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トワの奏弦士  作者: 苫古。
◆第3章◆ 月と涙と壊れた鳥籠
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06. 望と望、そして熱

 絶望があるからこそ、希望がある。

 希望があるからこぞ、絶望がある。



 希望と絶望。

 背中合わせの、相反する望みの因果。

 それがもし、それぞれ別の場所、別の要因でもたらされたものであるならば……。





 だが、ただ一つ――――――『共に在ること』。

 


 それが希望であり、絶望となるのならば。

 絶望により、唯一の希望が踏み躙られてしまうのならば。

 





 その先、この世界(トワ)で、どうやって呼吸(いき)をしていけば良いのだろう。


 


 ■ □ ■ □ ■




 あれは、ここに来て数ヶ月くらいのこと。





 庭で、レレニアの花が咲いていた。

 


 オレンジ色の花弁に、甘く香る、明るい緑の茂み。少し視線を上げた先で、低い樹木のその葉影から、薄い水色の衣が漏れていた。

「……ルシアが、捜してるよ」

 声を掛けても、返事は返って来ない。

 ただ、聞こえてくるのは、小さく嗚咽を繰り返す泣き声だけ。


 こんなとき、どんな言葉をかければいいのか。


 これまで、人と関わりを持つことなどほとんどなく、ただ無意識に奪ってしまう自分に怯え続けてきた日々。そんな彼に、女の子を慰められるようなことなど、思い浮かべられようはずもない。

 硬直、という状態に近い姿勢で、息を凝らしたまま、ルカイスは頭上を見上げ続けていた。

 デコボコとした枝に腰掛け、声をかみ殺して涙を流す幼い少女。その背に流れる柔らかそうな栗色の髪が、木漏れ日を綺麗に弾いている。誰かが丁寧に、慈しみながら梳った証拠だ。



 ……自分とは違う。愛されることを、ちゃんと知っている子供。






 正直、ルカイスは、このマーセルという少女が苦手だった。


 あの日。

 彼女の父親の手で、初めて引き合わされた、あの時。


「―――――――ッ!」


 一瞬、大声で叫びそうになった。

 触れられたことが、嫌だったわけじゃない。他人が……彼女が自分に触れてくるなんてことがあるとは、考えもしなかった。


 なんて、危ないことをするんだ!


 そう言いたかったはずの口は、凍ったように開かない。その間も、ルカイスと少女の手は繋がったまま。

 震えそうになる奥歯で空気を噛み、暴れだしそうな狂乱を必死に抑え込んだ。

 

 ―――だって、仕方がないじゃないか。

 ―――この子は、僕のことを何も知らないんだから。

 

 初めて人を殺したのは、いつのことだったろう? 

 物心ついた頃には、頻繁に、紅く濡れた自分の両手を見下ろしていた。


 生まれた時からあった、不可思議な力。


 他人にはないその力は、これまで、宿主であるルカイスの感情に従って発現してきた。

 ……そう、『意思』ではなく、『感情』に従って。

 悲しみ、失望、恐怖。

 どんな人間の内にも存在する、負の感情。

 そんな些細な心の揺らぎに、この力は決壊し、溢れ出る。これまで、刃すらその手にしていないルカイスの前で、幾人もの人間がその身を破壊され、潰れた果実のような骸を晒してきた。


 目に慣れた光景。

 でも、心だけは、慣れてくれはしない。


 自身を崩壊させないために、力を抑え、意思に従わせる術を身につけようと、子供ながらに必死になって足掻いてきた。おかげで、もっと小さかった頃よりは、上手く抑制出来るようになっている。

 でも、それでも完全じゃない。

 手を握られた時、あの時は、大丈夫だった。……でも、次はそうじゃないかもしれない。

 もし、あの女の子を壊してしまったら。きっともう、ここには置いて貰えないだろう。

 そんなのは、嫌だ。

 ここにいていいと、生まれて初めて言って貰えたのに。ようやく与えられたこの居場所を失うことが、何よりも怖い。


 だから、絶対に壊さないように。

 

 あの子には、決して触れないように。


 そうしようと、誓った。




 ―――――――なのに……。







 何で、こんなことになるんだろう。


 さっきよりも更に全身を固くして、ルカイスは恐るおそる息をした。

 勢いよく後ろに腰を着いたのに、痛みを感じない。青く茂った庭草が風に揺られ、身体を支えている肘をくすぐったく掠めているはずなのに、それすらも分からない。

 そんな余裕は、全くない。

「…………ふっ……ぅ………うっくッ」

 乱れ散った黒髪越しに耳に届く、少女の嗚咽。

 首に回された彼女の両手が、しがみつく様にぎゅっと服の後ろを握ってきた。

 その瞬間、何でこんなことになったんだという、この短いうちに数百回ほど自分に叩きつけた疑問を、もう一度頭に浮かべてみる。

 だが、「女の子に抱きつかれる」という、かつてない衝撃的な現象に混乱をきたしている脳では、正常な解を打ち出すことなど適わなかった。


 何を思ったのか、突然木から下り、体当たりするようにしがみ付いてきた少女。


 苦し過ぎて、息が出来ない。

 でもそれが、容赦なく圧し掛かってくる少女の重みのせいなのか、それとも、泣いたせいで熱くなった彼女の頬が、自分の耳元にぴたりと押し付けられているせいなのか、ルカイスには判断出来なかった。


 どれくらい、そうしていたのか分からない。


 硬直したまま、マーセルの為すがままにされていたルカイスは、そっと腕を上げた。

 地面から離したその手で、空気を動かすことすら躊躇うような手つきで、ゆっくりと彼女の後ろ頭に触れる。

 ようやく泣き止めかけていた少女の身体が、ぴくりと動いた。


 ……嫌だっただろうか。


 そう思い、手の平を引こうと、腕に力を入れかける。だが、耳を掠めた、まるで触れられたことを喜ぶような吐息が、彼からその力を奪った。

「……ありがと……」

 涙で湿った、幼い可愛らしい声。それとともに、首に巻き付く腕が強まり、ぎゅっと全身が寄せられる。

 自分と同じ、小さな身体はとても熱くて、その熱はすでに身体の全部に移ってしまっていたはずなのに、もっと奥、胸の奥底まで熱いと感じた。芯から、のぼせてしまいそうなくらいに。




 絶対に、触れないでおこうと決めていた。


 間違って、壊してしまわないように。




 でも、彼がそう決めても、この少女は幾度となく手を伸ばしてくる。

 初めて会ったその時から、躊躇うことなく、当たり前のように。何度も何度も、いつだって……。



「ありがとね、ルカ」

 縋りついていた腕を解いて身を離した少女が、泣いて赤くなった顔いっぱいに、笑んだ。

 目の前で咲いた笑顔に笑い返すことは出来ないけれど、少しだけ、頬を緩める自分がいる。

 そのことに、心の内でひどく驚く。隣に腰掛けて手を重ねてくる彼女に抗うことを、ルカイスはもうしなかった。


 何が、そんなに嬉しいのだろう?


 まだ鼻の頭を赤く染めたまま、彼女は楽しそうに笑っていた。

 ……彼女が何故泣いていたのか、何がそんなに悲しかったのか、ルカイスは知らない。

 でも、いまこの少女は幸せそうに微笑っている。そのことを喜んでいる自分がいることに、幼い彼はまた驚いた。

「ねぇ、ルカ」

 笑みに細められ、温かな昼の日差しを宿した蒼の瞳が、夜色の彼を映す。

 真っ直ぐに映りこんだ自分の姿を見ていると、何だか不思議だった。もう抱きつかれてはいないのに、身体が熱い。

 少女は―――マーセルは、はにかみながら言った。

 


「ずっと、一緒にいてね」



 貰った言葉。

 これからも、ずっと……と。





 その言葉に、頷きを返すことが出来たのかどうか。





 ―――ルカイスは、覚えていない。


 














 独り、神殿の奥壁の前に立ち、緑色の光に踊る小さな像の波を見上げた。


 もうすぐ、彼女がここに来る。

 そして――――――……。


「……貴方がたも、こんな思いをしたのですか?」

 低く洩れた少年の問いに、小さな神々の作り手たちは、誰も答えを返してはくれない。



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