みんな何かを隠しているものだから」


 振り返ったセリアの表情は、再び柔らかくなっていた。


「あなたは私の侍女になるの?」


「はい。ヘルマンからそう言われております」


「良かった。あなた、私の気に入ったわ」


 セリアはそう言って微笑み、窓際の小さな机へと歩み寄った。その上に置かれていた古い本に手を伸ばす。


「この本は?」


 レアは驚いた。その本は見覚えがなかった。リリア様の持ち物でもなかったはずだ。黒い革製の表紙に、バラの浮き彫りが施されている。


「申し訳ありません、存じ上げません」


 セリアは本を開いた。「面白いわ」と呟き、頁をめくる。「美しい筆跡ね」


「何が書かれているのですか?」


「『黒薔薇の館で、私は初めて自由を知った』と書いてあるわ」


 セリアが本をレアの方へと差し出した。


「読んでみる?」


 本を受け取り、頁を見つめる。だが、レアの目には奇妙なことに、文字が見えなかった。いや、文字らしきものは見えるのだが、焦点を合わせようとすると、それらが踊るように形を変えていく。読めない。


「文字は見えるのですが…読めないのです」


「へえ」セリアは興味なさげに肩をすくめた。「でも私には読めるわ」


 不思議なことだった。同じ本なのに、二人には異なって見えている。


「明日から荷物を運び入れるから、部屋をきれいにしておいてね」セリアは言った。「それと、この本は置いておくわ。面白そうだから、読んでみるから」


「はい」


 セリアが部屋を出て行った後、レアは窓辺に立った。館の雪化粧された庭を眺める。どこか寂しげな景色だった。


 ポケットから、リリア様が最後に残した紙片を取り出す。


『私の物語は、読まれることを拒んだ。だから誰も知らない。それでいい。けれど、あなただけには——』


 続きの言葉は千切れていた。あるいは最初から書かれていなかったのかもしれない。


 レアは決意した。リリア様の痕跡を探し、彼女の物語を紡がなければならない。誰にも読まれなかった物語を、自分だけは受け取らなければ。


 *


「明日から、この部屋に住むことになるのですか」


 レアは新しく到着した娘に尋ねた。


「そうよ」セリアの声には芯があった。「不満?」


「いいえ」レアは首を振った。「ただ…」


「ただ、何?」


 言葉を選びながら、レアは答えた。「この部屋には、まだ前の方の気配が残っているように思えて」


 セリアの視線が鋭くなった。彼女は部屋の中を見回し、やがて窓辺の机に足を進めた。


「前の人って、誰?」


「リリア様です。黒薔薇の紋章を持つ方で」


「聞いたことない名前ね」セリアは机の引き出しに手をかけた。「この館に黒薔薇の家系なんているの?」


 レアの眉が寄る。「リリア様はこの館の主人の一人でした。エルネスト侯爵の…」


 言葉が詰まった。リリアはエルネスト侯爵の何だったのだろう。娘?姪?それとも縁戚の者だったのだろうか。急に思い出せなくなった。


 セリアがクスリと笑う。「混乱してる?私はエルネスト伯父さまの姪よ。一人娘のミランダの従姉妹にあたるわ」


「ミランダ様…」


 そう、館には確かにミランダという娘がいた。けれど、リリアはどこに位置づけられるのだろう。記憶が曖昧になる。


「あなた、体調悪いの?」セリアが近づいてきた。「顔色が悪いわよ」


「大丈夫です」レアは強く頷いた。「少し疲れているだけで」


 セリアはレアの顔をじっと見つめてから、ふっと表情を和らげた。「私の世話、よろしくね」


「はい、セリア様」


「それと」セリアは窓際に置かれていた黒い革表紙の本を手に取った。「この部屋の本は、全部私のものになるの?」


「その本は…」


「何?」セリアが首を傾げた。


 言葉が喉につかえる。あの本は見覚えがあるような気がする。リリアがいつも大切にしていた本。けれど、その記憶も確かではなくなっていた。


「特に何でもありません」レアは微笑みを作った。「お好きにお使いください」


 セリアは本を開いたが、すぐに閉じた。「全部、文字で埋まってるわ」


「え?」


「きれいな字ね。誰が書いたの?」


 レアは息を呑んだ。すべての本は彼女には空白に見えていた。同じ本なのだろうか。違う本なのか。


「見せていただけますか?」


「いいわよ」


 セリアから本を受け取り、開いてみる。確かに、ページは何かで埋め尽くされていた。けれど——読めない。文字は確かにそこにあるのに、目を凝らすと霞んでいく。焦点が合わない。


「何が書いてあるの?」セリアが覗き込んだ。


「わかりません」正直に答えた。「文字は見えるのですが…読めないのです」


「へえ」セリアは肩をすくめた。「でも私には読めるわ。『黒薔薇の館で、私は初めて自由を知った』って書いてあるわ」


 本を返されたレアは、もう一度ページを見つめた。やはり読めない。文字が踊るように、視界の中で形を変えていく。


 夕方、レアは自室に戻っていた。小さな部屋だが、彼女には十分だった。窓から差し込む夕日の光が、床に長い影を落としている。


 机の上には、リリア様から受け取った紙片が置かれていた。


『私の物語は、読まれることを拒んだ。だから誰も知らない。それでいい。けれど、あなただけには——』


 その切れた言葉の先には、どんな思いが込められていたのだろう。


 レアは考え込んだ。リリア様は確かに存在していた。彼女の記憶はそれを証明している。だが、今や館の誰もが彼女を忘れている——いや、忘れたふりをしている。


 そして、セリアという少女。彼女は何かを知っているようだった。あの黒い革表紙の本。それはリリア様のものだったのか。なぜセリアには読めて、レアには読めないのか。


「リリア様、あなたはどこに…」


 窓の外に目をやると、雪が再び降り始めていた。白い結晶が静かに舞い落ち、館の庭を覆っていく。


 レアは決意した。リリア様の物語を紡ぎ直すために、手がかりを集めなければならない。誰もが忘れた、あるいは忘れたふりをしている物語を。


 明日から新しい主人に仕える日々が始まる。けれど、その影で彼女の密かな探索も始まるのだ。


 黒薔薇の紋章を持つリリア様は確かに存在していた。そして彼女には、伝えたかった言葉があった。


『私の物語は、読まれることを拒んだ。だから誰も知らない。それでいい。けれど、あなただけには——』


 あなただけには——何を伝えたかったのだろう。


 雪は静かに、館の秘密を覆い隠すように降り続けていた。

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