04. ヨルと闇の対話
その男を、〈悪魔〉と呼ぶ者もあれば、〈神〉と呼ぶ者もいた。
ただ等しく、人は男の力に恐怖し、忌み嫌い、その存在を否定した。
それでも、女は男を愛した。
だから、男の、子を産んだ。
男が、真に忌まわしい者でも構わない。
世界が男を否定しても、女は彼を愛していた。
――――――だが。
男の骸を前に、女の時間は止まった。
男の命を断ったのは、女の父。
女は、彼と自分の愛し子を腕に、絶望に堕ちる。
母に抱かれた稚い子供には、死が理解できなかったのだろう。
緩んだ女の腕から飛び出し、凍える石床に打ち捨てられた父親の前で、子は膝を突いた。
二度と起き上がることのない男の身体を、小さな腕が揺り動かす。男を中心に床に咲いた紅が、さらに大きく華を描く。
命を奪った胸の傷。
父親が「痛そう」だと、ただ単純に、子供ながらに思ったのかもしれない。
幼子は、男の傷口に小さな手を当てた。
その、幼い手の平から生まれた、白い光。
たちどころに癒えゆく、死の傷口。
その場にいた者、全てが驚愕した。
それは、男ではなく、女に連なる力。
でも、彼女とは比較にならないほどの、大きな力。
「……そうか。彼の力を持つ血の流れは、このような作用を齎すのか」
低く、暗い歓喜の震えを含んだ父の声音が、耳朶を打つ。
女は、傷を癒されてなお横たわり永久に動かない男と、我が子を絶望の眼差しで見つめた。
彼女は思った。
――――――――『この世に、神などいない』、と。
女の名は、エルヴェイダ。
原初の巫女を産み落とし、聖地エルヴェルクの根本を築きあげた、後に聖人と呼ばれる女。
今より、およそ二千四百年前の語りである。
■ □ ■ □ ■ □
「貴方たちが神だ、悪魔だと云われてきたのは、魔術でも錬祈でもない異質の、しかも、圧倒的な破壊事象を引き起こす能力を有するからだ」
それは、恰も高等学舎の講義の場であるかのように。
「様々な記述や伝聞から、導き出せるその力の本質……それは、物質を構成する要に干渉し、性質を改変する能力。そうじゃありませんか?」
そう問うた赤眼鏡の魔導士は、夜色の少年の足元に並べられた、二体の天使像に視線を向けた。
消えない燐光を纏う乙女たちは、ウィード=セルの言葉を肯定するが如く、淡い光の鼓動を繰り返している。
「魔術も錬祈術も、根本の原理は同じ。ま、神殿は絶対に、それを認めやしないでしょうがねぇ」
その手順は異なれど、魔術と錬祈術は現世の〈マナ〉を代価に、異界から同等に値する混沌の断片を導き入れる法。
「でも神の堕し児……〈世界に触れたる者〉である貴方たちは、その枠組みから外れている。貴方たちは、マナの消費を必要としない。そこに在るものを、ただ作り変えるだけなのだから、力の発動に制限も制約もない。全てが物質で構成されているこの世で、不可能はないともいえますねぇ」
―――――そう。この〈世界〉は、壮大な積み木細工だ。
色を持った積み木を組み替えてやれば、どんな変化をも与えられる。何かを創造することも…………崩し壊することも。
積み木の断片でないものなど、この世には存在しない。それに触れる手―――世界を改編する〈弦〉に触れ、上手く爪弾きさえすれば、あらゆるモノに干渉することが出来る。
常人には捉え解することの叶わない、例えばそう―――――……、
「……無論、俗に〈霊〉と呼ばれる存在も然り」
現に遺されし、死した者の意思――――〈霊〉。
ウィード=セルは興味深そうに、ルカイスの背後の祭壇に居並ぶ像の群を眺め回した。
「人間の精神のみが、この現世に存在するなんてこと、実際に目にしたことがなければ信じられない現象ですがね」
言外に、その存在を肯定した。
緊張から音を立てそうになる奥歯を噛締め、必死に無表情を保ちながらも、ルカイスはそのことに少なからず驚いた。
「魔導分野からのみても、霊魂研究は解明されていないことばかりで、その存在を定義できる確かな定説は未だ存在しない。だけど、ただ一つ、明確にされていること。それは、マナが多い場所では、霊象が発生する確立が非常に高いということです。…………ふむ。神殿の教えでは、死した人の魂は楽園に導かれるんでしたっけ?」
「………」
彼の言わんとすること。
「ここは聖地だ。他の場所と比べて、マナの発生量は破格。 ……ここの連中にとって、貴方はさぞかし、有益な存在だったでしょうね」
……その通りだった。
遥か昔、神の名でもって、神殿によって押さえられたマナの要所。それが、〈聖地〉。
大地から豊富に湧き出るマナは、莫大な利益をもたらすと同時に、数多くの弊害をも生み出した。
その一つが、霊場の形成。
死した生き物の意思―――〈魂〉と呼ばれるそれは、通常、この世に留まることなく霧散、いずこかへと去り逝く。
だが、世界に揺ゆたうマナは、ごく稀に例外を生む。
強い思念を抱えたまま、死した魂。その想いがマナを呼び、器とするのか。その意思は〈霊魂〉と呼ばれる存在として、この世に留まる。
この事実は、神殿にとって致命的な問題だった。
死せる魂は、女神の手によって救済、浄化され、至上の楽園へと導かれる―――その絶対的な教義に、反しているのだから。
マナは通常、人の目に映らない。
よって、それで構成された霊魂も、特異な状況下でなければ、その姿を目視することは適わない。
死せる魂の声を聴き、現世のものではない姿をとらえる。それが完全に可能なのは、神の領域を侵す悪魔、神の堕し児、白銀の背徳者と怖れられる<奏弦の徒>だけ―――――――。
『―――――これは、ここに居場所を望んだ、お前に課せられる対価だ』
あの日、幼い小さな手に載せられた、家紋を象る黒い房飾り。
それと引き換えに、与えられた言葉。
ルカイスだけではない。かつて、彼のようにこの街に連れて来られた奏弦の力を持つものたちは、常人では手の打ち様がない霊象を治めて来た。
この祭壇に残された像は、その遺産。
全ての像に、〈物質干渉能力〉を用いて定着させ、封じ込めた霊魂が宿っている。
「この聖地の神殿が、秘密裏にとはいえ本山の意向に反することを理解した上で異端である貴方をここに留めているのは、その力を利用するため……かな。まぁ、あとは、その有益な能力を宿す血を、自らの血統に取り込むため、と言ったところですかね?」
それもある。
だが、それだけではない。
奏弦の血。
それは、錬祈力を持つ者の血と交わることで、次世代の錬祈力を飛躍的に高める。
最初に証明されたのは、遙か昔。
聖地としての誇りを保つため、エルヴェルクは何千年もに渡り、背徳者の血を取り入れ続けて来た。 その作用の原理は、明らかにされないままに。
「どちらにせよ、神殿の立場をとるエルヴェルクとしては、この事実は最大の極秘事項でしょうね。世間にバレたらコトだ。そうじゃありませんか?」
〈神の堕し児〉は、女神が創造した世界の調和を破壊する者として、魔導士以上に忌否されるべき存在。
自らの勢力を保つためとは言え、彼らを取り込むことは、エルヴェルクにとっては危険な賭けだ。
――――――それに、
「血を混ぜること自体が、かなりのリスクを負う行為になるでしょうねぇ。とりあえず、子を宿した母体は、無事では済まないんじゃないかな?」
大きな力を持つ血は、時として毒となる。
異なる血が交わった時、それがもたらす負荷は―――すべて母体に。
たとえ無事、出産できたとしても、その先長くは生きられない。
血を捧げることを求められるルカイスにとって、その対象になるのは……、
『決まってるじゃないっ―――』
……そんなこと、言って欲しくなかった。
自分のせいで、彼女が死んでしまうなんて。耐えられないのは、こっちの方なのに。
分からなくていい。
僕のことなんて、知らなくてもいい。
いっそ、嫌ってしまえばいい。
身の内にあった大きな何かが、溶けかけた氷のように抜け落ちたような感覚に襲われ、ルカイスは床に膝をついた。
それは多分、この十年間、あの少女から貰い続けた、とても眩しくて暖かなもの。
せっかく分け与えて貰ったそれを、いつか、やはりこの手で壊してしまわなくてはならないことは分かっていた。得た時から、識っていた。
分かっていた。
識っていた。
それでも、ぜんぜん知らなかった。
失うものがなかった頃には、こんな痛み、無かったから。
あの頃は、孤独であることが一番恐ろしかったのに。なのに、今はそれさえ優しかったと思える。
「この場所に留まり、囲われ続けることが、貴方の望む道ですか?」
生まれながらに、この身に宿る力。
自分では御しきれない、身の内に抱え込むことすら出来ない、大きすぎる力。幼い日、制御出来ない力を持て余し、意に沿わぬものとはいえ、何人もの命を奪った。
壊すことしか知らず、世界の全てから否定され、忌み嫌われてきた。仕方がないと思っていた。
………なのに。
たった一人の言葉に、幸福で、心が震えた。
「俺たちと行きましょう」
闇を纏った魔導士から、夜色の少年に差し伸べられる手。
その手のひらを見下ろすルカイスの脳裏に、春に咲く白い花の名を貰った少女の声が駆ける。
『ルカは、ルカじゃない』
彼女は、そう言ってくれた。
赦してくれたのだ。
彼の指先が世界を変えるように、彼自身の在り方を変える必要はないのだと。
「――――ッと!」
走る、白銀の輝線。
鋭いその流れは、咄嗟にかわしたウィード=セルの頬を翳め、赤い筋を作る。
瞬間、ヒース=クラウンの小柄な体躯が、二人の間に割って入った。
彼は流れるような仕草で、懐から両手に細身の短剣を取り出す。鈍色の刀身と柄には、びっしりと施された細かい飾り彫り。
両手の内で、両の短剣が同時にくるりと翻される。それが合図だったかのように、短剣に刻み付けられた文様が青く光を滲ませた。
薄い硝子を割るような高い音と共に、短剣を中心に、光で構成された幾何学模様と、不可思議な文字の羅列が、無数の帯を展開する。
それは、一本の青い光の筋が走っただけかのように見えた。
「―――ッ!?」
ルカイスの脇腹で鮮血が散った。
切り裂かれた、白い上衣。急激に遅い来る激痛に、顔を歪める。
凶剣を揮ったヒース=クラウンは、音もなく軽やかに床面に降り立った。確かに、ルカイスを切りつけたはずの刃。だが、銀色の少年の手にある短剣は、全く血に汚れていない。
いぶかしむ間もなく、地を蹴った銀の少年が、再び舞うように双剣を揮って襲い来る。礼拝堂の闇に、青い光の線がうねりを走らせた。
ルカイスは漸く、少年の武器が何なのかを知った。
彼の身を切り裂いたのは、少年が手にする一対の短剣から放たれた、青い光の刃。
閃いた青光を弾くように、ルカイスの左手が空を裂く。重厚な発動の手ごたえとともに、彼を護るよう、半球状の盾を形作る白銀の文様壁が生まれた。
その途端、〈混沌〉と〈世界〉がぶつかり合う甲高い音とともに、身体ごとひっくり返りそうな衝撃が全身を襲う。
―――――速い!
塵を巻き上げるような身軽さで攻撃を繰り出す、ヒース=クラウンの圧倒的な戦闘能力に、ルカイスは戦慄した。
まるで大気の抵抗など無いかのような動きに、重力の支配から解き放たれているかのような跳躍。
左腕を切り裂かれ、膝をついた夜色の少年に、成り行きを見守っていたウィード=セルは、肩を竦めてみせた。
「無駄ですよ。いくら奏弦の徒とはいえ、貴方は人の身。〈レンダーナ〉であるヒース=クラウンに勝てはしない」
痛みに霞むルカイスの目に、ヒース=クラウンと、そして彼と全く同じ顔をしたマリー=ベルが映った。
……二人揃って、見えない。
生物が、その誕生と共に宿しているもの――――〈命の光〉とでも呼ぶべき、魂の輝きが。
なるほど、とウィード=セルの言葉を解する。
殺戮人形〈レンダーナ〉。
千年前の大静粛の折、圧倒的に人口が少ない魔導士陣営が導入した、魔導生態兵器。
魔導士が滅亡の道から逃れることが出来たのは、〈殺戮人形〉の力に拠るところが大きいと、歴史上評されている。
生身の、しかも対人的な戦闘経験のないルカイスに、太刀打ち出来るわけがない。
――――だが、それでも。
「それが、貴方の答えですか?」
自分を睨み上げるルカイスの瞳に、諦めの影がないのを見取り、ウィード=セルは問うた。
「この先も、神殿に飼われ続けていく。……貴方は、それで良いと?」
「……っ、……場所じゃないんだ」
動く度に、血が滲み零れるのがわかる。
脇腹の傷を抑えながら、ルカイスは両脚でしっかりと真っ直ぐに立った。
彼女を見ていたい。
声だって聞きたい。
………触れたい、と願う資格はない。
―――それでも、
「マーセルがいるから……ここに居たいんだ」
傍にいることだけは、赦されていたい。
だから……、
「――――僕は、行かない!」
そう言い放ち、真っ直ぐにウィード=セルを見据えると、ルカイスは改めて印を結んだ右手を前へ突き出した。
二人のレンダーナが主を護るように身を構えたが、それをウィ―ド=セルは片腕で制する。
「ここは、俺がお相手すべきでしょう?」
挑発ともとれる言葉とともに、指で複雑な印を結び、魔導士は両の腕を軽く交差させた。
「――――冥界と地と天を征す王国の聖者。汝、竜神を駆りて破滅に歓喜する者よ。汝が冠火、煌めき麗たる黄金を御柱に、御柱を剣に――……」
謳金律を吟じ、〈門〉を招く。
ウィード=セルの前に、黄金色の魔導陣が形成された。それと同時に、ルカイスの周囲にも、白銀の陣が展開を広げる。
魔導陣の解放。
その一瞬を待ち、二人は互いに視線を外さない。
しかし、唐突に。
張り詰めたその場の空気は、引き裂かれるような女の悲鳴によって破られた。