06. 白い背中
食後のレム茶。茶葉独特のほんのり甘苦い味が、口の中に広がった。
寒い朝は、温かいこのお茶に限る。
「ねえ、今晩、来てもいい?」
カップから最後の一口を飲み込もうとしていたルカイスは、思い切りむせた。
「どうしたの?」
涙で滲んだ視界の中で、きょとんとした顔のマーセルが首を傾げている。危うくレム茶で溺死しかけたルカイスは、口元を拭いながら呆れた顔で彼女を見やった。
「ダメかな? 明日は祭典だから来れないでしょ? だから今夜、一緒に夜食たべようよ。かなり遅くなっちゃうけど、ルカは起きてるよね?」
―――そういう意味か。
「まあ……」
紛らわしい言い方に苦情を呈したいながらも、心底胸を撫で下ろすことに忙しかったルカイスは、ボンヤリと気か抜けるように応じた。その肯定の言葉に、目の前の少女が表情を輝かせる。
「だったら決まり! 約束だからね? 絶対に寝ちゃダメだよ。ま、寝ててもまた起こすけど」
少女の妙な脅しに思わず頷いてしまったあとで、込み上げてくる苦々しさに、ルカイスは密かに唇を噛んだ。
この幼馴染は、自分が何を言っているのか全然分かっていない。彼女のこういう方面への疎さは、今に始まったことではないが。
そもそも、毎日こんな場所に来ることにも、ルカイスは未だに賛成出来ない。
マーセルは四聖家主家の姫で、エルヴェルクの象徴たる神子姫。いくらここが聖地であるとはいえ、その治安も完全なものではない。下層の民にとって、彼女は格好の獲物だろう。
勾引などを防ぐため、おそらくは彼女に知れぬよう、道中の警護を付けているのだろうが、もしものことだってある。
それに―――こうして、彼女が〈柱〉たる自分の所へ通って来ることを、ゴートガードの人間や他家の一族がどのように思っているかを思うと……。
「どうかした?」
間近に覗き込まれて、はっとする。
いつの間にか、彼女に見入っていたらしい。
茶の御代りを要求していると思ったらしく、マーセルはティーポットを持ち上げたが、ルカイスは首を横に振った。
変なルカ、と彼女は笑う。ルカイスはその姿から視線を逸らした。
この笑顔を真っ直ぐに受ける資格はない―――そう頑なに彼女を遠ざけようとする自分。
それと同じ場所に、正反対の相容れない想いを抱く自分がいる。
(―――どうか、僕に向けて微笑わないで欲しい)
ルカイスは傍らに置かれていた作りかけの像を手に取り、少女の隣から立ち上がった。
■ □ ■ □ ■ □
(嫌、だったかな?)
白い職人服の背を見つめ、マーセルは視線を膝の上のカップに落とした。
街中の人々が祭典の時を楽しむ時、ルカは独り、忘れられた存在であるかのように、その時間を過ごす。
独りでいるのは寂しい。
それを、痛いほど知っている。
だから、当日に一緒にいることは出来ないけれど、せめて前夜祭くらい一緒にと思ったのだが。もしかしたら、またルカを困らせてしまったのかもしれない。
ルカイスは昔から、人前や人込みに出るのを好まなかった。彼が進んでやる事と言えば、趣味の彫像作りや読書くらいのもの。しかも、それをするのはいつも、誰も来ない広い庭園の木の下。
マーセルが、まだ神子姫ではなかった頃。そんな彼を祭に誘い、戸惑っているのを半ば無理やりに連れ出した。
箱入り暮らしのマーセルたちは小遣いなど貰っていなかったから、当然何も買えない。でも、そんなことは全然気にならなかった。
光の花々が咲き誇るように彩られた屋台の波。思わずお腹がなりそうな香ばしい匂いや、甘く舌を蕩かす蜜菓子香り。通りを行き交う人々の笑い声。輝かしいばかりの髪を花で飾り、楽しそうに駆けてゆく着飾った娘たち。始まりも続きも知らない遠い世界の物語を爪弾き語る、不思議な異国の音楽。
目が回るような喧騒と活気の中を、二人で夢中で駆けた。まろぶように着いてくるルカイスと決して逸れないように、繋いだ手をしっかりと握って。
それは――――マーセルの中で、最も大切な思い出の時間。
でも、ルカにとっては?
作業台の前に立つ、彼の後姿。
真っ直ぐに延ばされた白い背中ばかりを見つめるようになったのは、いつからだった?
こちらに向けられたそれが、彼の気持ちを表しているように思えて―――……。
マーセルは眉根を寄せ、悪い考えを払うように固く目を閉じた。カップに残ったレム茶に口を付け、冷えかけた胸に温かさを注ぐように飲み干す。
空になった白いカップの底で、天井の祈光が踊っているのを眺めながら、マーセルは心の内で独り言つ。
(ダメだな……、わたし)
今まで全く悩んでいなかったと言えば嘘になる。だが、最近、妙にくよくよしてしまう。どうしようもなく不安で仕方がない。
―――ルカと一緒に居られることが、嬉しい。
ずっとずっと一緒に居て欲しいから、彼と居る時は笑っていたい。明るく振舞っていたい。
今までは、自然にそう出来た。
だけど、今はルカの態度にいちいち深く考え込んでしまう。今日なんて、特に変だ。
父様にお会いしたせいだろうか?
……そうかもしれない。
だけれど、それも変な話だと、胸の内で自分を嗤う。父親に会う事に、何故ここまで苦痛を感じなければならないのだろう。
(……ああ、でもそう言えば)
マーセルは他にもう一つ、気持ちを沈ませるものに思い当たった。
もしかすると、あれのせいかもしれない。
あの―――――――――――、
(――――悪夢)
いつもお立ち寄りくださっている皆様! 本当にありがとうございますッ!!
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PVの数字が沢山あった日には、一人で小躍ってます。仕事の疲れも吹き飛ぶってものです。
……カーテン越しに、そのシルエットが外に見えてないと良いのですが。心配です。