03. 花とヨル
母は、マーセルを産んですぐに亡くなったのだと聞いている。
幼い頃、父に構って貰った記憶は、無い。
「おとうさまは?」
「アルザス様はお仕事で、今日から、遠い町にお出かけになりましたよ」
「―――そう……」
五歳になったばかりのマーセルは、俯いたまま乳母に礼を言った。
子供の足には広すぎる屋敷を歩き、長すぎる階段を上る。ようやく自分の部屋に辿り着いて中に入ると、日の当たる白い窓辺に腰を下ろし、マーセルは膝を抱えた。
この部屋は広過ぎて、あまり好きじゃないけれど、大きなこの窓辺だけは気に入っていた。
今日も、開け放った窓から流れ込む風が、庭に咲く花の甘い香りを運ぶ。揺れる薄桃色のレースが、柔らかな日の光と共に小さな彼女の身体を包み込んでくれる。
暖かで優しい窓辺に慰められながら、マーセルは吐息のように呟いた。
「……しかたがないよね。おとうさまは、とってもお忙しいんだもん」
視線だけを窓の外に移す。正門に面した庭園の向こうには、空から舞い降りた純白の神鳥が翼を休めようとする姿にも似た、壮麗な大神殿が聳えている。
―――聖セルゼニザス神教。
かつて、この世界のすべてを無から創造したという、聖母神・リタ=ミリア=リア。
千年前、忌むべき暗黒の民族との間に起こった世界中を巻き込むほどの大戦の最中、清き人間を加護し、勝利へと導いたとされる聖母神は、今なお、世界中の人々から強い信仰を集めている。
彼の女神を主神に掲げるこの教えは、俗に〈神殿〉と呼ばれ、五大旧大陸の一つであるこのイゲーア大陸だけでなく、世界全土でその勢力を誇っている。
そしてここは、聖セルゼニザス神教八大聖地の一つと讃えられる、女神に愛された美しい町。
蒼の聖都、エルヴェルク。
この聖地を長きに渡り統べてきた、四つの氏族――四聖家は、聖人エルヴェイダの血脈の末だと伝えられている。
マーセルが生まれたゴートガード家は、その四聖家の一翼。
聖母神に祈ることでもたらされる、神秘の力〈錬祈術〉を行使する、優秀な神官を数多く輩出してきた家系である。
「お父上は、御当主であるだけでなく、素晴らしい錬祈術士でいらっしゃいます」
神殿の先生は、そう言っていた。
―――わたしのおとうさまは、素晴らしい人。
だから、もっとお会いしたいなんて、我儘を言ってはいけない……だけど。
胸の前でずっと握っていた両手を、マーセルはそっと開いた。
「せっかく、じょうずに作れたのにな……」
小さな手の上で転がったのは、トロリと白い小石。修行を積んだ神官にのみ、紡ぎ出すことが可能とされる〈祈光石〉だ。
祈光石は、祈りによってもたらされる奇跡の結晶。
生み出された石には様々な種類があり、それによって力の発現が異なる。神官ではない、錬祈の力が弱い人間にも扱えるため、人々にとって最も身近な女神の恩恵であるといえた。
より力を込めた、純度の高い祈光石を生み出すことは、神殿にとって最も重要な奉仕。
四聖家の嫡女であるマーセルは、生を受けた時より次期神子姫候補として定められた。そのため、幼いながらに、すでに神官としての厳しい修行が課せられている。
「せっかく、先生がほめてくれたのに」
初めて、マーセルが生み出した祈光石。
教師や他の神官たちは、この年齢で祈光石を生成した彼女の才に驚嘆し、狂喜した。
だが、幼いマーセルに、そんなことは分からない。
ただ、単に嬉しくて。父に見て欲しい―――そう思っただけだった。
□ ■ □ ■ □
「お前の、新しい家族だ」
―――数日後。滅多に姿を見せない父が、旅先から帰るなり突然、彼を連れて来た。
伸び放題の真っ黒な髪に、痩せた体。男の子なのに、陶器のように澄んだ白い肌をした子。
同じ年頃の男の子を、こんなに間近で見たのは初めてだった。
「わたし、マーセル。あなたは?」
「…………」
「この子の名前はルカイスだ」
何も言わない少年の代わりに、父の低い声が応える。
「いろいろと、教えてあげなさい」
それだけ言って、父は部屋から出て行った。
手の中の祈光石を握る。幼い少女の胸に、背を向けた父を呼び止め、駆け寄る勇気は無かった。遠ざかる最後の足音が消えたとき、マーセルは暗い気持ちを振り切るように顔を上げ、目の前の少年に笑顔を向けた。
「ルカイス君だよね。だったら、ルカ、って呼んでもいい?」
視線を床に落としたままの少年から、応えはない。だが、マーセルは彼に歩み寄り、その手を取った。
彼女が触れた瞬間、ルカイスは怯えたように全身を大きく震わせたが、それには構わず、マーセルは彼の手の平に祈光石を載せる。
「もらってくれる? 家族のしょうこね」
夜色の瞳が、初めてマーセルを映した。両目を大きく見開いたまま、ルカイスは息を殺すように彼女を見つめ返す。
彼は何の言葉も口にしなかったが、ちゃんと石を握ってくれたのを見止め、マーセルは新しい家族の両手を取って微笑った。
それまでには感じたことのない、お腹の底から温かい気持ちになったあの日のことは、今でもはっきりと思い出せる。
それからの日々、マーセルとルカイスはずっと一緒だった。
いや、マーセルが離れなかったと言った方が正しいかもしれない。
一人きりの食卓ではなくなった。一人きりで遊ぶこともなくなった。広すぎると思っていた屋敷や庭が、彼といれば狭いとさえ感じるようになった。
ルカは、いつも一緒にいてくれる家族が欲しいという、幼いマーセルの願いを叶えてくれた。
ただ、彼自身が、マーセルに何かを願ってくれたことは無かったけれど。