06. 望と望、そして熱
絶望があるからこそ、希望がある。
希望があるからこぞ、絶望がある。
希望と絶望。
背中合わせの、相反する望みの因果。
それがもし、それぞれ別の場所、別の要因でもたらされたものであるならば……。
だが、ただ一つ――――――『共に在ること』。
それが希望であり、絶望となるのならば。
絶望により、唯一の希望が踏み躙られてしまうのならば。
その先、この世界で、どうやって呼吸をしていけば良いのだろう。
■ □ ■ □ ■
あれは、ここに来て数ヶ月くらいのこと。
庭で、レレニアの花が咲いていた。
オレンジ色の花弁に、甘く香る、明るい緑の茂み。少し視線を上げた先で、低い樹木のその葉影から、薄い水色の衣が漏れていた。
「……ルシアが、捜してるよ」
声を掛けても、返事は返って来ない。
ただ、聞こえてくるのは、小さく嗚咽を繰り返す泣き声だけ。
こんなとき、どんな言葉をかければいいのか。
これまで、人と関わりを持つことなどほとんどなく、ただ無意識に奪ってしまう自分に怯え続けてきた日々。そんな彼に、女の子を慰められるようなことなど、思い浮かべられようはずもない。
硬直、という状態に近い姿勢で、息を凝らしたまま、ルカイスは頭上を見上げ続けていた。
デコボコとした枝に腰掛け、声をかみ殺して涙を流す幼い少女。その背に流れる柔らかそうな栗色の髪が、木漏れ日を綺麗に弾いている。誰かが丁寧に、慈しみながら梳った証拠だ。
……自分とは違う。愛されることを、ちゃんと知っている子供。
正直、ルカイスは、このマーセルという少女が苦手だった。
あの日。
彼女の父親の手で、初めて引き合わされた、あの時。
「―――――――ッ!」
一瞬、大声で叫びそうになった。
触れられたことが、嫌だったわけじゃない。他人が……彼女が自分に触れてくるなんてことがあるとは、考えもしなかった。
なんて、危ないことをするんだ!
そう言いたかったはずの口は、凍ったように開かない。その間も、ルカイスと少女の手は繋がったまま。
震えそうになる奥歯で空気を噛み、暴れだしそうな狂乱を必死に抑え込んだ。
―――だって、仕方がないじゃないか。
―――この子は、僕のことを何も知らないんだから。
初めて人を殺したのは、いつのことだったろう?
物心ついた頃には、頻繁に、紅く濡れた自分の両手を見下ろしていた。
生まれた時からあった、不可思議な力。
他人にはないその力は、これまで、宿主であるルカイスの感情に従って発現してきた。
……そう、『意思』ではなく、『感情』に従って。
悲しみ、失望、恐怖。
どんな人間の内にも存在する、負の感情。
そんな些細な心の揺らぎに、この力は決壊し、溢れ出る。これまで、刃すらその手にしていないルカイスの前で、幾人もの人間がその身を破壊され、潰れた果実のような骸を晒してきた。
目に慣れた光景。
でも、心だけは、慣れてくれはしない。
自身を崩壊させないために、力を抑え、意思に従わせる術を身につけようと、子供ながらに必死になって足掻いてきた。おかげで、もっと小さかった頃よりは、上手く抑制出来るようになっている。
でも、それでも完全じゃない。
手を握られた時、あの時は、大丈夫だった。……でも、次はそうじゃないかもしれない。
もし、あの女の子を壊してしまったら。きっともう、ここには置いて貰えないだろう。
そんなのは、嫌だ。
ここにいていいと、生まれて初めて言って貰えたのに。ようやく与えられたこの居場所を失うことが、何よりも怖い。
だから、絶対に壊さないように。
あの子には、決して触れないように。
そうしようと、誓った。
―――――――なのに……。
何で、こんなことになるんだろう。
さっきよりも更に全身を固くして、ルカイスは恐るおそる息をした。
勢いよく後ろに腰を着いたのに、痛みを感じない。青く茂った庭草が風に揺られ、身体を支えている肘をくすぐったく掠めているはずなのに、それすらも分からない。
そんな余裕は、全くない。
「…………ふっ……ぅ………うっくッ」
乱れ散った黒髪越しに耳に届く、少女の嗚咽。
首に回された彼女の両手が、しがみつく様にぎゅっと服の後ろを握ってきた。
その瞬間、何でこんなことになったんだという、この短いうちに数百回ほど自分に叩きつけた疑問を、もう一度頭に浮かべてみる。
だが、「女の子に抱きつかれる」という、かつてない衝撃的な現象に混乱をきたしている脳では、正常な解を打ち出すことなど適わなかった。
何を思ったのか、突然木から下り、体当たりするようにしがみ付いてきた少女。
苦し過ぎて、息が出来ない。
でもそれが、容赦なく圧し掛かってくる少女の重みのせいなのか、それとも、泣いたせいで熱くなった彼女の頬が、自分の耳元にぴたりと押し付けられているせいなのか、ルカイスには判断出来なかった。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
硬直したまま、マーセルの為すがままにされていたルカイスは、そっと腕を上げた。
地面から離したその手で、空気を動かすことすら躊躇うような手つきで、ゆっくりと彼女の後ろ頭に触れる。
ようやく泣き止めかけていた少女の身体が、ぴくりと動いた。
……嫌だっただろうか。
そう思い、手の平を引こうと、腕に力を入れかける。だが、耳を掠めた、まるで触れられたことを喜ぶような吐息が、彼からその力を奪った。
「……ありがと……」
涙で湿った、幼い可愛らしい声。それとともに、首に巻き付く腕が強まり、ぎゅっと全身が寄せられる。
自分と同じ、小さな身体はとても熱くて、その熱はすでに身体の全部に移ってしまっていたはずなのに、もっと奥、胸の奥底まで熱いと感じた。芯から、のぼせてしまいそうなくらいに。
絶対に、触れないでおこうと決めていた。
間違って、壊してしまわないように。
でも、彼がそう決めても、この少女は幾度となく手を伸ばしてくる。
初めて会ったその時から、躊躇うことなく、当たり前のように。何度も何度も、いつだって……。
「ありがとね、ルカ」
縋りついていた腕を解いて身を離した少女が、泣いて赤くなった顔いっぱいに、笑んだ。
目の前で咲いた笑顔に笑い返すことは出来ないけれど、少しだけ、頬を緩める自分がいる。
そのことに、心の内でひどく驚く。隣に腰掛けて手を重ねてくる彼女に抗うことを、ルカイスはもうしなかった。
何が、そんなに嬉しいのだろう?
まだ鼻の頭を赤く染めたまま、彼女は楽しそうに笑っていた。
……彼女が何故泣いていたのか、何がそんなに悲しかったのか、ルカイスは知らない。
でも、いまこの少女は幸せそうに微笑っている。そのことを喜んでいる自分がいることに、幼い彼はまた驚いた。
「ねぇ、ルカ」
笑みに細められ、温かな昼の日差しを宿した蒼の瞳が、夜色の彼を映す。
真っ直ぐに映りこんだ自分の姿を見ていると、何だか不思議だった。もう抱きつかれてはいないのに、身体が熱い。
少女は―――マーセルは、はにかみながら言った。
「ずっと、一緒にいてね」
貰った言葉。
これからも、ずっと……と。
その言葉に、頷きを返すことが出来たのかどうか。
―――ルカイスは、覚えていない。
独り、神殿の奥壁の前に立ち、緑色の光に踊る小さな像の波を見上げた。
もうすぐ、彼女がここに来る。
そして――――――……。
「……貴方がたも、こんな思いをしたのですか?」
低く洩れた少年の問いに、小さな神々の作り手たちは、誰も答えを返してはくれない。




