08. 守られた誓い
彼女が示した、あの天使像に対する恐怖心。
彼女は、知らない筈なのに。
――――あの像が存在する理由を。
あの瞬間、ふと、彼の頭に一つの考えが浮かんだ。しかし、すぐに自嘲とともにそれを打ち消す。
(そんなはず、あるわけない)
永きに渡り、同様の行為を繰り返してきた聖家の血統。
しかし、そんなことが起こったことは、一度たりともないのだという。だから、マーセルの身にも、それが起こり得るはずはない。
……そう、彼女が、自分と同じである筈がない。
「具合悪そうだから、今夜はやっぱり部屋でよく休んだ方がいいよ」
そう言うと、マーセルはムキになって「来るったら来る!」と言い張り、そのまま帰ってしまった。
本当に大丈夫だろうか。ルカイスは未だ、深い不安に捕らわれていた。
―――あのときから払い切れない、一つの思いつき。
閲覧許可を得ていた封印図書の中で、関わりがありそうな書物を漁っていたせいで、出かけるのがすっかり遅くなってしまった。
急いで完成させなければならない像にも、今朝はまったく手を入れていない。
(マーセルが同じなはずがない)
そんなことがあってはならない。だが、マーセルは四聖家の娘。しかも、〈華鏡の神子姫〉の地位に在るほど、桁外れの錬祈力を持った。
二千年の歴史を誇る、青の聖都エルヴェルク。
今まで、先祖返りが起こったという記述は、やはり遺っていなかった。だが、長い歴史の中、繰り返し行われて来たこの行為によって、起こるはずのない、起こってはならないことが現実に現れ始めている。―――――そうだとしたら?
いつもより深く自分を捕える疑念。
じっと座して思考するに堪えられず、答えを探して闇雲に走られずには居れない、激しい焦燥が胸を焼く。
ここまで焦るのは、四聖家の血に関わることだからか?
この地に在ることを許されたときに課せられた、義務という名の枷に関する事柄だからなのだろうか。
(……いや。たぶん、違うんだろう)
そんなこと、どうだっていい。
聖都と呼ばれるこの場所や四聖家がどうなったとしても、真の意味で心の奥底が揺らぐことはないだろう。
たぶん、こう考え続けてしまうのは、本当は期待しているからなのだ。
もしも、彼女が自分と同じ、神に背徳するものであるならば―――――と。
■ □ ■ □ ■ □ ■
「ルカイス・フィルス様ですね?」
応対に出向いた若い神官は、ルカイスの腰に下がっている房飾りを確認し、頭を下げた。
房飾りを手で掬い、見つめる。黒い糸を独特の意匠で編みあげた房と、それを彩る繊細な白糸の刺繍。これは、四聖家ゴートガード家に連なる者だと証明する印。
神殿では、自らの家紋を房飾りとして身に付ける因習がある。一族ごとに異なる房飾りの造形や装飾は、その人間の出自、身分を明らかにする。
ルカイスにとって、捨てることが出来ないものの一つ。
「公師アルザス・ゴートガード様がお待ちです。こちらへ」
マーセルから伝えられたアルザスの命に従い、ルカイスは数年振りに大神殿に赴いていた。
神官に連れられ、回廊を渡る。
黙した石畳に響く、静かな足音。沈黙が礎とされる神殿の空間も久方ぶりで、どこか懐かしい。
そんな中で、昔与えられた言葉を、ルカイスはふと思い出した。
『―――お前に、居場所をやろう』
あの時もこんなふうに、前を行くあの人の影を辿るようにして歩いた。
彼が自分にしてくれた約束を信じたいと思う心と、そんなことが本当に実現されるのだろうかという、疑念を抱きながら。
結果として、彼は嘘をつかなかった。
幼かったルカイスとの約束を果たしてくれた。それが彼とルカイスを、よりいっそう苦しめることになっていても。
間違いなく、彼は約束を果たしている。
「どうぞ」
神官は大きな扉の前で足を止めると、一礼して、扉の横に立った。ルカイスは口を閉ざしたまま、その白い扉を見上げる。
立派な扉の中央には、ゴートガード家の象徴である、白百合紋章の彫り込み。
小さく息を吐き、ルカイスは二度扉を叩いた。しばらくして、内側から低い声が応える。
静かに扉を引いて中に入ると、部屋の主は奥の書斎机に着いたまま顔を上げた。彼に向い、ルカイスはゆっくりと頭を下げる。
「お久しぶりです」
「……そうだな」
そう答えて、アルザス・ゴートガードは、手にしていた羊皮紙の束を机の上に下ろした。
■ □ ■ □ ■ □ ■
目の前に立つ少年と最後に会ったのは、確か三年前の今頃だった。
街のはずれに建つあの小神殿を与えて欲しいと、彼が願い出てきた、あの時。
―――何故、わかったのだろう。
あれが、彼と同様に此処へ連れて来られた人々が、何代にも渡って造り続け、伝え続けてきた小さな聖域なのだと。
「大きく、なったな」
呟くように口にしたその言葉に、少年の返答はない。
声が聞こえなかったのか、それとも返す言葉が見つからないのか。しかし、その夜の色をした瞳は臆することなく、アルザスを真っ直ぐに見据えていた。
(変わるはずだな……)
今朝、久しぶりに言葉を交わした一人娘を思い浮かべる。
まっすぐな栗色の髪。淡雪の肌と細い身体。そして―――何より、あの顔立ち。
哀しいほど彼女に酷似したあの容姿の中でただ一つ違うのは、自分と同じ蒼い瞳だけ。
朝靄の中、屋敷の門から娘が出て来たあの時、アルザスは思わず名を呼んでしまいそうになった。
―――もう、何年も前に失った妻の名を。
「どうかされましたか?」
ルカイスの問いかけに、「いや……」と首を横に振り、アルザスは椅子から腰を上げて、少年と向き合った。
「随分と遅かったな」
もう午後に入っている。もっと早い時間に来るだろうと思っていたアルザスに、
「申し訳ありません。……どうしても、今日中に完成させたい像がありましたので」
ルカイスは嘘をついた。
「そうか」
養い子の言葉に、アルザスはあっさりと頷く。ルカイスが作り出す物と仕事、そして、その意味をよく理解しているからだ。
少年が手掛けているのは、彼にしか生み出すことの出来ない特別な代物。ルカイスが作ったものを目にしたことはないが、妻のものならば、作っているのをよく隣で眺めたものだ。
それらは今も、ルカイスが住む、あの小さな神殿の奥壁に飾られているはずだ。
「もう、そちらの仕事は済んだのか?」
「いえ……まだ」
「そうか。では出来る限り早く片をつけろ。明日からは祭典。多くの人間が集まる場所に、影を残すことは避けたいのでな。――――それに……」
そこで言葉を濁し、アルザスは沈んだように口を閉じた。
今朝、ジオラルムから伝え聞いた聖地への侵入者の話を、ルカイスにしておくか迷う。
例の侵入者が、もし仮にこの養い子の存在を知っているのならば、接触を図ろうとするかもしれない。手渡された調書の中にも、そのことを危惧するものがあった。―――だが、
「いや、なんでもない」
アルザスは、彼に伝えないことを選んだ。
ルカイスを信用していないわけではないが、むやみにこの情報を広める行動は避けるべきだ。それにどうせ、今日彼に伝えなければならないことが、結果的に奴らからの接触を防ぐ一つの壁になる。
この件に関しては、前々から決断を早めるよう、他の三家や親族たちから圧力をかけられていた。そんなものは跳ね除けたいところだが、今回ばかりはアルザスも頷かざるを得ない。
―――何が公師だ。己の無力が口惜しい。
アルザスはこれ以上、この少年に辛い思いをさせたくなかった。
「お前は一刻も早く使命を全うする事だけを考えろ」
「はい」
確かに、今回の仕事には時間がかかりすぎていると感じながら、ルカイスは頷いた。
何かが起こってからでは遅い。急がなければと思う。
しかし、今この瞬間、彼が一番気に病んでいるのは、そのことではなかった。
ルカイスは一度視線を絨毯に落とし、唇を固く引き結んだ。再び顔を上げて、ゆっくりと切り出す。
「……アルザス様。今日は何故、私をお呼びになったのですか?」
三年間、約束通り何も言って寄越さなかった養父が、自分を呼んだ。
いつも最初から用件を切り出すアルザスが、このときに限って濁すような話題を口にする。
ここに来いと伝えられたときから、予感はしていた。
今はただひたすら、それが杞憂であることを祈るのみだ。今は、まだ――――。
アルザスは瞼を伏せた。深い溜息のあと、ひたと少年に視線を据える。
その目を見て、ルカイスは不安が現実であることを知った。それでもまだ、アルザスの言葉を実際に耳にするまでは信じたくないと思う気持ちが、彼の胸を締めつける。
養父は静かに、しかし、逆らう事を許さない声で告げた。
「屋敷に、戻って来い」
……一番怖れていたこの言葉。
分かっていた。いつかは聞く事になると。だが、それでも―――。
「ルカイス」
「わかっています。わかっていますから……どうか、貴方が気に病まないでください」
ルカは、静かに微笑んだ。
■ □ ■ □ ■ □ ■
諦め、受け入れるために浮かべられた笑み。
アルザスは、ルカイスから目を逸らした。
『お前に、居場所をやろう』
―――かつて彼にそう言ったのは、自分。
確かに、アルザスは少年に居場所を与えた。――――だが……。
部屋を辞すルカイスの背中が、扉の向こうに消える。
「すまない」
アルザスは、閉じた扉に詫びた。
本当に安らげる場所を与える事が、アルザスには出来なかった。いや、初めから出来るはずがなかったのかもしれない。
自分自身の居場所。それですら、アルザスは守り通すことが出来なかったのだから。
ルカとパパでした。二人は仲良し。
目標・明日!! とか昨日に宣言しておいて、日付が変わってしまいました。大変申し訳ございませんっ。まだお日様が昇ってないからセーフってことで。どうぞ勘弁してやってくださませ。