02. 紅玉茶会
最後の石段から跳ねるように飛び下り、マーセルは風に揺らいだ水色のベールの具合を確かめた。もう少しだけ顔を覆うようにと、深く掛けなおす。
「これなら大丈夫、だよね?」
今日の昼間、あんな騒ぎを起こしてしまったのだ。顔を覚えている人間がいないとも限らない。今はあんな儀式用の服ではなく、平服に着替えてはいるのだけれど。
この青地に白い縦縞を使ったハイウェストの衣装は、マーセルのお気に入りだ。だが、折角の服も、こんなぞろぞろとした長いベールを被っていたら台無しとしか言いようがない。
なにもかもが、どうしてこうなのだろう。腕に纏わりつく薄い布地を苛立たしげに払い、白い奥歯を強く噛む。
「何も、あんなに怒らなくてもいいじゃない。ねぇ?」
大神殿に繋がる長い石階段を不機嫌そうな表情で振り仰いだあと、そのすぐ傍で昼寝をしていた猫に、独り激しく同意を求める。残念ながら、尻尾一つ動かさない猫からの返答は得られなかったが。
大衆の目前で錬祈術を使った先ほど件を、神殿に戻ったマーセルは神官たちから酷く咎められた。事情説明を含め、およそ一刻。そんなことで、秘術であるべき貴重な錬祈力を喚起すべきではないと、彼らはしつこいほどマーセルに語って聞かせた。
それに対し、思わず口から出てしまった反論。
「では、何のためにわたしは修練を重ねてきたというのですか?」
この言葉が、自分を諭さんとする神官たちの考えと平行線になり続けることは、嫌というほど分かっている。だけれど、どうしたって声にせずにはいられない。
生まれながらに与えられていたこの力。――――それがわたしに在るのは、何故?
……確かに、傷付き倒れた人すべてを癒すことは、不可能だ。
だが、今そこで無惨な姿を晒す娘の亡骸に縋りつき、瞼の皮膚が裂けるほど涙を流す女を捨て置くことが正しいのか。
手を伸ばせば、その瞼に触れることができるほど近くにいるのに?
そもそも人一人の嘆きが、些細なことなのだろうか。
「―――ま、ふて腐れてても、しょうがないよね」
拗ねたところで、子供の頃から幾度も浮かべてきたこの問いの答えが、今与えられるわけでもない。
だから、今を楽しもう。―――だって、今日は特別な日なのだから。
気を取り直して、マーセルは前に向き直った。
「わー、やっぱりスゴイッ!」
朝はまだ、屋台の設置だけで開いてはいなかったので、その賑やかさを目にすることは出来なかった。だが今はちょうど、午後の休憩時間だ。仕事の合い間に街へ出てきた人々と、大勢の巡礼者たちで、波のように連なる屋台の通りはごった返していた。
多彩色な屋台の幌屋根と、行き交う人々が身に付けている様々な土地の色とりどりな衣装が舞う。それだけで、普段静かな石造りの街が華やぎで溢れて見えた。
「時間までに帰れるかなあ?」
沢山ありすぎて、どこから回ればいいのかわからない。
今日の午後は、ルシアがお茶に付き合ってくれる筈だったのだが、父様に呼び出されて行ったきり帰って来ない。長時間のお説教で腐っていたマーセルは、疲れたので少し午睡をする、と言ってお茶の用意を断り、こっそり窓から抜け出して来たのであった。
こんなこともあろうかと、前もって神殿の部屋に服を隠し持っていたのは、我ながらお利口さんだ。
「よっし! 頑張れ、わたしッ」
自分に喝を入れ、マーセルは屋台を囲む人込みへ飛び込もうとした。だが、その瞬間、ぽんと肩を叩かれる。
「へ? ッひゃっ!」
振り向こうとした頬に、ピトリと冷たいものが当てられた。
飛び上がりそうになった彼女を見下ろしていたのは、どこか見覚えのある人。
「はは、期待を裏切らない人だなぁ」
赤眼鏡の青年は、おかしそうに笑った。その手には、木の皮で出来た果実水の器。
「あ、昨日の」
変わった人、と言いそうになって、マーセルはあわてて口をつぐむ。
「こんにちは。お手製のサンドイッチ、美味しかったですよ。軽めに焼いたパンが最高だったなあ」
「はぁ。ありがとうございます」
「で、良かったらいかがです? 今度は、俺が奢りますよ」
そう言って青年が指差したのは、祭のために備えつけられた即席のパーラー。
見ると、昨日の朝も一緒にいた銀髪の少年が椅子に腰掛け、テーブルに肘を付いてこちらを眺めていた。少年の手元には、買って来たばかりらしいお菓子の袋が三つ置かれている。
もう一度、屋台の方を見てみる。
(あんなに混雑してたら、きっと買うだけで時間がかかっちゃうだろうし……)
短い休み、時間は有効に使いたい。
どうやら、そんな考えが顔に出てしまっていたらしく、青年がくすくすと笑った。
「じゃ、お願いします」
マーセルも、少し恥ずかしそうに肩を竦めて笑った。
■ □ ■ □ ■ □
神殿からもたらされる奇跡の石、祈光石。
練祈術によって生産されたこの石は、神殿が与える恩恵の品として一般の市場に広く流通しており、その錬度に応じて価値、価格が大幅に異なる。
錬度の低い物は比較的安価で入手し易く、庶民の生活でも日常的に使われている。炊事のための火力から、水の確保、空調、光源への利用など、用途は様々だ。些細な日用雑貨にさり気無く用いられていたりと、多くの人々は通常、認識しているよりも遥かに沢山の祈光石に触れて生活している。
誰にでも扱えるこの石の利便性に、慣れ切ってしまった世の中。
だが、いくら低い価格設定がなされているとはいえ、それを大量に購入し、事業に役立てるとなれば話は変わってくる。
その代表的な例が、農生産業。
この世界で農業を営む者は皆、火、水、地といった複数の祈光石を用いて、季節外れの作物を生産することを夢みる。
しかし、まず第一に、これらの石を長期的に入手することが非常に困難だという事実が、彼らの前に大きな壁として立ち塞がる。
その大きな原因となるのが、祈光石の原料である〈星水〉と呼ばれる聖水。星と呼ばれる細かな光の粒子を含んだこの水は、折々の季節により、その濃度が変化する。
多く星を含んだ高濃度の〈星水〉は、錬度の高い石や大量の生産を一時に行うのに非常に適しているが、春と秋を迎えた時期にしか採取出来ない。
もちろん、星の薄い〈星水〉でも、祈光石の生産は十分に可能だ。ただし、一個当たりに使用される水量が増加するため、市場への石の放出は大幅に制限される。当然、一般家庭への配分が不足しない程度の規制。人々の日常生活に支障をきたすことはない。
ただ、石の独占を防ぐための法により、この時期、一部の人間による一時の石の大量購入も禁じられていることから、必然的に、農業従事者たちの野望は潰えることとなる。
では、濃度の高まる春や秋に、石を確保すればいいじゃないかとなるが、世の中、残念ながらそういい具合に事は運ばない。たとえ、市場への制限が為されていない時期であっても、一定以上の祈光石を購入する際には、高額の税金が課せられるという、鬼のような法も並列して存在するのだ。
もし仮に、大量の祈光石を入手出来たとしても、元手が高額であれば、市場に並べられた時、一商品当たりが恐ろしい価格になるのは必至である。折角の収穫物も、買い手が付かなければ意味がない。
ここまでくれば、お手上げだ。
個人が行うの農作物生産では、祈光石は絶対に使えない――――これが、この世界の農業従事者たちが、涙の河を経た末に弾き出した共通意識だった。
だがしかし、こんな厳しい世の中にも、一縷の光如き、唯一の例外が存在する。
――――それは、神殿から特別な加護を得た、極少数の農業地帯。
そこでは、特例として神殿から与えられた祈光石を、思う存分ふんだんに使うことが許されている。もちろん、使用に際し、余分な課金が課せられることもない。
まさに、一般農家からすれば、楽園のような場所。
更に、厚遇環境自体の魅力に加え、そこで育てられた作物も神殿の祭事―――祭典などが行われる地のみで、期間限定市場に出回るという、見事な希少性っぷり。
これで、農夫(婦)魂が揺さぶられないわけがない。まあ、数年に一度行われる職員試験では、若干名の募集にも関わらず受験者が怖ろしい倍率に膨れ上がり、熾烈な闘争が繰り広げられるという事実は、また別の物語であるとして……。
祈光石の存在自体のみならず、それによってもたらされる恩恵そのものが、神殿の〈威信財〉として機能していることは確かだった。
――――もちろん、今回の祭典においてもそう。
秋から冬にかけての果実であるはずの林檎。甘く陽光を弾く紅い実は、この春の祭典を寿ぐ特別な材料の一つとして、街のいたるところで扱われていた。
「わぁ、何ですかコレ! おいしー」
ほこほこと湯気を立てるトロッと崩れかけた林檎に、小さな木のヘラを刺しながら、マーセルは目を輝かせた。
「何って、焼き林檎のカラメルソース煮。食べたことないのかい?」
「…………」
「あのー」
「無理でしょ。彼女、焼き林檎でいっぱいいっぱいみたい」
「そ、そっか」
ほろ苦い甘さをうっとりと楽しんでいたマーセルには、二人の会話さえ耳に入らない。
屋台で買い物をする機会があまり無かったので、この菓子は初めてだ。要チェックリストに加えて、ルカイスにも教えてあげなければと思う。
ぺロリと食べ終えて、ヘラに付いた最後のカラメルソースを、口の中で惜しみながら味わう。その時になってようやく、自分の食いっぷりに呆れる二人分の視線に気付き、マーセルは顔を真っ赤にした。
「ご、ごめんなさい!」
「いやいや。喜んで貰えたみたいで嬉しいですよ。おかわりいる?」
青年は、まだ手を付けていない、自分の焼き菓子を指差す。
―――欲しいけど。
「大丈夫です。これで十分ですから」
マーセルは、なんとか理性を見せつけた。
「ごめんなさい。さっきから、一人でバクバク食べちゃって」
「ホントだよ。そんな勢いで食べてると、太るよ」
「………あ、ぅ」
「お前が言うなよ。さっきからずっと、クレープばっかり食べてるくせに。てか、それ今日だけで何個目なんだい?」
「七つ? 旅の途中じゃ携帯食ばっかりで、ロクなもの食べさせて貰えないし。なんか、クセなっちゃうよね。―――果実水も」
「はいはい。ご注文どおり、買って来ましたよ」
「悪いね」
悪いとは微塵も思っていない様子で、銀髪の少年はクレープ片手に、冷えた果実水をごくごく飲んだ。そんな調子なので、この幼い少年の方が従者だと、マーセルは全く気が付いていない。
「仲、いいんですねー」
「はは……………………そう見えます?」
「ええ。なんだか、羨ましいです」
「そ、そう」
ちょっと肩を落とす青年の向かいで、マーセルはにこやかに手を打った。
「あ、そうだ! 今さらなんですけど、お名前教えていただけますか?」
「なんと。ホントに今頃だよね」
「……うぅ」
「おい。お前だって、まだ彼女に名前教えてないだろ? ヒース=クラウン」
ポンと頭を叩かれた銀髪の少年の名に、マーセルはきょとんと目を見開いた。
「〝ヒース=クラウン〟?」
「そう。それがコイツの名前。それで俺がウィ―ド=セルです」
「……ウィード=セル?」
二人の名前を聞いて、マーセルは急に腹を抱えて笑い出した。
「どうかしました?」
「だ、だって、冗談でしょ?」
「え、何故?」
「だって、ウィ―ド=セルって『悪い魔法使い』の名前じゃないですか。童話に出て来る」
それは確か、遠い異国の、子供向けの童話。
悪い魔法使いが、月のように美しい王女・銀月姫を攫ってしまうというお話。
「それに、ヒース=クラウンも」
物語の中で、銀月姫を救うために魔法使いの塔に向かう、金の王子の名だ。
「……へぇ。本、好きなんですね。この大陸で、その話を知っている人間は、ほとんどいないと思いますけど」
「幼馴染が本の虫だから。わたしもつられて読むようになったんです。以前、ここに巡礼でいらっしゃった遠方の方がそれを知って、わざわざ送ってくださって」
「ふぅん、そんなことが。人脈が広いんですね。さすがは、〈白花の姫君〉と謳われるだけのことはある」
〝レイファーシャ〟。そう呼ばれ、マーセルは表情を強張らせた。
ウィード=セルが、その呼び名を口にしたことにも驚いた。だがそれより、今はさっきの母子のことが頭に浮かんでしまう。
「ごめん。この呼び方、嫌いでした?」
ウィード=セルが気遣うように覗き込んできたので、マーセルは慌てて胸の前で両手を振った。
「いえ、そんなこと……。さっきの騒ぎ、ご覧になってたんですね」
「奇跡、とみんな言っていたけれど。本当に素晴らしかったですよ」
「そんなことないです。ただ、ちょっと珍しいだけです」
「嫌なのかい? その力。あんなにみんな喜んでたのに」
マーセルは遠くを見るような目つきで、弱く笑んだ。
「わからないんです。……少し、怖いと思うときはありますけど」
力が、ではなく―――人が。
先ほどの必死に縋ってくる母親の姿が、再び瞼裏に浮かび、マーセルは目を伏せる。
お願いだから、もう許して……。 期待に応えることなんて出来ないんだから――――……!
願われる度、讃えられる度、叫びそうになる。己の無力さが、胸を裂く。
「……わたしはただ、繋げ方を他の人より、少しだけ多く知っているだけです」
ただ、それだけのこと。それだけなのだ。
「繋げ方?」
ウィード=セルが、興味深そうな表情で身を乗り出してきた。
「はい」
イメージは、〈門〉。
女神の元へと通づる、祈りの流れを送るための扉。
一つ一つの呼吸から得た大気を練るように神経を集中させ、身の内の何かを呼び起こすように、それを押し開く。
「……門、ね」
「あ、私の勝手なイメージですよ? って、何でこんな話しちゃってるんだろ。ワケわかりませんよね」
「いや……何となく、分かるかなぁ」
「え?」
「ま、それも『イメージは』ってことだけなんだけどね」
はあ、と頷きつつ、マーセルは少し驚きながらウィード=セルを見つめた。この感覚の説明を、彼が理解してくれるとは思いもしなかったのだ。
もしかして、彼は高名な錬祈術士だったりするのだろうか? 確かめてみようと、マーセルが口を開きかけた時、唐突に、
「なんで、〈白花の姫君〉なの?」
口周りについたカラメルソースを、ハンカチで優雅に拭いながら、ヒース=クラウンが尋ねてきたので―――マーセルは、問いかけようとしたことを忘れ、少年に向き直った。
「この辺りに伝わる、古いお話から来ているのですって」
「それも、僕らのみたいな御伽噺?」
「ううん。大昔、本当にあった話だって。その中に『白い花』っていう名前の、凄い錬祈の力を持った神子姫が出てくるの。その方も癒し手を持っていたって云われてるから、癒し手を持って生まれた神子姫は、みんな〈白花の姫君〉って呼ばれるんです」
「へぇ。どんな話なんですか?」
「大切な妹を殺めた恐ろしい悪魔を、その命と引き換えに永遠に封じ込めたっていうものですよ。わたしが知ってるのは子供向けに作り直されたお話だし、何百年も前の伝承だから、本当のところは良く分からないんですけど」
「ふーん、なるほど。よくある伝説だね」
よくあるものなのだろうか。というか、あったら嫌だなぁと、マーセルは口元を歪めた。
最後に甘いジュースを飲み、そろそろ戻らなきゃと、マーセルは席を立つ。
「これから、お二人は観光の続きですか?」
「うん。まあ、ちょっと人と待ち合わせてるんですけどね」
「どんな人ですか? あッ! もしかして、『銀月姫』だったり?」
「そう、当たりィ」
「スゴイッ。お姫様もいるなんて、ホントにお話通りなんだ」
「性格は物語の中の姫と、かなり違うけど」
「ははっ、言えてるねぇ」
それを言えば、ウィード=セルとヒース=クラウンの違いようだって、かなりのものだと思ったのだが、マーセルはあえて口にしないことにした。
そもそも、思いっきり偽名を使うこの二人。
本当はもっと警戒すべきなのだが。何故だろう? もう本当の名前なんて、どうでもいいような気分になってしまっている。―――しかし、
「でも、ね。悪い魔法使いさん。あんまりその名前、ここでは使わない方がいいと思うの。誰かがわたしみたいに物語を知ってて、変に疑われたら大変ですよ?」
「おや、どうして?」
「もう! わかってて言ってるでしょう? ここは聖地なの。もし、間違われて異端審問官に捕まっちゃったらどうするんですか」
「………」
「………」
無言のまま自分を見つめる二人の視線に、不可思議な光が混ざったことに気付かないまま、マーセルはその言葉を口にした。
「―――〈魔導士〉だ、って」