03. 真実
どれだけの時を、共に過ごしただろう。
どれだけの言葉を、想いを交わしてきただろう。
だからこそ、赦せなかった。
彼の裏切りが、きっと、他の誰の裏切りよりも、私を深く絶望に落とした。
要らなくなって捨てるつもりならば、名など呼んでくれなければ良かったのに。
* * * *
―――私は死んだ?
あの時首を掻き切って、全てを終わらせたはず。
食い込む刃の冷たさや、皮膚を切り裂いた直線の熱さを、こんなにもはっきりと覚えている。傾いて行く視界や、地面に身体を打ちつけた、あの音のない衝撃さえも。
なのに何故、私はここにいるのかしら?
あの日のまま、何も変わらない私。夢をみているかのように、不確かな感覚しか得られない足で、どこともなく彷徨い続ける。
何処に行きたいわけでもない。もう、逢いたい人がいるわけでもないのに。
命を絶ったというのに、あやふやなまま存在し続ける私のことなど、もう誰の意識を掠りもしないだろう。
……いいえ、居た。
あの子。
あの子が―――――あの妹も、どこかに居る。
感じる。ただ、まだあの子もここに〈居る〉のだということだけを。
皮肉だわ。そう感じとってしまうのは、あの子が私の片割れだからなのかしら。
共に生を受けた双子を二人で一つの存在とするならば……、
あの子は、私。
私は―――あの子。
私が未だ現世に居るのは、あの子がまだ居るせいなの?
死んで、全部終わらせたと思った。こんな苦しい想いから解放されて、今度こそ自由になって、独りきり、心地よい闇に包まれて眠りに就きたかった。
苦しい。
痛い。
辛い。
寂しい。
―――――だれか……助けて。
誰にも届かない、声なき言葉。
苦しみに喘ぐ私の姿さえ、きっと誰の眼にも映ってはいない。
死した者の魂は、女神の楽園へと導かれるのだという。だとすれば、未だ楽園はおろか、常闇の安らぎすら与えられず、この世に縛り続けられている私は、今罰を受けているというのだろうか。
……嫌だ。嫌だ、嫌だ!
終わらせて!
お願いだから、私を消して!
どうすればいい? どうすれば絶ち切ることが出来る?
私を現世に繋ぎとめている楔―――片割れのあの妹を消してしまえば、今度こそ私は私を辞めることが出来るかしら。
消さなきゃ。
あの子を探して、今度こそちゃんと、私たちを殺さなきゃ。
あの子を見つけることは、簡単だった。
栗色の長い髪、白い肌を持った娘。私たちの姿にどこか似ている、そんな女の傍に、あの子はいつも居た。
「姉さまぁ」
見知らぬ少女を、私だと呼ぶ。
何も知らない私に似た少女に、私たちの記憶―――〈夢〉を見せ、堕とし、その魂と身体を絡め取ろうとする。
恍惚とした表情で、私でない私に肢体を這わせる、醜悪な女。
その女に我が身を許すあの少女たちは、私自身?
……だったら、消さなきゃ。
一人、二人、三人……十五人、十六人……二十二、二十三。
幾度となく、妹に取り込まれた〈私〉を屠り続けて己を血に浸しても、〈私〉は留め処なく湧いてくる。
いつまで続ければいい?
円環のような、地獄。どれだけ〈私〉を殺せば、私は私から逃げられるの?
ここから出して。
誰か。
誰か。
誰か――――たすけて……おねガイ…………
それが幾つ目の〈私〉だったのかは、もう分からなかった。
それを壊そうとした日、あの男が―――彼が、目の前に現れた。
私の全身を戒める、銀の鎖。
なんで? どうして、邪魔をするの?
動けなきゃ、そこにいる〈私〉を殺せない。
私を殺さなきゃ、死ななくちゃ、私、逃げられないじゃない!
誰にも見つめて貰えない〈私〉から。
誰にも愛して貰えない〈私〉から。
貴方に捨てられた〈私〉から。
どんなに裏切られても、それでもまだ―――貴方を憎みきれない……愛してしまう、愚かな〈私〉から………。
『涙を素直に流せないひとは、苦しみや悲しみを心の外に流す術を知らないから、他のひとよりずっとたくさんの辛さを抱えてしまうんだよ』
だから泣いて、と私を抱きしめてくれたのは、貴方。
逃れるために終わらせたい、ただそれだけの私の渇望を、貴方はきっと理解しているはず。
前に聞かせてくれた、貴方の力の話。世界を変えることさえ出来るその力があれば、私の望みを叶えることなど、容易いでしょう?
……なのに何故、その力で私を戒め、封じようとしているの?
泉のほとりに建てられた、まるで墓標のような石碑。ちょうどその場所で、水面で煌めく月光を浴びながら、私たちは逢瀬を重ねていた。
幸せだったあの頃。
今、そんな思い出などなかったかのように、記憶に刻まれたその場所で、永久に続くような冷たい夜の中に、貴方は私を閉じ込めようとしている。
癒えぬと知っているはずの、心の傷。
ならば貴方は私に、増してゆくだけのこの痛みの中に、ずっと魂を浸しておけというの?
―――また、裏切るのね。
―――また、私を捨てるのね。
「―――赦さない……」
赦しはしない。
全てを奪っていった、あの子を。
そして……貴方を。
最期の瞬間、彼を見た。
彼は――――……
彼は、泣いていた。
「―――レイファーナ」
白銀の光が止み、沈黙を取り戻した石碑。その前で力尽きたように膝をつき、涙を流し、彼は恋人の名を呼ぶ。
……何故、こうなってしまったのだろう。
神の堕し児と呼ばれた彼を、初めて愛してくれた女性。
時間を共にすることが許されなくても、心だけはずっと、彼女と共にあろうと誓っていた。だが……。
レイファーナを封じた冷たい石のほとりには、止まってしまった彼女の時間に沿うように、静かな泉が水を湛えていた。幾度も、逢瀬を重ねる恋人たちの姿を映した水鏡には、この先もう、愛おしい彼女の姿を見ることも出来ない。
――――彼女が眠る、この場所を護ろう。せめて、何人にも蹂躙されぬよう。
経ちゆく時の流れに彼女の心が癒され、石から解き放たれたとき、また再び出逢うために。
それまで、彼女を護ろう。
……今度こそ。
凍えた石碑を抱き、彼は彼女の名を呼び続けた。
――――ずっと……。