09. 願望と囁き
「ルカイスが来ているのですか?」
両手を肩の高さに上げたまま、マーセルはくるりと身を回して振り返った。
祭典のために用意された神子衣装。その最終的な調整を行うため、布地を待針で留めようとしていた神官が、急に動いた神子姫に、小さく悲鳴を上げた。
慌てて膝を突こうとする若い女神官の肩に手を置き、少女はにっこり微笑んで詫びる。
「ごめんなさい。貴女のせいではないのだから、顔を上げて?」
神子姫としての最上級の微笑。感動する神官たちを余所に、マーセルはルシアの方へ向き直る。
「今、彼は?」
そう問う声音は、あくまで淑やかだ。
「さあ。そろそろ、アルザス様との謁見を済ませて帰る頃だとは思いますが」
傍の椅子に腰掛け、樹皮紙に羽ペンを走らせているルシアも、神官らしい丁寧な口調で答えた。
人目がある時は、互いにきちんと振舞うという約束だ。いつもの調子だと、神子姫であるマーセルは小言を食らってしまうし、神官に過ぎないルシアはお給料を減らされてしまう。
「……ルシア」
「何でしょうか、神子姫?」
小首を傾げて微笑んで見せる姫君に、ルシアもニコリと笑みを返す。
「そろそろ、お茶の時間ではないかしら?」
「さっき、昼食を終えたばかりと記憶しておりますが?」
「……そうでしたね。衣装合わせのためにと思って、あまり口にしなかったから、つい」
「そうですか。そこまで祭典の準備に、御心を砕いてくださるなんて。さすがは春の称号を冠する神子姫! 教育係として、わたくしは感涙にむせんでしまいそうです。ささ、では一刻も早く衣装を―――」
「あ、えと! わたくし、せっかくだから、この衣装で部屋の外を歩いてみたいわ。その方が、ちゃんと丈に合っているかどうか確認できるでしょう?」
「まあ、待針を付けたままで行かれるおつもりですか?」
「幸い、まだ一本も留めてないの。ね?」
急に話を振られた神官は、妙に迫力のある神子姫の笑顔に、コクコクと頷いた。
マーセルが、顔をルシアに向け直す。非の打ち所がない姫君の仮面を面に貼り付けながらも、その蒼い瞳は懇願と期待に輝いていた。
ルシアは、苦笑を噛み殺すように息を吐く。仕方ないわね、と思いつつもそれを表には出さぬよう、あくまで優雅に、ペンの白い羽先を部屋の扉の方へヒラリと振った。
「衣装を汚したりなさいませんよう」
途端に、少女の表情が面白いほどの速さで、明るい本物の笑顔を咲かせた。
「では、わたくしは失礼します。皆さんも、少しお休みになって」
スカートを広げて礼をとる神官たちにそう言い残し、マーセルは淑やかに部屋から退いた。
回廊から、少女の静やかな足音が聞こえる。天井が高い石造りのため、思った以上に音が反響するのだ。
姫君の小さな足が奏でる、ゆったりとした音。少し遠ざかり、聞こえなくなりそうな所まで来たとき、その調子が急に軽やかなものに変わった。
外に響いた、空色の石床を蹴る楽しげな音に、部屋に残った神官たちが顔を見合わせる。
そんな神官たちの様子を横目に、ルシアは込み上げてくる笑いを必死に堪えた。
■ □ ■ □ ■ □
「その分だと、アルザス様はようやくその気になってくださったようだね」
聞き覚えのない声に、緩慢に振り向いた。
その先には、やはり見たことのない青年。
二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。さらりとした黒髪に涼しげな空色の瞳。背の高い、整った顔立ちをした男だった。
「それにしても早かったなあ。夕べ、少しだけ他家の傍流の人間に話を流しただけなのに。もうウチの当主様に、誰かが催促をつけてくれたなんてね。やっぱり、業深きフォンダムあたりを選んだのが勝因か。君はどう思う? ルカイス・フィルス君」
不敬罪を免れないような台詞を言ってのけただけでなく、自分の名を知っていた青年に対し、ルカイスは目を細めた。
彼の警戒を読み取ってか、青年はおどけた様に肩を竦める。
「ああ、なぜ私が君を知っているのかってことかい? 君の存在を知らされている人間は限られているはずだからね。君が不審に思うのも無理はない。でも、名前くらい知っておいて欲しかったよ。もうすぐ親類になるんだから」
「あなたは……」
青年を険のある目で見つめ返し、ルカが汗ばんだ両手を握り締めた時、
「るーかッ」
たんっ、と床を蹴る軽やかな音の後に、ルカイスの腕に柔らかいものが巻き付いた。
彼に気付かれないように、そっと歩いて来たのだろう。驚くルカイスの隣で、彼女は洗練された、いとも優雅な一礼を青年に贈った。
「ごきげんよう。レーナス様」
「お久しぶりです、華鏡姫。お変わりありませんか?」
彼の至極丁寧な返礼に、マーセルが少し拗ねたように眉を顰める。
「まあ、以前も申し上げましたわ。貴方は、姉ともいえるわたくしの大切な従姉妹の、伴侶になられる方ですよ? もう兄上も同然です。マーセルとお呼びください」
「そうでしたね。お許しください、マーセル様。おや、祭典の衣装ですね。よくお似合いですよ」
「ありがとうございます」
はにかみ、マーセルは軽くスカートをつまんで見せた。幾重にも重ねられた、薄い桃色の衣装の裾がふわりと踊る。
無邪気な神子姫と対しながら、優しい好青年の笑みを浮かべるレーナスに、さき程までの皮肉気な雰囲気は見られなかった。
ルカイスは、胸の底から息を吐く。
どうやら、この青年はあの『マーセルの従姉妹』の婚約者らしい。ならば、自分のことを知っていても、おかしくはない。
そう考えながら、ふと、ルカイスは自分の腕にマーセルの手が触れたままなのを思い出し、身を硬くした。
それに気が付いたらしい彼女が、彼を不思議そうに見上げる。
春の花弁を纏ったかのような細い身体。それが動く度に、首や肩に掛けられた細やかな装飾品が銀の音色を立てる。
覗き込むようなマーセルの視線から、ルカイスは逃げるように顔を逸らした。
「どしたの? ルカ」
「別に」
「そう? 何かヘンだよ。……もしかして、父様に何か言われたの?」
「何でもないよ」
目を逸らしたまま、嘘を吐いた。
こんな嘘を吐いても、どうせすぐにばれる。でも、どうしても、彼女に自分から伝える気には、到底なれなかった。
「だったらいいんだけど」
ほっとしたように、マーセルが微笑みを零す。
見慣れたはずの笑顔だ。それでも、眩しいものを見たかのように、ルカイスは思わず目を細めた。
「―――良かったね。もうすぐ手に入る」
見透かすように囁かれた言葉に、ルカイスは背筋を震わせ、顔を向けた。
表向きは好意的な、しかし、どこか得体の知れない微笑を絶やさない青年。ルカイスは底なしの夜色の目で、それ見やる。
これまで何度も見てきた、眼。今、レーナスが自分に向けているような視線を、ルカイスは良く知っていた。この色を宿した眼を彼に向ける人間が内に抱くのは、大であれ小であれ、同じ情念。
「あなたの望みは、何だというのですか」
その声音は静かで透明だったが、レーナスに対する怒りが明確に込められていた。
(……珍しい。ずいぶんと御立腹だな)
これまで幾度か、目の前の少年にたいする監視の任を任されたこともある。彼は、基本的に感情を動かさない大人しい気性をしていたはず。だがどうやら、それも物事の対象によっては均一である訳ではないようだ。
ふ、と息を抜かし、レーナスは少年の隣に立つ少女をちらりと見る。
姫君は困ったように、彼を見つめ返してきた。自分の幼馴染とレーナスとの間に流れる危なげな空気に、少々戸惑っているようだ。
そんな彼女に向けて―――しかし心の内では彼女の幼馴染に向けて、柔らかい笑みを滲ませる。
レーナスは知っている。
ルカイスはレーナスを恨む一方で、きっと自分自身を責めるのだろう。
この少女を不幸にしてしまうのは、それでもやはり自分のせいなのだと。
居場所を欲した、自らの欲の為なのだと。
「君と同じだよ」
レーナスは、ルカイスが求めた答えを口にした。
少年の眉間が訝しげに寄せられる。
「何が……」
「そして、君と同じようにはなりたくない。これが私の望みだ。もういいかな、〈柱の君〉?」
そう呼ばれ、ルカイスの眦が跳ね上がるように吊り上がった。
それを横目に、マーセルが首を傾げる。
「〈柱〉? なに、それ?」
無邪気に少年の袖を引こうとした彼女へ向け、レーナスがはぐらかすように問いを投げた。
「マーセル様、祭典の準備の方はよろしいのですか?」
彼の言葉に、あ、と表情を揺らした神子姫は頬を軽く染め、照れながら答える。
「ちょっとだけ抜け出して来たんです」
「……だったら、早く戻った方がいいよ。僕も、もう帰るから」
そう言うなり、ルカイスがマーセルの手を腕から解いた。
「え? もう帰っちゃうの?」
「うん。――――では、失礼します」
少年はレーナスに軽く一礼をし、すたすたと回廊を歩き始める。マーセルはあわてて従姉妹の婚約者に別れを告げ、幼馴染の跡を追いかけた。
彼らの後ろ姿を、にこやかに見送る。
「そう、僕は君みたいに諦めたりはしない」
空色の目を細め、レーナスは己が身に纏う青い神官衣を見下ろした。
刻み付けるように、心の内で呟く。
自らの望みを、絶対に諦めたりはしない――――――――――。
レーナスさん、私の中では結構お気に入りキャラだったりです。そのうち、ルカより出張りだしたりして……。