02. 祈りと問いと
「マーセル?」
名を呼ばれ、はっと我に返る。
俯いた自分の顔を心配そうに覗き込んでいたルシアに、ごめん、と笑ってマーセルは周りに視線を巡らせた。
淡い水色と白を基調とした、何処となく神殿内のものにしては装飾過多な部屋の中を行き交う大勢の女たち。華やかな笑い声を立てる彼女らは、皆同様に白い生地、しかし上品かつ洗練された意匠を凝らした衣装を、身にそよがせている。
そして、皆がそれぞれに取り囲み、あれやこれやと熱心にその白い腕を翳しているのは、己が一族の神子姫。
夏の〈双天妃姫〉。
秋の〈紅爛姫〉。
冬の〈月界姫〉。
三人それぞれが四聖家―――テルマチア家、フォンダム家、サルトラム家の姫君である少女らは、朝一の開祭儀礼の時とは異なり、自らが司る季節を表す彩色で身を飾っている。
次の儀式のための衣装変え。儀式毎に纏うものが異なるため、マーセル自身も、先ほどのものとは違った、また違う美しさを持つ薄紅の衣装に着替えている。
どうやら、うとうとしていた間に、髪の飾り付けも終わったらしい。
「どうかしたの?」
銀に白い宝石をあしらった耳飾りを付けられながら、掛けられた声に視線を向ける。
何故か、妙に気遣うようなルシアの表情。そこで初めて、マーセルは自分の頬が涙で濡れていることに気が付いた。
手の甲で涙を拭いながら、夢の中の女も泣いていたと思い起こす。
(―――また見ちゃった)
見知らぬ女が出てくる、あの夢。いつも、どこか悲しくて…………怖い。
「あーもう、こらっ! 顔を擦らない!」
「う、ごめん」
せっかくの化粧がっ、と吠えるルシアにされるがままになりながら、はたかれた白粉に少し咽る。目元や頬にも改めて色を乗せ直したところで、ぐいっと顎を掴まれた。
「ほら、『エ』って口でやってごらん」
「…………エ」
マーセルの唇が『エ』の字を形作ったところで、軽く頷いたルシアが、筆で丁寧に紅を刷いていく。
確かにこうすると綺麗に紅が引けるのだけど……………なんだか、間抜けだ。
きっと傍からみると、とても抜けた顔になってるだろうなぁと自覚しながら、周りを囲む一族の女性たちの視線を必死に堪える。
毎度思うのだが、このときには、どうかぜひ、じっと見つめるのをやめて欲しい。
恥ずかしさや居た堪らなさで滲み出る冷や汗のせいで、せっかく直した化粧がまた落ちてしまう。
やっと顎を解放されると、紅を刷き終えた唇から、ふうっと重い息を吐いて出た。
マーセルの髪に散る、小さな花を模した真珠の髪飾りを整えていたルシアが、鏡の中で首を傾げる。
いつもの青い皇位神官衣ではない、普通の衣装を身に付けた従姉妹の姿は、あまり見る機会がないせいか、とても新鮮だ。真白い衣装と、その肩口に零れた紺色の髪との、色の対比も美しい。
もともと酷く童顔なので、こういう愛らしいものを身に着けるとまるで童女のようで、とても二十二には見えない………などと愚かにも口にしてしまうと、人目が無くなった頃会いに、デコピンが炸裂することになるので、あえて唇を閉ざしておく。
「疲れた?」
「ううん、平気。だって、まだ三つ目の儀式が終ったばかりじゃない」
笑みを作り、そう答える。声も元気に出したつもりだったが、ちょっとわざとらしかったかもしれない。
「何か、暖かいものを飲んだ方がいいわね」
そう言いながら、ルシアが祈光石が入った火鉢を寄せてくれる。いつになく優しい様子に身を引けば、額を軽く叩かれた。
「わたし、レム茶がいいな」
他の一族の女性に、額だけを再びパフではたかれながら、マーセルは手を上げた。そのリクエストに、ルシアは「品に注文つけるなんて、なまいきー」と小声で言い返し、控えの間から出て行く。
その背を見送って視線を返していると、ふと、神子姫の一人と目があった。
艶やかで一切癖のない豊かな緑の黒髪に彩られた、小さな貌。透き通るような粉雪の肌。
その色の中で赤い実のような唇が華やかに色を付け、扇を描く睫毛に飾られた灰色の双眸が、はっきりと彼女の内の鋭さを宿している。
歴代の神子姫の中でも群を抜いて美しいと称されている、麗しい秋の少女。
「あ……」
にこりと笑もうとする。だがその前に、少女は目元を眇め、さっと顔を逸らしてしまった。
上げかけた手の平をしおしおと降ろし、肩を落とす。
(やっぱり、嫌われてるのかな……)
神子第三位、紅爛姫ユイシェル・フォンダム。
フォンダム家当主の姪にあたる、唯一、マーセルと同時期に宣ぜられた神子姫。とても同じ歳とは思えぬ彼女の色香や麗々しさは、いつも人々の感嘆を誘う。
来年、婚礼と共に夏の神子姫を辞するシュジュリアや、幼い冬の神子姫カリナティナとは年齢が離れているため、ユイシェルとは仲良くなりたいのだが……。
いつも通りの彼女の様子に息をつき、腰掛ける自分の足の爪先を何となしに見つめる。
「―――まあ、また?」
他の神子姫に付き添う親族の囁きが、耳に入った。
「今度は町の娘ではなく、神殿の神官の娘だったとか」
「……なんて恐ろしい」
さわさわと、部屋の片隅で女たちが密めき合う。
夕べ、また新たに若い娘が惨殺されたという噂は、マーセルも知っていた。神殿の懸命な見回りや捜索にもかかわらず、犯人はまだ挙がっていない。
マーセルの脳裏に、シェンナという昨日の娘の痛ましい姿が甦った。
それと同時に、もう一つの記憶も繋がったように引き出される。
唇に、指を当てる。
思い起こされるのは、軽やかな花弁ではなく、強く押し当てられ、口を塞いだ熱い感触。
夕べから、ジクジクと疼く胸が痛い。
『――――君に出会わなきゃ良かったって、これまで、ずっとずっと思ってたよ』
その言葉を思い出すと痛くて、悲しくて、息が詰まる。
結局、昨夜は一睡も出来なかった。
あれから、ずっと考えていた。涙が止まってからも、ずっとずっと、必死で考えてみた。
……ルカは、ルカのことが好きだというマーセルを否定した。
怯えさせて、嫌だと言わせた。
――――こんなの、とっても卑怯だ。
だけど、それが分かって、やっと気が付いた。
ルカイスは、自分をとても大切に想ってくれている。
マーセルが、ルカイスを大切に想っているのと同じように。
この気持ちが本当に恋なのか、そうじゃないのかなんて分からない。だけど、これは同情なんかじゃない。
彼を幸せにしたい。
独りでいて欲しくなんかない。彼には、世界で一番幸せな人間であって欲しい。
………だから、わかった。
きっと、自分には彼を幸せにしてあげることが出来ない。きっと、マーセルではいけない。彼は幸せになれない。
だから、あんなに辛そうな顔をする。
椅子の上に立てた膝に額を下ろし、祈るように問う。
(ねえ、どうすればいい?)
―――どうすれば、幸せになってくれる?
ルシアが寄せてくれた火鉢が暖かい。程よい心地よさに、睡魔が襲う。
瞼を閉じたマーセルは、また短い夢を見た。