07. 哀しみと霧の乙女
いつものように、ルカイスは作業の準備を始めた。黒い前掛けを身に着け、作りかけの像を作業台の上に乗せる。
台の中央にあった布を開いて、一昨日に完成したあの有翼の天使像を取り出し、横に並べた。対になるよう形作っているこの二体の大きさを比較し、調整するためだ。
微笑の中に哀しみを湛えた乙女と、未だ貌を持たない霧の乙女。
無表の面に感情を刻み、彼女らにどんな魂を宿らせるかは、作り手たる自分次第。
ルカイスは手元に置いた平たい木箱の蓋を開け、その中から一本の彫刻刀を選び取った。
きちんと手入れされた鉛色の刃。
鋭い刃先を乙女の頬にそっと当てて、精神を凪がせるよう、長く細い息を吐く。
そのとき―――――、
「……イヤ」
静寂の中、ポツリと零された呟きの後に続いて響いた、何かが割れる音。
ルカイスは刃物を手にしていることも忘れ、反射的に勢いよく振り返った。
目に入ったのは、少し離れた位置に立っているマーセルの姿。
何故か呆然とした表情で、こちらを凝視している。足元には、割れてしまった白いカップの破片が散っていた。
「マーセル?」
「―――――……まって」
「え?」
歩み寄ろうと足を向ければ、マーセルは怯えたように一歩下がった。そのまま、何かを堪えるかのように両手で頭を押さえ、よろめきながら立ち止まる。
「―――それ、どこかに……」
「それって――――?」
真っ青な顔色と、小刻みに震える細い両肩。
彼女の視線を辿れば、その先にあるのは、一対の像。
「早く……それ――どこかにしまって! ……お願い」
訳が分からないが、とにかく頷く。
ルカイスは手早く二体の像を布に包み直し、保管用の木箱の中へ投げ込むように片付けた。
■ □ ■ □ ■ □
壊してしまいたい。
あの白い翼を捥ぎ取ってしまいたい。
滅茶苦茶に砕いて、潰して、打ち捨ててしまいたい。
―――いっそ、この世から消し去ってしまいたい。
一瞬の、跳ね上がるような心臓の鼓動。
その後に生まれた、あの小さな像への凄まじい嫌悪感を、マーセルは必死に押さえた。不気味な恐怖感が全身を冷やし、指先が凍る。
(昨日見たときは、何ともなかったのに……)
浅く繰り返される呼吸。その息苦しさに喘ぐ下で、自分の身体が示した異常な反応に戸惑う。
「大丈夫?」
胸元を握り締めたまま立ち尽くしているマーセルに駆け寄り、ルカイスがその青ざめた顔を覗き込んできた。少し迷う気配のあと、宥めるような彼の手が、彼女の肩の上に置かれる。
マーセルはそっと視線を上げ、一生懸命に笑みを浮かべた。
「あはは……ヘンだよね。ごめんなさい。―――疲れてるのかな? わたし……」
「うん―――そうだよ、きっと」
そう言って頷いてくれたルカイスの優しさに、マーセルは微笑を深める。
己の言い訳がましい台詞。彼だって、内心は納得などしていないはずだ。疲れが溜まっているからといって、ただの像を急に怖れたりする訳が無い。
「マーセル、気分は?」
逸らすような気遣いの言葉だと分かっていても、その声音に滲んだ思いやりの響きが嬉しい。
「へーキ。ごめんね、ほんとうに大丈夫だから」
「でも……」
「大丈夫だってば。―――あ、そうだ。言い忘れるところだった。父様がね、今日神殿に来て欲しいって」
無理やり話を切り替えると、マーセルは足元のカップに手を伸ばした。
「あーあ、ごめんね? 今夜来るとき、新しいのを持ってくるから」
でないとカップが足りなくなってしまう。ルカはここに、二つしか置いていないのに。
「……アルザス様が?」
呆然とした表情で、ルカイスが問い返す。話題を遠ざけるのに一生懸命だったマーセルは、その変化に気付かなかった。
「うん? そうだよ。ここの進行状況がどうか、ルカから直接聞きたいんじゃないかな」
「―――……そう」
ルカイスは暗く陰った瞳を伏せ、静かに項垂れた。
■ □ ■ □ ■ □
しばらくして、彼はマーセルと同じように腰を下ろし、一緒にカップの破片を拾い始めた。
何を思ったか、突然にぽつりと問う。
「アルザス様とは、大丈夫?」
唐突な問いに、マーセルは身体を強張らせた。だが、笑みを作って返す。
「うん。大丈夫だよ?」
何が大丈夫なものか。
今朝の遣り取りを思い返しながら、そう自嘲する。
ルカイスは、彼女の応えに曖昧な調子で頷いた。その仕草が何故か、彼女の心をすべて見通しているように感じられて、居た堪れなくなったマーセルは睫毛を伏せた。
―――もしかして、同情してる?
同じ屋敷に住んでいたルカイスは、父とマーセルの親子関係を知っている。そして、そのことに彼女が苦しんでいることも。
(……だから、ここにわたしが来ることをルカは拒みきれないし、我儘にも付き合ってくれる)
マーセルが抱いてきた寂しさや餓え。それを埋めてきたのが自分だという認識があるから、優しい彼は幼馴染である彼女を無下に扱ったりしない。
頭では良く分かっている。だけどそう思うと、なんだか恥ずかしくて、とても哀しい。
そんな考え事をしていたせいか、
「――――あ」
手元が狂って、破片の角がマーセルの指を裂いた。
赤い血の玉がぽつりと浮く。涙が頬を伝うように、凍えた指に紅い線が走る。
マーセルは傷口を手で拭おうとした。錬祈の癒しは、他者を癒すことはできても、彼女自身を癒すことは出来ない。
傷ついた指を疎かに扱いかけたその時、ルカイスの手がそれを横から掴んで止めた。
「考え事してるからだよ」
そう咎めつつ、夜色の瞳が傷の深さを慎重に確かめる。そして、少し躊躇してみせたあと、彼は傷口をそっと口に含んだ。
……凍えた指先に暖かい熱が伝わってくる。
それは同情ではない、彼の自分への思いやりのように思えて――――――たまらなくなった。
指の痛みは感じない。
だけど、なんだか、痛みで泣いてしまいそうだった。
ルカイスの暖かさ。それが優しすぎて、痛くてたまらなかった。
小さな優しさ。
彼にとっては、たぶん何でも無いこと。
なのにそれに簡単に舞い上がったり落ち込んだりしてしまう自分が、どうしようもなく愚かで、駄目で、情けない人間なような気がして―――――――――。




