05. 病葉
「姿勢を正し、面を天へ向けよ。
その足にて、高みを臨め。
譬え、幾多の血肉に裳の裾を穢そうとも」
彼女は、選ばれて生まれてきた人間だった。
翡翠の王冠の如き、艶やかな黒髪。透き通るような粉雪の肌に色付く、甘い果実のような口唇。綺羅を含んだ灰宝玉の如き双眸。
他に追随を許さぬその美貌を、周りの者たちは褒めそやす。
まるで、女神の娘であるかのよう。
これぞ、生まれながらに与えられた、女神の愛の証であろう。
まさに、我が一族の神子姫に相応しい。
この世に生まれ出でた時より備えていた麗しさと、高い練祈の力。
当然のように据えられた、一族の姫君としての頂点の座。
与えられる何もかもが、特別だった。
姿勢を正すことがなくとも天へと押し上げられ、皆の面が、下から彼女を仰ぎ見る。足で階を踏むことなく、高みに座した。美しい肢体に纏った極上の衣裳は、穢れることを知らない。
民が跪く上に流れる血脈に生を受けた、神の愛ぐし児たる選ばれた娘として、自らを囲むすべての者から賞賛を浴びる。
それが、彼女の世界の、当り前だった。
だけれど―――――………
「―――どうして! なんで、いつもあの娘だけ!」
ユイシェルは痛む頬を押さえながら、暗い空き部屋の隅に蹲った。
『お前は、フォンダムの面汚しだ――――!』
吐き捨てられた罵倒。
先ほど、気紛れのようにやって来た公師である叔父は、そう言って彼女を打った。
何か、気に入らないことでもあったのだろう。でもどうせ、大したことではない。些細なことで自尊心を害されたと憤る、醜い叔父。
あれでも、彼女が幼い頃は、もっと優しく接してくれていた。
当主という地位に在りながら自身に子がなかったせいか、優れた容姿と能力を兼ね備えた姪を、ジオラルムは殊のほか可愛がっていたのだ。
――――三年前の、あの日までは。
悔しさに涙が滲む。
一面、蒼穹で埋め尽くされた、神殿の最奥宮に立たされたあの日。
一列に並べられた、ユイシェルを含む四人の神子姫候補たちを見下ろすように、壇上に佇んでいた、乙女。
春そのものを化現したかのような、薄紅の衣を纏った彼女の、その華色に染め抜かれた指先が、まるで祝福を齎すかのようにあの娘の額に触れた瞬間――――フォンダムの宝玉として柔布に包まれてきたユイシェルの全てが、音を響かせて叩き割られた。
同じ年に生まれた他家の少女が、最高の玉座を与えられた。その半年後に、砕けた珠の少女は、朽ち葉色の指先による洗礼を、その額に受けた。
紅爛の巫女姫は、秋の神子姫。
三番目の神子姫。
木々の枝に咲き誇る花でなく、地に落ち朽ち果てて、いずれ誰もの足に踏み躙られるだけの、末枯れた病葉。
なのに、あの子は春。薄紅の白に咲き誇る、華鏡の神子姫。
朝日の中で軽やかに風に舞う、花色の薄衣裳。あれを纏うのは、私だったはず。なのに、光の世界に進む背中を、暗い神殿の中から眩しそうに見つめなければならないのは、何故?
白い爪先に踏み付けにされた屍のごとく、今この身に纏う衣裳が紅く染め抜かれているのは、どうして?
いくら背を正そうとしても、押さえつけて来る幾多の手はそれを赦さず、空を仰ぎ見ることすら叶わない。どれだけ裳の裾を引き裂き、汚辱に身を浸そうとも、天上より差し降ろされた階は、彼女が片足を乗せることすら拒む。
ユイシェル・フォンダムは、選ばれて生まれてきた人間だった。
確かに、そうだった。
しかし、生まれたのち、選ばれる人間ではなかった。
類稀な美貌と、稀有な癒しの力。
どちらも、二つとして望めるものでないことは同じなのに。
……あの娘と私の、何がそんなに違うというの?
「あの娘なんて……。あの娘さえいなかったら!」
愛でられる白花と、打ち捨てられる紅の宝玉。
あの娘さえいなければ、こんなふうに、死した木々の残骸に埋もれることもなかった。
「いなくなればいい」
ぽつりと、乾いた唇から零れた言葉。
人気のない、暗い部屋に落とされたはずのその音に、
―――そうね。……分かるわ、貴女の気持ち。
闇色の音程が応える。
「あの娘が、いなくなってしまえば」
―――そう。いなくなってしまえばいい。
「あんな娘なんて、いらない」
―――これ以上、私から何かを奪うなんて、赦せない。
「マーセルなんて、この世から消えてしまえばいいッ!」
―――だったら、消してしまいましょう?
伸ばされる凍えた腕。
蹲る少女の身体を魂ごと包むように、女は闇で抱きしめた。
堕ちた生者の鼓動。それを背越しに胸元に感じながら、暗く明るい微笑を刷く。
―――大丈夫、簡単だもの。
■ □ ■ □ ■
―――――――――いやアァあァアァあぁああァアアあァぁぁッ!
鼓膜を割るような、絶叫。
「な、何? 何ですの!?」
突然、小さな神殿の空気を引き裂いた甲高い女の悲鳴に、マリー=ベルだけでなく、全員が身を固くした。
ただ一人、ルカイスだけが、弾かれたように背後の天使像を振り返る。
二体の天使像。
そのうち、悲しみにくれた乙女の像が銀色の光を放ち、啼いていた。
ルカイスはすぐさま魔導陣を解き、像へと駆け寄る。
「……見つけたのか?」
像を手にし、物言わぬ乙女に問い掛けるように、震えを帯びた声でそう呟いた。
そのまま、耳を澄ますように閉じられた瞼。
しばしの無音ののち、急に、目を見開く。
「そんな、馬鹿な……」
「は? さっきから、何を………」
様子をいぶかしむ魔導士の言葉は、もはやルカイスの意識から完全に弾かれた。血相を変え、扉へと向けて床を蹴る。
「―――――マーセルッ!」
「お、おい? そんな怪我で、どこへ……」
「うるさい! 離せ!」
すれ違い様に肩を摑んだウィード=セルを、ルカイスは激しく睨み上げた。
夜色の瞳に灯った、それまでにない強い怒りに、魔導士は、思わず手を離す。
解放された少年は、二体の像を摑んだまま、脇目も振らず飛び出して行った。
「ねぇ、ウィード=セル」
「……何だい?」
茫然と、退場していった少年の背を見送っていた主に、銀色の従者は問う。
「あの像が、なんて言ってたのか分かる? 僕、結構長い間生きてきたけど、残念ながら、まだ人形遊びの経験はないんだよね」
「お、俺だってあるわけないだろっ。とういか、経験があっても、分かるはずないだろぉ?」
「まあ、正論かな」
「……そんなことより、どうするんだよ、これ!」
情けない声音で嘆くウィード=セルの右手には、未だ展開されたままの魔導陣。無駄にキラキラと眩い光を放ちながら、威厳たっぷりにクルクルと回っている。
「張り切って、最高レベルのを出したのに!? 解除するのに、どれだけ手間が……」
「……その辺に、適当に解放しちゃえば?」
「何言ってるんだ! ご近所迷惑なヤツめ。魔術を扱う者として、それ相応のモラルをだなぁ……!」
「だぁ~ったら、ご自分の頭にでも、ぶつけておしまいなさいなッ!」
ウィード=セルが持論をぶちまける前に、彼の後頭部に、マリー=ベルの靴底が炸裂した。
2010.11.01 加筆修正しました。