01. 恋人
聖地を捨てよう。
意を決してそう打ち明けたら、彼女は彼の額を指で弾いた。
「~~~~~~~ッ!」
細くしなやかな指から放たれたとは思えぬほどの、凄まじい威力。
手加減知らずの攻撃に声なき悲鳴を上げ、額を押さえて涙目で蹲る。そんな彼の肩に手を置き、彼女はにっこり微笑んだ。
「もう、おバカさんね。箱入り息子のクセに」
笑顔で酷いことを言う。
「外の世界は、そんなに甘くないのよ? 逃亡生活って、結構お金が掛るんだから」
「金なら、屋敷から持ち出せば、何とか……」
「そんなのすぐに無くなっちゃうわよ。そのあと、どうするの? 神殿以外で働いたことなんてないでしょ。住むところもないから野宿? あなた、屋根のない所で寝れる?」
「出来ないことは……」
「無理ね、無理。絶ッ対! 生まれてこのかた、絹の寝具でしか寝たことがないくせに。食事は? あなた、狩りなんて出来たかしら? 出来ないでしょ。頭と顔はいいけど、運動神経は破滅的だものねー。山菜もいいけど、あたし、お肉とお菓子のない生活は断固拒否だから」
「………」
その後も連射され続ける、殺人ナイフのような妻の指摘に、ささやかな反撃の糸口ですら見出せない。
愛する夫をベコベコにへこませて黙らせることに成功した彼女は、ふぅっ、とばかりに満足げな息を吐いて腕を組み、
「どう? わかったら、今さら駆け落ちだなんて言い出さないの。さっさと諦めなさい」
苦笑を含んだ、でも底抜けに明るい優しい目の色で、彼を仰ぎ見た。
「―――だがっ! このままここに留まれば、君がどんな辛い目に合うか。それに、この子も……」
そう苦しげに言いながら、彼は布張りの椅子に腰掛ける彼女の腹部に、そっと触れた。
時をかけて、少しずつ膨らんできた腹。
いま、そこに宿っているのは、彼と彼女が紡いだ、慈しむべき新しい命。
「何の罪もない君を、この地に無理やり縛りつけて、利用して……赦されることじゃない。君に対して、あまりに酷い罪を重ねてきたと、思っている」
「あなたがそうしたわけじゃないでしょ」
「同じことだ」
一族を―――――父を、止めることも諌めることも出来なかった。
幼い日、この聖地に無理やり連れて来られた彼女。
その血を得る権利を公平に決すために行われた儀式、そして、それに勝利した彼の血族。
今日までに、彼女という存在を、自分たちはどれだけ踏み躙って来ただろう。その尊厳も、自由も与えぬままに束縛し、自らの利のために、今なお彼女の人生を喰い潰している。
いくら懺悔しても、し切れない。
彼女が赦しを与えても、きっとこの先、彼自身が自分を赦す日は来ないだろう。
「本当は、君を望むべきじゃなかった。あの父の息子である私に、そんな権利はないのに」
「………アル……」
「でも、それでも……私は………」
手を伸ばさずには、いられなかった。
―――この世界に生まれてきた。
そのとき、他者が持ち得ぬ力を得ていた、そのほんの少しの運命の差異で、何故、彼女はこれほどまでに〈世界〉に拒絶されなければならなかったのか。
彼女の何処に、罪がある?
その存在を廃絶しようと襲い来る悪意の波にも、全てを搾取しようと伸ばされる穢れた手にも、真にその身を堕とすことはなく、背を伸ばし、凛と前を見据える横顔。
曇ることのない笑顔。
あたたかな、陽の光のような人。
罪悪感から抱いていたはずの同情は、畏敬や憧憬、親愛に代わり、そして、それはいつのまにか、狂おしい程の愛おしさへと姿を変え――――。
「君に……この子に、もしものことがあれば……」
きっと、生きては行けない。
「……バカね」
彼女はそっと笑って、腹に触れる彼の手に白い手を重ねた。彼を引き寄せ、その頭を包み込むように抱きかかえる。
柔らかな胸の向こうに聞こえる、彼女の鼓動。
「あたしは、ここに来たことを後悔したことなんてないわ」
抱かれた頭に響く、愛しい声。
「だって、あなたに逢えたんだもの」
頬に押しつけられた、彼の大好きな栗色の髪が、甘く優しく香る。
「リティシア……」
名を呼び顔を上げると、そっと、彼の額に口付けが落とされた。
「ねぇ、アル。素敵なこと、聞きたい?」
とっておきの宝物の在り処を打ち明ける子供のような、無邪気な密めき。
まだ、誰にも内緒よ、と唇に人差し指を当てた彼女は、翡翠の瞳を細めて、言う。
「この子はね、きっと、女の子よ。間違いなく」
え、と驚く彼に、彼女はあたたかで幸福そうな笑みを咲かせた。
「あなたは、この子を幸せにしてくれるわ。―――――だって、あたしが……」