07. 眩暈
店から店へ連ねられたランプの暖かい光。出店の売り子や旅芸人たちの客引き。
賑わいを楽しむ人々の喧騒が溢れる中、彼女はそれらの一切に気を惹かれることなく走っていた。
街の外れに入ると、さすがに明かりも少なくなる。暗闇に溶けた、覚束ない足元。だが、それにも構わず走る。
いつもの古びた小神殿が見えた。
夜の冷気に凍った黒い鉄柵の扉を、もたれるようにして押す。錆びた音を鈍く立てて開いた隙間に身を滑り込ませ、荒れた庭を越える。
黒く沈んだ庭に長く伸びた、細い緑光の帯。
いつもは閉まっている礼拝堂の扉が、今はわずかに開いていた。その隙間に手を差し込み、夢中になって入り口を抉じ開けると、堂内に響き渡るほどの声量で、彼の名を呼んだ。
「ルカ!」
緑色の祈光で満たされた礼拝堂の中で視線を巡らせば、最奥の祭壇の前にその姿を見つけることが出来た。
彼は、こちらを見下ろしていた。揺らめく緑光と夜闇の影を映した白い面からは、何の感情も窺えない。ただあるのは、その瞳にのみ浮かべられた、酷い悲しみと、やり場のない怒りが混在する光。
しかしそれに気付かず、マーセルは息を切らせながら彼のもとへ駆け寄った。
満面の笑みで彼の前に立ち、喜びに弾んだ声で問う。
「ねえ、屋敷に帰って来るって、ほんと!?」
最後の鍛錬が終ったあと、ルシアにそう告げられた。
ルカが帰ってくる。また、一緒に暮らせる。
そう思うと居ても立っても居られず、一刻も早くと飛んで来たのだ。
「ねえ、いつ? いつ帰ってくるの?」
嬉しさに瞳を輝かせるマーセルの顔を見つめ、ルカは目を伏せた。
「ルカ?」
先ほどから何も言葉を返さない、無表情ながらもどこか沈んだ様子の幼馴染の態度に、興奮していたマーセルも、訝しみながら首を傾げる。
ルカイスは視線を上げ、覗きこむ彼女を静かに見つめ返しながら口を開いた。
「―――聞いたのは、それだけ?」
「……あ……えっと」
言い淀んだマーセルは、そのまま頬を染めて俯いた。
実は、こうも告げられていたのだ。
父様の意思で、ルカイスが帰ってきたら、すぐに婚約が交わされることになっている、と。
「だ、だけど、まだ婚約でしょう? ただの約束だから、今すぐに結婚ってわけじゃないし!」
慌てながら顔を上げ、裏返った声でそう言ったマーセルに、ルカイスは低い声でゆっくりと訊いた。
「君は、それでいいの?」
「え?」
暗闇色の前髪の帳から、一対の夜色の瞳が真っ直ぐに見据えてくる。
その色がどこまでも深くて、あまりにも真剣で。
マーセルは身体を強張らせた。
「―――いいよ? いいに決まって」
「嘘だ」
笑みを作って答えようとしたマーセルの言葉を打ち消すように、ルカイスが言い放った。
断言するような、その言い様。
ムッとしたマーセルは、ルカイスを少し睨む。
「どうしてそんな! だってわたし、ルカのこと、」
「君は、僕のことが好きなんじゃない」
心音が跳ねる。
――――気持ちがバレていた?
そんなの当たり前だ。
だって、マーセルはいつだって隠そうとなんてしなかった。
わたしはルカが好き。
けれど、彼は静かな声音でそれを否定する。
「なんで……」
そんなふうに言うの、と最後まで言えず、マーセルは唇を引き結んだ。
自分を見上げてくる彼女の蒼い視線を、真っ直ぐに受け止めながら、ルカイスが言う。
「君は……僕に同情してるだけだよ」
その言葉に、軋むような痛みが胸に走る。
―――同情してるだけ。
それは、ルカイスに対して、彼女がいつも心の片隅で感じていたものと同じ。
同情?
この気持ちが?
そんなこと……そんなわけないのに。
堪らない思いで、マーセルは声を上げた。
「同情なんてしてないっ、そんなのじゃないよ! 好きなのに。好きって言ってるのに!」
「――――違う!」
その叫びに込められた憤りの激しさに、マーセルはびくりと身体を震わせた。
今まで、こんなに声を荒げるルカイスを見たことがない。驚いて、思わず息を飲み込んだマーセルに向けて、彼は長すぎる前髪をくしゃりと握り、言葉を繋げる。
「僕が独りだから……だから、同情して優しくしたいと思ってるだけだ。君は、その気持ちを恋情と取り違えているだけだよ。……僕なんかのために、君が犠牲になることない」
そう告げて、ルカイスはマーセルから視線を斜めに外した。
自分を嘲笑うためか、彼女を憐れむためのものだかよくわからない笑みを、その口元に浮かべて。
どこか、優しく諭すような口調。
今まで、一度も聞いたことのない声音で。
「……犠牲?」
わたしが?
何故。
なんで、自分のことをそんなふうに言ってしまうの?
むしろ、いつも彼に縋っているのはマーセルの方なのに。
頭がうまく回らない。
いつの間にか溢れだしたものが頬を伝って、冷たい石の床に落ちた。
悲しさよりも、寂しかった。
寂しくて、こんなことを淡々と言ってしまう彼が、悔しい。
マーセルは思わず、手を振り上げた。だが、ルカイスの頬へ下ろされるはずだったそれは、いとも簡単に、彼の手によってあっさりと受け止められた。
歪む視界で、ルカイスの顔を見上げる。涙で声が震えた。
「……ひどいよ……」
「…………君だってひどいよ」
責め返す彼の言葉。
握られた右手の肌に、ルカイスの指先がやけに冷たい。
囁きに近く、声が落とされた。
「どうして、君は一緒に居たいだなんて言える? 僕が何なのかも、何故ここにいるのかも、君は何一つ知らないのに」
「え……」
マーセルは戸惑う。
そんなの、考えたことがなかった。必要ない。
だって――――……、
「だって、ルカはルカじゃない」
彼は、彼以外の何者でもない。
それは出会った時から唯一、変わりのない絶対のこと。
歳月を経て、二人の間に見えない溝が出来ても、それだけは変りようがない。
ルカイスは、ルカイス。
誰よりも、何よりも、大切なひと。
夜色の目が、一瞬だけ、大きく揺らぐ。
だが、直後に彼はマーセルから眼を背けてしまった。散った前髪が、彼の瞳に浮いた感情を覆い隠す。
逸らされかけた彼の心の視線を追うかのように、マーセルは胸の底に溜め込んだ思いを放った。
「ねえ、どうしてこんなこと言うの? ルカはわたしのこと嫌い? わたしがいると邪魔だった?」
「………」
「わたしだって、ずっとずっと思ってた。ルカがわたしに優しいのは、神子姫にならなきゃいけないってこととか、父様のこととか、そういうことに同情してくれてるだけなんじゃないかって!」
―――そうだったの?
「そうじゃないんでしょ?」
マーセルの詰問に、ルカイスは、何も答えを返さない。
「……わかんないよ……」
彼が、言わないから。
何も言ってくれないから、マーセルにはわからない。
「教えてよ、何か言ってよ! ねえ、どうすればいい? どうしたら教えてくれる? どうしたら……」
一緒にいることを、許してくれる?
ふと、マーセルは涙に濡れた面を上げた。
彼女の手首を捕らえる左手はそのままに、頬に触れてきた冷たい指の感触。
瞬きをしたら、また涙が零れた。はっきりした視界に、間近に迫るルカイスの瞳が映る。
「―――じゃあ、もしも」
彼の口唇が、言葉を紡ぐ。
「もしも、僕が君を殺してしまうかもしれないんだって言っても、君は、それでもまだ……僕のこと、好きだって言える?」
低い声。
まるで、ルカイスがルカイスじゃないような。
だけど、それに対する怯えよりも、まるで自分を試すかのような彼の台詞につい、カッとなって、
「決まってるじゃないっ!」
勢いのまま、マーセルはそう言い放った。
だが、口にしてしまった瞬間、彼の顔に浮かんだものを見て、言いようがない後悔に襲われた。
(―――なんで?)
ルカイスは、酷く傷付いた表情をしていた。
痛みに耐えかねたように揺らぐ、夜色の瞳。
手首を摑み続けている彼の指に、痛いくらいの力がこもる。
その後は、何がなんだか分からなかった。
ルカイスはマーセルの身をそのまま引き寄せ、彼女の唇に己のそれを重ねた。
初めての、それも突然のことにマーセルは目を見開き、反射的に逃れようと必死に踠く。
だが、両足に力が入らず、思うようにならない。
抗う彼女を、ルカイスも離そうとはしない。
一度離れた唇はしかし再び、今度はより深く重ねられ、腰の後ろに回された腕によって、身体はさらにきつく抱き寄せられた。
空気を求める度に繰り返される、荒い呼吸の奪い合い。
逃すまいと噛みつくように追ってくる唇の熱に戦慄を覚えながらも、頭の芯を痺れさせるような眩暈に流されそうになる。
それでもなお身を捩ろうとしたせいで、思わず足元が狂い、マーセルの背中が神像を飾り立てた岩壁にぶつかった。
幾つかの像が甲高い音を立てて揺らぐ。
彼女が手にしていた夜食の籐籠が床に落ちた瞬間、中で何かが割れた音が鳴った。
その一瞬。
解放された唇を、なんとか彼の顔から背けた時――――マーセルは思わず叫んだ。
「――――ッ、やだあッ‼」
拒絶の叫びが、神殿の高い天井に大きく響き渡る。
鳴るような反響に、背筋がぞくりとした。
途端に、息苦しいほど胸を突く罪悪感が湧き上がる。
急に、腕を摑むルカイスの指から力が抜けた。
目の前にあった闇色の前髪が遠退き、その間からわずかに覗く夜の瞳が、マーセルの蒼い視線を捕える。
彼女の頬の柔らかな線をなぞりながら、少年の手は静かに下ろされた。
「―――――あ……」
戸惑いの声を小さく洩らした口元を押さえて、小刻みに震えるマーセルに、彼は弱々しく哀しい笑みを浮かべた。
「ね? ……わかっただろう?」
君は、僕に恋してなんかいない。
そして……、
「僕は……君に出会わなきゃ良かったって、これまで、ずっとずっと思ってたよ」
まるで、告白のような囁き。
マーセルは、ふらりとよろめきながら一歩引き下がる。
彼女はそのまま身を翻し、小さな神殿を飛び出した。
■ □ ■ □ ■
紅蓮の炎が、古ぼけた石碑を呑み込む。
それにまつわる全てを消し去るために。
その存在の一切を、否定するために。
「〈視る〉んでしたわよね……確か」
マリー=ベルの呟きに、炎を見つめていた他の二人が振り向いた。
「〈視える〉のなら……わたくしたちと、人間を見分けることもできるのかしら」
もしそうであるならば、あの言葉の意味もわかる。
「なに? 何の話だい?」
主の言葉に、彼女は見開いたままの目を向け、答えた。
「わたくし……会ったかもしれませんわ」
白銀の御使い。
忌まわしき世界への背徳者と呼ばれる―――――『神の堕し児』に。