10. 癒しと贖い
エルヴェルク大神殿は、街の中央に位置する小高い丘の上に建てられている。
青い屋根を連ねる古い都を一望する神殿の正面には、庭園や墓地に囲まれた広く長い参道が続いていた。
柔らかな春の息吹に囲まれ、霞むような日差しに光る白石の階段。彩を纏った幾多もの花々は甘やかな芳香を放ち、透き通るような常緑の木漏れ日が、通りゆく者に爽やかな心地よさをもたらす。
その麗らかな風景に反し、マーセルは少々むくれた顔でルカイスの隣を歩いていた。
「ルカって、いつの間にレーナス様と仲良くなったの?」
「―――は?」
何を言い出すんだという顔で、ルカイスは彼女を凝視した。
先ほどの、あの青年と自分との間に流れていた険悪な空気。あれに晒された結果、こんなことを言い出す彼女の思考回路が全く分からない。
「だって、さっきあだ名で呼ばれてたでしょう?」
「……そこか」
どうやら彼女の中では、愛称の使用がかなり高度な親度評価基準になっているらしい。
まあ、神殿に居る限り、最高位の神子姫であるこの少女を、あだ名で呼ぶ人間は皆無なのだろうし、彼女自身が他の神官の愛称を呼び捨てることもないだろう。
だからといって、レーナスと自分の仲がいいなどという、とんでもない解を弾き出す幼馴染に、頭痛を覚えないわけではないが。
「〈柱の君〉って、変わった名前だよね。何ていう意味?」
「知らなくていいよ」
突き放すようなルカイスの口調に、マーセルは唇を尖らせた。
ルカに知り合いが出来るのは嬉しい。だが、自分が知らない所で愛称を付け合うほど親しい友達が出来ていたとなると、ちょっと面白くなかった。
「ルカのバカ。レーナス様とは、ケンカするくらい仲が良いってゆーのに、わたしにはあだ名の意味すら教えてくれないのねっ」
「……僕と喧嘩したかったの?」
「ちーがーう――ッ! そういうことじゃなくて、わたしが言いたいのは……って、あら?」
行く先の階下に人集りが出来ているのを見つけ、マーセルはルカイスの上衣の袖を引いた。
「どうかしたのかな?」
どうやら、騒ぎの中心は関所の辺りのようだ。神官と神殿兵だけではない。参拝者や市民を含む民間人も大勢混ざっている。
「おお、神子姫だ!」
「〈白花の姫君〉!」
自分に気が付いた集団から声が上がって初めて、マーセルははっとした。
そう言えば、儀式用の衣装を着たままだった。でなければ、神殿の人間はともかく、一般の人たちにマーセルが神子姫だと分かるはずがない。
急いで神子姫の仮面を取り繕い、近くの兵士に声を掛けた。
「この騒ぎは?」
「それが……」
言いよどむ神殿兵から人だかりの方へと、マーセルは視線を移した。
―――――女が泣いていた。
若くはない。丁度、マーセルの母が生きていれば、彼女と同じくらいの年齢だろう。
女は、大きな板の上に横たえられたものに縋っていた。板に掛けられた厚い布の下の膨らみは、まるで―――……。
「まさか」
隣でルカイスが息を飲み、鋭く呟いたのが耳に入る。見ると、彼は何故か、酷く悔やむような顔をしていた。
どうしたの、と口を開きかけたその時、泣き伏せていた女がマーセルを振り仰ぎ、
「神子姫!!」
と、喉の皮膚が切れてしまいそうな、悲痛な声で叫んだ。
「お願いです! どうか、娘を、娘を!」
娘の遺体に掛けられた布を摑み、涙で腫れた目で母親は必死に訴えた。彼女の側に居た男が、苦しげにそれを諌める。
女が自分に望むものに気付き、マーセルは表情を曇らせた。
一瞬、重い耳鳴りに襲われ、黒い染みに足元が呑まれそうになる感覚に囚われる。
マーセルが〈白花の姫君〉と呼ばれる由縁――――癒しの力。
でも、癒す力は決して、呼び戻す力ではない。
命の灯火を失ってしまった者に、再び明かりを灯すことは出来ない。
これまで、何度も目にしてきた光景。
幾多も寄せられてきた想い。
それに応える力が、自分に無いのを知っている。
(――――だけど……)
「マーセル」
ルカイスの制止を手の平で遮り、マーセルは女とその娘の遺体に歩み寄った。そのまま、母親の隣に腰を下ろす。
希望に縋るような目で自分を見つめる女に向かい、マーセルはそっと首を横に振った。
「そんな……っ」
女の顔が絶望に歪み、震えた両手がその嘆きの表情を覆おうとした。
だが、マーセルの手がそれを柔らかく遮る。
「お願い、泣かないで……」
そっと落とされた囁きと、女の両目を塞ぐように当てられた柔らかい手の平。
その手の内から、透き通った白い花が綻ぶように、あたたかな光が溢れる。
少女が手を離すと同時に、女は声を洩らして自らの瞼に触れた。
―――痛みがない。
震える指先で確かめる。幾度も涙を擦ったせいで、傷だらけになって腫れていた女の目は、跡形もなく癒されていた。
「神子姫様!?」
癒しの力に驚き呆然としていた女は、近くから上がった声で我に返り、自分の死んだ娘と同じ年頃の神子姫を見やった。
彼女は何を思ったのか、亡骸を覆う布の端を持ち上げ、中を覗いている。あまり大きく開きはしなかったが、中を見てしまった者は小さく悲鳴を上げた。
……無理もない。
女の娘―――シェンナの亡骸は、弄ばれたかのように、全身が細かく切り裂かれていた。
一番酷いのは、おそらく致命傷となったであろう首の傷。刃物で切られたものではない。まるで果実を指で握り潰したかのように肉を断った、そんな痕。
マーセルは、無言で娘の長い髪を撫でた。
生前は美しかったのだろう。だが、今は血で固まり、どんな色だったのかさえわからない。
髪に触れる指を止め、マーセルは切り刻まれ、半ば崩れかかっている娘の手に、自分の両手を絡めた。
そして――――、目を閉じる。
布の下から白い光が溢れた。生じた風がふわりと布を剥ぎ、下の亡骸をさらけ出す。
母親の喘ぐような声が、辺りに響いた。
「ああ……ああ、シェンナ……シェンナ」
誰もが息を飲んだ。
そこにあったのは、傷ひとつない少女の亡骸。
乾いた血こそ取れてはいないが、痛々しい死の痕はどこにもない。ただ、眠っているだけのような、安らかな顔。
マーセルは眠れる少女から両手を離し、息を吐いた。
「女の子、だから。せめて綺麗にしてあげたくて。……でも―――」
生き返ったわけではない。
ただ、骸の傷を癒しただけ。
「……いいえ……いいえ。もう、十分です」
傷一つ無い、しかし冷ややかな娘の頬を撫でながら、女は震える声で応えた。
そんな母親の横顔を見つめながら、マーセルは黙って立ち上がる。そして、彼女のために道を空けた人々の間を通り、ルカイスの前まで来ると、ふらつくように歩みを止めた。
その時――――、
「有難うございます」
背後から掛けられた言葉に、マーセルは俯く。
「…………」
花の色を刷いた少女の唇が、小さく言葉を作る。
だけれど、それはあまりに小さくて、誰もその音を拾うことは出来なかった。
ただ一人…………
――――ごめんなさい
微かなその贖いを耳にしたのは、多分、隣にいたルカイスだけだろう。
■ □ ■ □ ■ □
「……おい、見たよな?」
「うん」
噂に名高い〈白花の姫君〉の奇跡。
その一部始終を目にし、賞賛で湧いている人々の中に、他の人々とは違う意味で驚いている二人があった。
「あんなの、有り得ない。理論から完全に外れてるじゃないか!」
「……そうだね。自己の生命力を一時的に増幅させ、傷を癒すっていう『こっち』の理論では、あれは成り立たない。それに―――――」
一緒にいた少年と別れ、独り神殿へ戻っていく少女の後姿を見つめながら、銀髪の少年は双眸を細めた。
気になるのは、先ほどの光。
「さっきの、〈錬祈術〉だったのかな?」
「さあ? 俺は錬祈術を全部見てきたわけじゃないからねぇ。違うと思うのかい?」
「僕にも、はっきりとはわからないけど。ただ、どちらかというと、あれは錬祈の力っていうより、むしろ……」
そこで言葉を止め、ヒース=クラウンは隣の主を見上げた。
赤硝子に遮られ、瞳からの主の感情は窺えない。
―――――ただ……、
「なーんかさ、思ってたより結構面白いところだと思わないか? 聖地って」
ウィード=セルの口元が、薄い笑みを描いた。